〈ひと〉の現象学 (ちくま学芸文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480099655

作品紹介・あらすじ

知覚、理性、道徳等。ひとをめぐる出来事は、哲学の主題と常に伴走する。ヘーゲル的綜合を目指すのでなく、問いに向きあいゆるやかにトレースする。

感想・レビュー・書評

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  • 日本の哲学者の権威ということで手に取ってみた。これがなかなか深い!読んでいて頭の中を駆け巡る自分の思考と対峙する時間は、とても意義深い。哲学書を読み味わう時間は、とても「ならでは感」を味わえる。
    顔は一瞬しか存在しないという言葉が一番印象的だ。

  • やっと読み終わった!!!!めちゃくちゃ付箋貼りながら読んでた

    >一つのまなざしで見つめられると、それに従うか拒絶するかの二者択一しかなくなる。オール・オア・ナッシングの対応しかできなくなる。

    エスキモーの赤ん坊はめったに泣かない
    >肌の接触から子供の要求を察知し、先回りしてすべての欲求をみたしてやるのである。
    >赤ちゃんは、この極楽のような羊水と、お母さんの子宮の壁にとてもべったりになります。その居心地のよい母胎の液体からいよいよ産み出されると、体温よりずっと低い温度の気体に包まれます。そうなると、赤ちゃんは皮膚感覚が刺激され、敏感になっていきます。ここから、赤ちゃんの子宮回帰が始まります。つまり、子宮のような空間や温かい人肌を求めていきます。
    共通の皮膜
    >個体は分離から生まれる。分離は皮膚の引き剥がしとして感受される。個体は二度号泣しないと生まれない。ひとが人生の行路でなにか行きづまるたびに、生まれてこなかったほうがよかった、ないほうがあるよりいい、と思わざるをえないのは、どこか存在を分離としてしか描けないところがあるからだろう。
    >物がわたしとは無関係なものとしてただそこにあるということ、その事実が、わたしが取り残された存在なのだという疼きを強いてくるとも言えよう。
    >〈わたし〉は一つの損傷として、あるいは存在のダメージとして生まれた。
    >濃密であるはずの存在は、じつは必死で密封し、繕われねばならない塊として「幻想」されるしかないものだ。だから、おのれを掻きむしることでひとはその塊としてのおのれのなかに立てこもろうとする。そういう意味では、自身の皮膚への攻撃も、「〈自我〉の境界線を維持し、無傷のまとまった存在であるとの感情を再建するための劇的な試み」として解釈できる。

    >ただわたしがそこにいるだけで、それだけの理由で「存在の世話」を享けたというのは、わたしがのちに紡ぎだした後づけの物語である。そうである以外にわたしがその後生き存えることになった理由は考えられないというだけのことである。その物語がいまの〈わたし〉の存在の皮膚を縫っている。
    >この幻想にひとは生涯、翻弄される。おそらくは齢を重ねるにつれてより深く。それほど感謝が厚いのは、あるいは傷が深いのは、いうまでもなくそこに自己の存在の根拠が賭けられているからだ。

    >相対主義者の議論を憂うときに反相対主義者が依拠しているのは「人間(ホモ)」という「コンテクストに拠らない概念」である。「最小限の装備、本体価格だけのhomoと、正味のみ、添加物一切なしのsapiens」へと約められた、いわば文化抜きの人間概念である。ここに持ち込まれるのは、自然主義的な説明をとるばあいなら「人間の本性」であり、合理主義的な説明をとる場合なら「人間の心性」(お好みならば「知性」や「深層心理」と言ってもよいし、遺伝子や大脳の構造を想起してもよい)である。複数の文化をつらぬいて、そういう不変項もしくは「定数」が見いだされるはずだというのである。

    > わたしたちがもし自分が見ている世界の外についに出られないのだとしたら、多様性の称揚はそのまま、人びとは独我論的な世界をしかもてないという主張に反転してしまう。多様性の議論が、人びとを彼らの世界のなかに隔離し、幽閉しようという《認知論的アパルトヘイト》の主張になってしまう。

    >他なるものとの遭遇においては《原文のない翻訳》があるばかりなのである。このことは個人としての自己理解・他者理解についても言えることであろう。ここで問題なのは、他者がつけているレンズの屈折率をみずからのレンズの屈折率のなかに翻訳することではなくて、翻訳不可能なものの存在との接触がみずからのレンズの屈折率そのものをずらし、変えてしまうという、その変換の出来事である。

    >けれども、「わたし」として統合された人格は、あくまでそのつど"統合されてある"のであって、もともとそのような人格がそれとしてあるわけではない。生きるというのは他なるものとのたえざる遭遇のなかにあるということであり、そのつど「わたし」の存在は綻び、繕いなおされる者である。そのつど多方向に逸脱し、さらにそれを微修正してゆくというかたちでたえず編みなおされるものである。繕いも編みなおしもかなわず、ときに弾けてしまうこと、瓦解してしまうこともある。いずれにせよ、「人格の統一」という正常態とその異常態としての「多重人格」がらあるのではなく、したがってまた正常/異常を測る不動の規準というものがあるのではなくて、人格はつねにその偏差を生み、またそれを組み換える不断のプロセスのなかにある。

  • 新聞のコラムを読んで、好きになり、
    より鷲田さんの話を聞きたいと思って、読んだ。

    生きる営みの中で、身近な話題を今まで見ていなかった見方で考えていて
    とても面白かった。
    ただ、難しかった。

    「家族は葛藤のるつぼ」と言う表現が面白かったことと
    決まりや縛りは内外から来るものであると言うこと
    恋愛は、記号を読み解くもの、
    また、共通点があるからこそ、そこから引き剥がそうと考え、
    タブーとして考えていると言うことがとても面白かった。

    共通点に関しては、嫉妬の部分とつながるところはあり、
    近しいからこそ、嫉妬もそこから遠ざかることを求めているのではないだろうか。

    また、様々なところで解釈や記号がキーワードになっているような気がした。
    人はいかに記号を読み解き、意味を見出しているのか、がわかった。

  • 「「死んだら死にっきり……」。たしかにそうである。が、そうしたつぶやきは「死なれる」側への思いを断ったとき、たった独りきりのときにのみ口にできる言葉でしかないのではないか。」

    この言葉に、『死の講義』(橋爪大三郎)を読んでモヤモヤしていたものを、すとんと言い当てられた。
     
    抽象度の高い内容からスタートするので、呑み込むまでに時間はかかる。けれど、非常に重要な議論が満載。後半、死や身体に関わる話題になってきてからぐっと読みやすく感じられたのは、おそらくそれに関連する書籍をここしばらく厚めに読んできたから。なので、咀嚼しきれていない箇所については、また読書の範囲を広げながら理解を進めていきたい。
    あと、レヴィナス、そのうちちゃんと読まなきゃなー、と思った。鷲田先生や内田先生の本を読むたびに思っては思っただけになっているのだけれど……。

  • 『人』を形作るもの、『人』が『人』としてあるための条件を他者=「顔」との遭遇から始まり、こころの領域、愛憎と確執、個としての自由、市民性、多様性、人間的であるとは何か、そして死という事象を知覚、自己意識、理性、権利と契約、道徳と倫理といった哲学の主題と共に繙いていく。難しくて少し解らない部分も多少ありましたが興味深く読みました。一番興味を惹かれたのは第2章の「こころ」、第4章の「恋」、第9章の「ヒューマン」、第10章の「死」。「わたし」が「わたし」であるためには必ずそこには他者の眼差し、存在がなければ成立しないということ、「こころは贈与の対象になりうるーーそれと認めてもらえなかったり、拒絶されたりすることはあっても」「こころとは、わたしの手元に残ってしまったもの、なのだ。そして、わたしのこころに残されたままのこのこころは、重く悲しい。引き潮の思いに満たされて重い」。誰かを思う時、その人の輪郭を辿りながら実は「わたし」の輪郭も共に辿っているのが、恋や愛なのではないかなと思いました。

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著者プロフィール

鷲田清一(わしだ・きよかず) 1949年生まれ。哲学者。

「2020年 『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鷲田清一の作品

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