日常的実践のポイエティーク (ちくま学芸文庫)

  • 筑摩書房
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感想 : 11
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  • Amazon.co.jp ・本 (560ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480510365

作品紹介・あらすじ

読書、歩行、声。それらは分類し解析する近代的知が見落とす、無名の者の戦術である。領域を横断し、秩序に抗う技芸を描く。解説 今村仁司・渡辺優

感想・レビュー・書評

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  • あまり理解できていないがメモ。
    自己から排除したものによって自己を差異化し、自己を定立する。
    自己に固有な場のない、他者にお仕着せられるような領域でも、戦術によって他者の空間を利用し、なんとかやっていく。

  • 制度や権力の支配の下にありながら、それを掻い潜って自らの仕組みや文化を作り上げていくあり方を論じる。
    ハックに近い概念のようにも思うが、いわゆるハクティビズムのような自覚的な活動とはちょっと違うか。
     権力論、所有権理論、エージェンシー理論、ガバナンス論と言ったあたりの議論と繋がるし、創発とかイノベーションとかにも応用できそうで、射程はすごく広い。
     
    こういう色々な議論に繋がる要素はありつつも、内容的にはよくわからなかったというのが正直なところ。第1部の理論編はまだしも、第2部の実践編というか事例編というかは、理論編からのつながりがみえにくい。いかにも現代思想っぽいワードが羅列されている感じで、そのあたりの基礎知識がないとちょっと厳しかった。

  • ついによみおわった!!!

  •  合理性や理性みたいな、いわゆる「理系」的なものを重要視する現代。でもやっぱり理性だけじゃ解決できないことあるよね?科学だけが正しいとは限らないよね?と問いかけられる本。
     「海獣の子供」という漫画内でも、宇宙の総質量のうち90%以上は観測できない「暗黒物質」だと言われていた。科学は役に立つけど科学の目では見れないところも沢山あって、そういう問題をどう乗り越えるのか、興味深いものが沢山ある本だった。
     夏目漱石が言っていたが、回向院の相撲の如く、人生は案外力づくで、無理矢理で、非合理的にどうにかするものかもしれない…。

  • 2020I107 104/C
    配架場所:C3

  • ああ、これは「動的平衡」のことだ。

  • 『その時ひとは、ページをよこぎって漂流し、旅をする目はおもむくままにテクストを変貌させ、ふとしたことばに誘われては、はたとある意味を思いうかべたり、なにか別の意味があるのではと思ってみたり、書かれた空間をところどころまたぎ越えては、つかの間の舞踏をおどる』―『解説』

    ヴィトゲンシュタインが定式化した「語り得ぬもの」について、ミシェル・ド・セルトーは「沈黙」することなく、訥々と語り続けてゆく。たとえ「語る」という行為を文字に起こした瞬間から、行為に含意されていた意図を失った屍となって「他者」に委ねられてしまうものと理解していても、この知の巨人はその限界に挑み続ける。自分はその「意図」なるものを読み取り切る知のボキャブラリーを持ち合わせている訳ではないが、セルトーの語り(パロール)の跡を辿ることを楽しむことはなんとか出来たように思う。

    「これは何の本か」という問いに答えるのは難しいだろう、と渡辺優が文庫版解説で指摘する通り、セルトーの思考は広範囲に及び夥しい引用にもたじろいでしまう。そしてじっくり読めば読むほどセルトーの語りの調子ばかりが蘇り、何について語られていたのかが曖昧となる。しかし其処彼処に記憶に留めたい言葉が散らばっており、前後の文脈から切り離してでも抜き書きしたくなる「語り」がこの本には溢れている。もちろん、それを後から見返したところで、読んでいる最中に感じた「何か意味らしきもの」に再び触れることは叶わないと知りつつも。

    『したがって、もし「書物というものが読者のうみだす成果(構築)である」としたら、こうした読者のおこなう操作は、一種の講義(lectio)であり、「読む者」に固有の生産なのだとみなさなければならない。読者は、作者の地位を占めるわけではないし、作者の立場に立つのでもない。かれはもろもろのテクストのなかで、作者の「意図」であったものとは別のなにかを制作するのである。かれはテクストをその起源からひきはなすのだ。読者はテクストの断片を組み合わせ、意味作用のはてしない複数性を可能にする断片特有の力によって編成される空間のなかに、気づかれ―ざるものを創造する』―『第12章 読むこと/ある密猟』

    そしてもちろん、セルトーはその読者の側で喚起される「制作」についても充分に考えを巡らせている。その是非を問うのではなく、言語というものに付いて回る、あたかも宿命のような、その特徴、あるいは意味の伝達という面からすれば限界、を認識しているのである。しかしその限界を理解しつつ、それでもセルトーは楽観的だ。特に民衆の、すなわち普通の人々が持つ能力(それをセルトーは「技芸[アール/Art]と呼ぶ)を信じて語る。例えばそれは次のような文章に表れているように思う。

    『さまざまな集団や個人が、これからも「監視」の編み目のなかにとらわれつづけながら、そこで発揮する創造性、そこここに散らばり、戦術的で、ブリコラージュにたけたその創造性がいったいいかなる隠密形態をとっているのか、それをほりおこすことが問題だからだ』―『解説』

    『わたしの目的は記号論そのものをつくりあげようとすることではない。消費者の日常的実践は戦術的なタイプの実践であるということを出発点に、この実践をめぐっていくつかの考えかたを示唆できれば、と思っている。住んだり、路を行き来したり、話したり、読んだり、買い物をしたり、料理したりすること。こうした営みには、戦術的な奇略や奇襲に相通じるものがあるのでなかろうか。そこにあるのは、「強者」のうちたてた秩序のなかで「弱者」のみせる巧みな業であり、他者の領域で事をやってのける技、狩猟家の策略、自在な機動力、詩的でもあれば戦闘的でもあるような、意気はずむ独創なのである』―『第3章 なんとかやっていくこと/使用法と戦術』

    そんなことを漠然と感じながら、セルトーの残した言葉によって、取り留めのない思考の脇道へ幾度となく誘われる。例えば、全く異なる結論を示すことわざ(「君子危うきに近寄らず」と「虎穴に入らずんば虎子を得ず」、など)が矛盾を意識せずに語られるのは何故か。それは人が依拠する論理が言説の正しさというようなものに基づいているのではなく、その場で形成される(でっちあげられる)一見したところ正しそうな理屈をその場で(文脈に)見出すからだ、とか。あるいは、反復される類推(アナロジー)には合理性があるのかという問いに、セルトーならブリコラージュを引き合いにだして、先だって備えておくのではない、と説くだろう。つまりそれは、過去の出来事の反復が文脈によって異なる意味を持ち得るということであり、あるいは、アナロジーは結局のところ忘れ去られてしまった自らの過去の再発見に過ぎないのだ、とか。

    そんな由なしごとに囚われていると、ふいにこんな文章に出くわす。

    『「自分のなかに科学と技芸をひとつに結んで統一するような第三の人間が必要なのだ。この人間が理論家たちの不備をおぎない、理論なくしても技芸[芸術]は完成するという偏見をいだいている芸術愛好家たちをその偏見から解きはなってくれるにちがいない…」。「定理をそなえた人間」と「経験をそなえた人間」をつなぐこの媒介者、それが、エンジニアであろう』―『第5章 理論の技』

    ああ、その通り。結局自分が技術者として目指してきたところもその立ち位置なのだ。技芸を通して現実の問題の解決に当たる行為は、モデルを通して行うシミュラークルに過ぎない。そのことをどれだけの技術者が自覚しているだろう。あるいは技術者の報告を聞く非-技術者は。

    セルトーの言説の主題ではないが、言葉に対する真剣さとでも呼ぶべきものを本書から強く感じ取る。あるいはそれがフランス語が論理的だと言われる所以か。そのことから改めて日本語の情緒性というようなことにも考えが逸れてゆく。それは結局、単語へ分解されることを拒む文字の羅列ということに帰着するのではないか、と。対してフランス語などは文章が単語に分解され、語一つひとつの機能へ還元される方向へ思考が自然と向かうのではないだろうか(逆に言えば文章中の語順の自由度こそが日本語の情緒性の根源なのかも知れない)。山田登世子の翻訳の中、その気付きを裏付けるかのように分割された言葉に幾度も出会う。例えば「気づかれ―ざる」、あるいは「迷-信」。その分割の意図は残念ながら日本語では、恐らく、原著の意図ほどには伝わらない。しかし、あるいはそれでも構わないのかも知れない。言説[ディスクール]とは文法の定めるところのものではないともセルトーは語るのだから。

    『なぜならこの社会は、物語[レシ/récit](コマーシャルや情報のつくりあげる寓話)によって規定されており、同時にその物語の引用[シタシオン/citation]と、そのはてしない暗唱[レシタシオン/récitation]によって規定されている』―『第13章 信じること/信じさせること』

    そんなことを漫然と思いながら最終章を読むと、身につまされる文章に出会う。今の日本に蔓延っているように思えてならない落とし穴。そこで思考停止に陥るのではなく(例えば、それは想定外です、というのではなく)、考え続けること。それがやはり大切だということを、勝手に「密漁」し読み解いてみる。

    『理性の不調や破綻は、理性の盲点だが、まさにこの盲点をとおして理性はもうひとつの次元に、すなわち思考という次元に到達するのであり、思考は、みずからではどうすることもできない定めとして異なるものに結ばれあっている。象徴秩序は乱調というものときりはなすことができないものなのだ。日常的実践は、機会[チャンス]なくしては在りえない実践として、波乱の時と結ばれている。したがって日常的な実践は、時間の流れのいたるところに点々と散在するもの、思考という行為の状態に在るものといえるだろう。日常的実践は、絶えまない思考の身ぶりなのだ』―『決定不能なもの(ルカーチ/日常の薄明のアナーキー)』

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