ネットとリアルのあいだ: 生きるための情報学 (ちくまプリマー新書 123)
- 筑摩書房 (2009年12月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (166ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480688255
感想・レビュー・書評
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現代にあるのは物理的な貧しさより、心理的貧しさがある。
脳だけでなく体の反応も大切である。
体の反応無くして感情もあり得ない。
そう考えると体には何も無駄が無いように思える。
難解な部分もあるが情報社会の現代に警鐘を鳴らす良書。人間を機械部品化するITではなく、人間の身体や心をやさしくつつんでくれるようなITが必要なのだ。 -
http://mediamarker.net/u/shibu/
渋川さんのバインダーで西川通氏を知る。近著のこの本を登録しておく(2011.7.15) -
心とは何か。身体性の大切さ。右脳中心から左脳重視の傾向を見なす時期。人間がシステムの中に組み込まれ、取り替え可能なものになってしまっている。デジタルな情報だけが情報だけではない。現代人が鬱な気分になるのは人間の身体と心を軽視している。新しいIT社会をこうちくすることの必要性。
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3つの章に分かれていますが、とくに人間の心は、論理的な推論をおこなう機械として捉えることはできないということを解説している第2章が、興味深く読めました。といっても、すべてが理解できたわけではありませんが、自分なりにまとめると次のようになるかと思います。
生物は、外部からの情報に反応する機械ではなく、身体を通じて生きることで固有の環境世界を創生しているオートポイエーティックなシステムだという考え方が、紹介されます。しかし、オートポイエーティックなシステムは「閉じたシステム」だと考えられています。では、私たちが相互に意思を通じ合っていることは、どのようにして説明されるのでしょうか。この問題について著者は、心とは身体感覚を脳がモニタリングすることで生じるということを手がかりにして、そうした身体のありようを脳がシミュレーションすることで、社会のメンバー相互の「身体的共感」が生じるという考えを提出しています。
そして、意識は3千年前に人間に始めて宿ったとする心理学者ジュリアン・ジェインズの仮説を、そこに接続しようと試みています。ジェインズは、自己意識をもつ前の人類は、「右脳からの幻聴」に従って行動していたと考えます。著者はこれを、群れのメンバーたちが身体的共感によって結ばれているとき、右脳から聞こえてくる「神々の声」によって統制されることとみなそうとするのです。
最後に、こうした身体的な共感をも含み込んだ、新たなコンピュータの可能性について語っています。
やや問題が大きすぎるようにも思いましたが、刺激的な内容の本でした。 -
コミュニティとiTのありかたが、現代人をめぐる諸問題を考える上での大きく重要なテーマだと感じた。
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著者の以前からの思想,新たな情報学,の内容(こころの情報学 (ちくま新書))を説明しようとした書。
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(2012.10.08読了)(2012.07.24購入)
副題「生きるための情報学」
ソーシャルゲームにのめり込んで大金をつぎ込んでしまっているとか。長時間やり続けて生活のリズムが崩れているとか。問題視されています。
ネット社会に生きがいを見つけ、実社会での生活ができない人たちが出てきているようです。
著者は、体あってのこころなので、純粋にコンピュータ上に心だけをつくりあげるのは、不可能と言っているように思えました。(読み間違い?)
著者の結論は、以下のようです。
「身体性とコミュニティの回復が、情報社会の未来をひらくのである。」(157頁)
【目次】
第1章 ITが私を壊す?
1 私にとってのリアル
2 デジタル・ニヒリズム
第2章 生きることは創りだすこと
1 心と脳とコンピュータ
2 情報処理機械としての私
3 心はなぜ閉じているの?
第3章 未来のネット
1 自由平等という落とし穴
2 タイプⅢコンピュータとは
あとがき
参考文献
●脳が心をつくる?(26頁)
近年の脳科学や認知科学の研究によって、古典的な人工知能の発想には大きな不備があることが明らかになった。なぜならまず、心をつくっているのは脳だけでなく、内臓や筋肉骨格を含む身体全体だからである。
●自己(28頁)
「私(自己)」という存在は、少なくとも二種類に大別できると考えられる。第一は「言語的自己」であり、第二は「身体的自己」である。
言語的自己とは、意識的な存在だ。
一方、身体的自己とは、半ば無意識的な存在だ。
私(自己)という存在は実は、言語的自己と身体的自己とが緊密に統合された複合体である。どちらが欠けても完全とは言えない。そこに私だけの「リアル」が生まれるのだ。
●感情(71頁)
古い人工知能の理論では、脳で感情が発生し、それが身体に伝わると考えられていた。しかし、最近の脳科学研究はむしろ、身体が感情の原器であるとみなしている。「怖い」から脚がふるえるのではなく、まず全身の身体的反応があり、その結果を「怖い」と言語的に表現しているのである。
●客観的世界はある?(77頁)
個人ごとに興味も異なり、見ている主観的世界は違うし、犬や猫はまた別の世界に住んでいるだろう。観察者によって世界は異なる。
●言語、文化の優劣(136頁)
人間の思考は言語に依存している。英米人は英語でものを考えるし、日本人はどうしても日本語の概念から抜け切れない。一九世紀まで、近代化に先んじた西欧諸国では、英語、フランス語、ドイツ語などがアジア・アフリカ諸言語より優れており、一層正確に世界を記述できると考えられていた。
しかし、ソシュール言語学は言語の間に優劣はないと主張する。これを受けて、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、諸民族の文化の間にも優劣はなく、それぞれが相対的な価値をもつという構造主義人類学を提唱した。
●ノイマンとウィーナー(156頁)
ITに基づく二〇世紀情報社会の方向性は、どこか誤っていたと言わざるを得ない。この問題は、フォン・ノイマンとウィーナーとの方向性の違いを比較すればはっきりわかる。
☆西垣通さんの本(既読)
「インターネット社会の正しい読み方」牧野昇・西垣通著、PHP研究所、1996.11.07
「デジタル・ナルシス」西垣通著、岩波・同時代、1997.01.14
「メディアの森」西垣通著、朝日新聞社、1998.10.30
「こころの情報学」西垣通著、ちくま新書、1999.06.20
「刺客の青い花」西垣通著、河出書房新社、2000.11.20
「IT革命」西垣通著、岩波新書、2001.05.18
「1492年のマリア」西垣通著、講談社、2002.07.05
「アメリカの階梯」西垣通著、講談社、2004.09.07
(2012年10月10日・記) -
ネットとリアルの間ということで話が始まるも、途中から人間の精神的・心理的な話に変わっていってしまう。どんどん違うところに連れていかれてしまった感じ。
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今、自分が漠然と感じていたことを、きれいに問題として整理してくれた。
最初のあたりこそ、ところどころ「おいおい、それは論証不足じゃないかね?」と突っ込みたくなる部分が何カ所かあったが、後半はぐいぐいと立証していく。つまり、あたらしいかたちでのコンピューター(めメディア?)と人間の関係。右脳=感情を支える技術、副題の「生きるための情報学」の模索。
・数値比較できない「私」をのばしていくのが、本来の教育ではないのか。
・身体が感情の原器。
・ノイマンとウィーナーの晩年。
◎身体をつかって生きるという行為そのものが、世界の創出につながるのである。
・生命情報、社会情報、機械情報。
・人間とはコミュニティへの身体的共感なしには、生きてはいけない生物だ。
・声は時間とともに流れ消えていくが、文章命題の論理はある一時点で、いわば空間的に成立するものだ。
・ITは逆に身体性の回復のために用いられなくてはならないのだ。
・人間を機械部品化するITではなく、人間の身体や心をやさしくつつんでくれるITが必要なのだ。