承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480433954

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  • "キャラが同一性にのみ奉仕する記号であり、キャラの相互的・再起的確認がコミュニケーションの主たるモードであるとすれば、それが成熟という「変化」に対して阻害的に働くであろうことは容易に想像できる。(p.223)"

     「承認」をテーマとして、精神科医である筆者が様々な媒体に発表した文章を書籍にまとめたもの。出典が様々であるために、同じ説明が数箇所で重複しているなど1冊の本として見たときには不満があるが、示唆的な記述が随所にあり刺激になった。あと、表紙の女の子がかわいい。
     まず、筆者は現代社会において"操作主義"と筆者が呼ぶ価値観が前景化していると指摘する。操作主義とは、"目的や価値のいかんにかかわらず「コントロール可能な状態」を維持することのみを偏重する態度(p.184)"のことである。この操作主義が見られる例として、筆者は俗流心理学(『心理学化する社会』参照)、手軽に泣きや笑いを消費するためのサプリメント・カルチャーなどを挙げる。最近の例としては、脳科学ブームや映画の倍速視聴(映画を映像作品としてではなくコンテンツとして捉える点)、○○ガチャ(親ガチャ、配属ガチャ等々)、所謂「なろう」小説での「レベル」や「スキル」といったゲーム的な「異世界」(個人の価値がレベルの高低やスキルの有無で記述される点)がこれに当てはまるだろうか。
     なかでも筆者が操作主義の現れとして大きく取り上げているのが、若者同士のコミュニケーションに見られる「キャラ」と「コミュ力」偏重である。「キャラ」とは、ある集団内での個人の立ち位置・役割のことを言い、"同一性を伝達(p.220)"する記号である。「キャラ」が「アイデンティティ」と異なるのは、それが客観的な評価軸や自己イメージではなく、間主体的な個人のコミュニケーション能力「のみ」によって決定される点である。個々人の「コミュ力」には優劣があるので、これによって「コミュ力」に一元的に支配された上下関係(スクールカースト)が生じることになる。キャラ文化の最大のメリットは、お互いの立ち位置がはっきりしているのでコミュニケーションが円滑化される点である(丸山真男『日本の思想』収録「「である」ことと「する」こと」にあった江戸時代の身分社会に関する記述を思い出した)。元々の性格がどうであれ、一様に「キャラ」の枠組みの中で事が済んでしまう。一方そのデメリットは、承認を全面的に他者に依存してしまっているところにある。よって、承認を得るために他者が自分に何を期待しているかその顔色を常に伺わなければならない。若者にとって「幸福」と「不幸」を分かつのは仲間とのコミュニケーションとそれによる「承認」の有無であり、その承認のあかしとなるのが「キャラ」となる。
    "複数性と流動性に開かれた「キャラ」に依拠した「承認」は、場合によっては「空虚さ」以上の苦痛をもたらすだろう。問題は「無意味さ」ではなく、むしろ「不本意な意味(=キャラ)を強要されること」なのだから。(p.255)"
     筆者はさらに、精神分析の観点から「キャラ」を解離性同一性障害(DID)における交代人格との関連で論じる。交代人格には"「名前」があり、年齢、性別、おおよその性格傾向や趣味嗜好といった明確な「スペック」(p.213)"が与えられており、記述不可能な「固有名」を持たない。
    "いわゆる「固有名」とは「欠如としての主体」に与えられた名であり、確定記述の束に還元できない一つの無意味な刻印である。この刻印において、主体の単独性(かけがえのなさ)と可算性(人類の一員、といった匿名性)という相矛盾する属性が両立している。これが精神分析的な「人間」のモデルである。
    しかし昨今の操作主義的な風潮のもと、固有名への信仰は急速に衰弱しつつある。「人間」は可能な限り操作可能、すなわち記述可能な存在へと書き換えられていく。そして記述可能性に開かれることは、固有性を喪失して匿名性へと向かう方向でもある。そこには同時に複数化の契機も含まれている。(p.217)"
    このような人格のキャラ化の問題点は、一度与えられたキャラからの変化・成長が、仲間同士での関係性を破壊するとして抑圧・排除される点にある。「変わらなさ」への確信は、実際に筆者が臨床の現場で若者に対して感じていることでもあるという。
     ここまでは現状の分析だが、筆者は人格のキャラ化の原因として「社会の成熟-個人の未成熟」という視点を示す。
    "そもそも操作主義化の前提には社会の成熟化があり、社会の成熟は個人の未成熟化をうながす。つまり、キャラとは、個人がもはや成熟を要請されない社会における存在様式の一つと考えられる。(p.219)"
    僕自身は「成熟」を自明のものと考えていたので、(精神の)成熟が身体的成熟のアナロジーで捉えられる以上、身体性の変化に伴い"あらたな精神の自由と安定のスタイル(p.227)"が生まれるだろうという予測は衝撃的だった。
     単行本の初版は2013年なのでちょうど僕が中学生だった頃なのだが、僕が鈍かったのか、学校におけるスクールカーストについてはあまり実感がない。しかし、「あいつはいじられキャラだから」みたいな物言いは僕も普通にするし、「キャラ」という概念に慣れ親しんでいるのは事実である。昨今の風潮(の少なくとも一面)を「操作主義」、そして「キャラ」と「コミュ力」で説明する試みは、非常にうまくいっているように思えた。言語化できずにモヤモヤと感じていたことを、スパッと整理してくれた一冊だった。惜しむらくは、冒頭に書いたように説明が重複しているのと、各章が短いのもあって論理展開の説明が不十分に感じた箇所があった。

    思春期解剖学
    1 若者文化と思春期
    2 終わりある物語と終わりなき承認
    3 若者の気分とうつ病をめぐって
    4 「良い子」の挫折とひきこもり
    5 サブカルチャー/ネットとのつきあい方
    6 子どもから親への家庭内暴力
    7 秋葉原事件---三年後の考察
    8 震災と「嘘つき」
    精神医学へのささやかな抵抗
    9 「精神媒介者」であるために
    10 Snap diagnosis事始め
    11 現代型うつ病は病気か
    12 すべてが「うつ」になる---「操作主義」のボトルネック
    13 悪い卵とシステム、あるいは解離性憤怒
    14 「アイデンティティ」から「キャラ」へ
    15 ミメーシスと身体性
    16 フランクルは誰にイエスと言ったのか
    17 早期介入プランへの控えめな懸念

  • 私自身が抱える「承認欲求の呪縛」を解きたい。
    期待を込めて読んだ。
    この本は、私の期待にかなりの深度で応えてくれた。

    筆者の処方箋は次の通りである。
    以下引用。
    ---------------
    ①他者からの承認とは別に、自分を承認するための基準をもつこと。
    ②他者からの承認以上に、他者への承認を優先すること。
    ③承認の大切さを受け入れつつも、ほどほどにつきあうこと。
    ---------------
    承認への欲望そのものは、いわば欲望されることへの欲望であり、その意味でメタ的な欲望である。
    承認欲求に究極的な充足はありえない。
    ---------------
    この言葉は、私にとっては的を射た解答だった。

    「コミュニケーション偏重主義」「キャラ」「承認」の重要性を語りつつ、筆者はこう言う。
    以下引用。
    ----------------
    社会インフラがどれほど進化しようとも、固有の「この私」を無条件に承認されたい欲望と、その欲望の最小単位が「人間」であるという真理は不変のままである。
    「人間」を「キャラ」が代替することは決してない。
    ----------------
    まさにそうだと思った。
    人間はキャラ(虚構)ではない。
    身体性と現実性をもった、生身の人間なのだ。
    承認欲求の重要性と承認に対する渇望を認めながら、究極的な充足はあり得ないと結論付ける。
    この精神科医(もしくは「大人」?)としての立場は、私にとっては心地よく感じられた。

    圧巻だったのが、「アキバの加藤」への分析である。
    以下引用
    ---------------
    (加藤に足りなかったものは)「正解への断念」に裏打ちされた「人は『正解なし』でも生きられる」ことへの信頼ではなかったか
    ---------------
    私はあえて、筆者のいう「正解」を「希望」と言い換えたい。
    人は『希望なし』でも生きることができる。私の持論だ。
    筆者に共感したし、私の言いたかったことを代弁してくれたとすら感じた。


    ただし、後半は医学論文ということもあり、かなり難解だった。
    私が大学生だった時に、ラカンを表面的にでも理解していれば、また違った読み方ができたのかもしれない。
    (ラカンの理解が表面的にできるかという疑問はさておいて)
    その意味で、星は4つとする。

  • あとがきにて著者本人が、タイトルを考えた編集者に感謝を述べている。
    確かにタイトルが面白そうだと思って買ってしまった。

    引用が多く、言い回しが文系らしく非常に回りくどい。(著者にとっての精神分析とは…しないための…メタ規範である。とか何回読んでもわからない)
    ただ、専門が引きこもりとあって、それに対する臨床治験や秋葉原事件の話は面白かった。

    自分が学生の時は、統合失調症患者が偏見及び差別により社会から隔離され、社会復帰が困難となっている問題に焦点が当たっていて、あまり若年層のうつや自殺については触れられていなかったと思う。

    携帯依存、SNS依存、マスク依存、わりと最近生まれた依存症は、すべて承認に関わるようだ。

    この本を読んだとき、エヴァをよく知らなかったので、序盤のエヴァの登場人物を使った説明はあんまり伝わらなかった。
    映画見た人ならすごく分かりやすいんだろうけど。

    社会が成熟し、インフラ、環境が整うにつれて、人は未成熟でも許される。という記述が興味深い。人との関わりすら消費行動になってしまうらしい。
    暴走老人、モンスターペアレントなど、もはや年齢は関係ない。自分に都合の良いように周りが動いてくれないとキレるって、幼児行動そのものだ。
    「お金払ってんだから」という注釈がつくとまた複雑になるけど、教育は義務であり、サービスは単なる付加価値なんだから、そこを忘れてはいけないと思う。
    (ただし、理不尽な暴力だったり犯罪であれば別だが)

    また、キャラ化によって、他者に承認を委ねる危険性について、著者は警鐘を鳴らしている。
    常に流動的な周りに自分の価値観をゆだねると、立場がすぐに変わる。何かアクションを起こすことで、学校内で守られていた優位キャラが容易に覆る。
    いじめていた子が学校が変わったとたんいじめられる、といった流動性サイクルが起こっているという。
    それは全く気が抜けない。安心できる場所が自分のふとした言動で覆るとなると、そりゃあ余計なことはしない、目立たないことを大事にするだろう。傍観者という第2の加害者はこうやって生まれる。

    こういった問題で苦しんでいる人は、成熟している人とのつながりがある場所を得る、同じ目標を持っている人とつながるなど、別の居場所が確保できるといいのに。
    もしくは飛び級制度とか。

  • どういうキャラで行くのですか、みたいなことを言われ、なんともいえない違和感を覚えたことがある。その違和感の理由が、この本で納得できた感じ。仕事で職務内容に応じた役割を担うのは構わないが、常に誰かが求める人物像を演じるのは遠慮したい。

  • 承認依存になって愛されるのを待つよりも愛していこうっていう話。

    あとがきから読んだ方が良い本。

    章が変わる度に、話があっちゃこっちゃ行くなーと思ってたら、著者が数年間の連載や書き下ろし以外の原稿を一冊にまとめた本だった。

    自分の勉強不足で著者が挙げる人物や本を知らない章は理解出来ない部分もあったけど、『若者文化と思春期』、『「良い子」の挫折とひきこもり』、『子どもから親への家庭暴力』等、読み易い興味深い章もあった。

  • 確かに基底を流れるのは「承認」なのだろうけど、表立って見える現象は、自我とは必ずしもリンクしない「キャラ」。葛藤の主因もこの「キャラ」のように読める。それと気になるのは、「成熟拒否」あるいは「成熟した自分を描けない」という現実も挙げられるように思えた。

  • 途中までエヴァの例えとかあってわかりやすかったけど、後々堅苦しい話ばっかりで、途中で読むのやめた

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/732422

  • 教室で誰とも喋らずにそれが当たり前だと思ってたから、キャラが被ったらいけないとかキャラを保つのに必死みたいなのは実感として理解できなかった。今思えば周りも優しかったのかな。

    所々これは違うんじゃない?って思うところも、なるほどと思うところもあって興味深かったけど、自分にはあまり関係のない話だったかも。
    家庭内暴力の対処についてはへぇ〜と思った。

  • 内容がひと昔前のやつだった

  • 日頃感じる人間関係のモヤモヤをすこし和らげてくれる。

  • 前半は『エヴァ』を通しての思春期の精神病理ないし、うつについて。3類型としてシンジ「引きこもり」、アスカ「境界性人格障害」、レイ「アスペルガー症候群」。コミュニケーション偏重主義の時代で、コミュ障となった弱者は「承認」されることが欠如する。それゆえのうつの処方箋として「家族」、「母」の承認という視点は、シン・エヴァンゲリオンを見た後に読むと興奮を抑えることが出来ない。

    後半は時代背景的考察。勤勉主義(高度経済成長)における従来のうつから操作主義(大きな物語の喪失ゆえに操作されることへ従順になる)における現代型うつへ。『動物化するポストモダン』を読むと理解が深まるかも。若者の精神病理だけでなく、モンスターペアレント、老年の犯罪増加について、孤立・不安からの怒りという視点が面白い。

  • 読んでいてとてもスッキリした。

    ちょっと難しい所もあるけれど、我々が普段漠然とモヤモヤする違和感なり息苦しさはハウツー本や流行りの新書では紐解ききれなくて、この本はそういいモヤモヤにしっかり向き合っていて好感が持てた。
    難しい問題を対象にしてるので、切り口はバラバラになるし、書きぶりも時折難しくなって当然。
    行き詰まったら読み飛ばして元気が出たらまた読み返せばよし、と思ったらすごく気楽に面白く読めた。

  • ひきこもりに関する情報発信で有名な斎藤環医師の著作。
    具体的な臨床例の紹介ではなく社会批評がメイン。
    トピックは割と多岐に渡るが、人間関係における「キャラ」の重さが増大していることと、現在では承認は高次の欲求ではなく基本的な欲求であるというのが全体を貫く問題意識。

    一番印象的だったのは「良い子の挫折とひきこもり」という章。

    手のかからない良い子の条件は、周囲の大人が自分をどう見ているかを客観的に判断し、先回りして行動すること。自分の周りの「空気を読む」アンテナを貼っている。
    そして、「良い子」は周囲の期待よりもマージンを取るため、控え目で内省的になる。
    ただ、「良い子」キャラは通常は発達の過程で放棄される。同世代のコミュニティが家族以上の価値を持つようになるから。
    その点で、思春期に挫折したひきこもりは「良い子」で発達が止まる。ある意味、良い子≒未発達である。
    良い子のままでいると、妥協し、断念するスキルが未発達になる。
    人間の意識は大人になっても変化する。良い子の成熟は他者とのかかわりによるほか無いが、これはいくつになってもできる。

    直接書かれていはいないが、アダルトチャイルドと「良い子」であれば、以下ような影響が出るのだろうと思った。
    上記の「良い子」の発達のステップに沿うなら、思春期に対外的には挫折しなくとも、機能不全家庭で家庭内では良い子キャラを続けざるを得なかったアダルトチャイルドは複雑で疲れやすいパーソナリティを持つようになる。

  • 土井隆義氏の解説が素晴らしい

  • 表紙のキャッチーさとは異なり、門外漢である自身にはかなり難解な内容。
    スクールカーストにおける「キャラ」の役割(というよりスクールカーストが「キャラ」そのもの?)
    コミュ力至上主義
    エヴァの3人が暗示する「承認」を軸としたキャラクター設定
    ラノベが漫画を写生する、
    といった承認が身近な例としてどんなところに表れているか、についての事例については納得する箇所が多々あった。
    自分もこの承認を求めて日々暮らしてる部分が多々あるけど、それに苦しめられすぎずにしたい。このような書籍を読んで、メタ的視点を持つことで、心が楽になる作用はあると思う。

  • 表紙のイラストの印象に反し、中身は読みにくい。
    今の時代を反映し、イラストに書いてあるような今の高校生の問題についても書いてあるが、では、その当事者である高校生が読みたくなるかと言ったら、言葉がなかなか入ってこないように思う。

  •  「他者の許しがなければ、自分を愛することすら難しい」という「承認依存」が広まっている、とのこと。興味深いテーマである。


     かくして「承認をめぐる病理」は、次の三パターンに帰結するだろう。「承認への葛藤」「承認への過剰適用」「承認への無関心」。

     こうした「承認の病」を回避する方法はすでにいくつかある。①他社からの承認とは別に、自分を承認するための基準をもつこと。②”他社から”の承認以上に、”他社への”承認を優先すること。そして最後に、③「承認の大切さ」を受け入れつつも、ほどほどにつきあうこと。

     …若い世代にとっての就労は、もはや「義務」ではない。この文脈でいえば「欲求」の対象なのである。それも低次の欲求ではない。彼らが「就労したい」と望むのは、基本的に「承認欲求」のためなのだ。それゆえ、もし彼らを就労へと動機づけたいのなら、これより低次の生理的欲求から関係欲求に至るまでの欲求を十分に満たす必要がある。

     メディアに限らず、例えば教育やしつけにおいても、しばしば子どもたちに伝わるのは「内容(=コンテンツ)」ではない。伝えるものの「姿勢」のほうである。それゆえ親や教師は、常にその「姿勢」が問われることになる。やみくもに子どもを叱ったり、一律に禁止したりする前に、まず自らがメディアとだらしないつきあい方をしていないかどうか、顧みておいても損はない。

     個人の資質や病理、思想信条とはおよそ無関係に生じてしまう暴力がある。ある種の「場」の作用によって賦活される暴力だ。この「場」の中では誰もが暴力的に振る舞う可能性を強く帯びる。もちろん筆者が例外である、などと主張するつもりはない。
     「場」はどこにでもある。家庭が、教室が、体育館が、職場が、いつでもそうした「場」に転じうる。簡単に言えばこういうことだ。①密室性、②二社関係、③序列(権力関係)、この三点が揃ったとき、その場にいる誰もが、暴力的に振る舞う可能性がある。こうした要素は、家庭内暴力に限らず、DV、性暴力、体罰、いじめ、しごき、虐待など、ほぼすべての「暴力」に多かれ少なかれ共通すると言ってよい。

     …社会やインフラがどれほど「進化」しようとも、固有の「この私」を無条件に承認されたいという欲望と、その欲望の最小単位が「人間」であるという真理は不変のままである。「人間」を「キャラ」が代替することは決してない。それを否認しようとするいかなる「進歩」も、繰り返し同じ隘路に陥るだけであろう。

     患者から「自分はキレやすくて困る」という相談をときどき受けることがある。そういうとき、私は大略次のようなアドバイスを試みることにしている。
     「キレやすさはあなたの意思いかんで克服できます。薬もカウンセリングも必要ありません。大切なのは『絶対にキレてはいけない』と自分に繰り返し言い聞かせることです。まったく無意識にキレる人はいません。キレる人は、どこかで必ず、自分にキレてしまうことを許しています。キレることを正当化する気持ちが少しでもある限りは、それを止めることができません」
     「キレやすい人の中には、怒りをこらえすぎるとストレスがたまって別のところで爆発すると信じ込んでいる人がいます。それが『たまにはキレてもいい』という正当化につながるようです。でも本当は逆です。そういう衝動は、押さえ込めばただ消えてしまうだけで、蓄積することはありません。どうしても解消したければ、誰かにその気持ちを話すなり紙に書き出すなりして言葉にしてみることです。実はキレることを繰り返すほうが、はるかにストレスはたまりやすいのです」


     もちろん言い回しについては工夫が必要だ。「幸運を祈る」「実力が十分に出せるといいね」「まあ、そこそこがんばってみたら」「がんばりすぎないようにがんばってみたら」「ためしにがんばってみましょうか」といった、前向きではあるが期待がこもりすぎない表現をその都度工夫する必要がある。「その都度」というのは、激励のありようはやりとりの文脈で決まることが多いからだ。

  • 現在までの評価軸の移行による、キャラ形成の必要性とコミュニケーション能力偏重主義がもたらす個人への承認の変容が、人格形成にどのように影響するかが現実に即し整理されていてよい

  • 表紙に反して難解で読みづらかった。
    雑誌の書評を読んで購入してみたが、
    承認という課題に対しての専門的知識が多く初心者には分かりづらかった。
    エヴァの登場人物と庵野監督については読みやすくも感じたがエヴァ自体見ていない者からすると想像しながら読み進めるしかなかった

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著者プロフィール

斎藤環(さいとう・たまき) 精神科医。筑波大学医学医療系社会精神保健学・教授。オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)共同代表。著書に『社会的ひきこもり』『生き延びるためのラカン』『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』『コロナ・アンビバレンスの憂鬱』ほか多数。

「2023年 『みんなの宗教2世問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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