• 東京創元社
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感想 : 17
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  • Amazon.co.jp ・本 (168ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784488011291

感想・レビュー・書評

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  • 冒頭の方で「自死」というべきです。「自殺」ではありません。自分自身を死に至らしめることは殺人ではありませんから(弁護士ピーグラー)という箇所があるが、日本ではほぼ同義に使っているが漢字を帰るだけで印象が変わると感じた。
    「わたしは死にたいのです。」(ゲルトナーの意思)
    「生きていたくないからです。」(それは何故か問われたゲルトナーの回答。)ここは死にたいという意思を言い換えているだけの印象をこの時点では持った。
    「孫のことは愛しています。しかし、孫がはたして理解してくれるかどうかわかりませんが、エリザベートが死んでから、わたしは半身をもがれたような感じなのです。(ゲルトナー)」他人同士が繋がりながら結婚生活によって到達した想い、日本人的な発想かもしれないが血を分けていても孫は妻より遠い存在か。他人同士が家族なり愛情なりを築き上げていくからこそ意義があると感じた一文。
    「なにからですか?自分の命を絶つ権利は、いま申しあげたように人間の自由権です。(リッテン)」ここから、個々の命とはどこに帰属するのか議論が始まる。
    「刑法というのは、わたしたちの生命を守るものだと思っていました。(ケラー)」ここについては命を絶ちたいという意思も含めたものなのか?自死は認めないというスタンスなのか?歴史上、法が命を守るというのを過信するのは難しいのではないか。
    「価値のない命」というナチスの言葉について、ドイツにおけるナチスの呪縛を感じた。意思にかかわらず殺すナチスに対して、意思を持って自身ではなし得ない死を他者になすよう望むのがここでの議論のそうてんではないか。
    「老人は負担だ。金がかかりすぎる。資源を消費する。もう充分生きたじゃないか。(略)」ここは邦画のプラン75に類似してると感じた。日本人もドイツ人もある意味、命ですらコストのように扱うことがあるのだなと感じた。
    「ナチによる犯罪は小さなところからはじまって肥大化した。最小限は医師の基本姿勢をさりげなく変化させただけだった。生きる価値がない状況が存在するという安楽士運動の基本的な考え方のニュアンスを変えていった。初期段階では重病者と慢性病者だけが対象だったが、範囲が徐徐に拡大され、社会的に生産性のない者、イデオロギー的に望ましくない者、人種的に歓迎されざる者が加えられていった」生きる価値とは個人が決めること、他者が決めるものではないと思った。しかし、人は田車に対して不寛容になりつつあるいま、また、おなじ過ちを犯そうとしていないか?
    「市民はみな、自分の好きなものを信じていいということです。人間はなにを信仰し、どういう世界観を持っても言いのです」西洋社会は圧倒的キリスト教社会と思ってたので少し驚いたが納得。また以下のリッテン(法学の参考人)の言葉に共感。「全体主義国家は自らを絶対だとみなします。自ら以外に真実はなく、国家はそれを実現するものだと。戦後、ドイツ基本法を生み出した人たちはそれを否定したのです。すべての法律と仝ように、憲法もまたアクニ感染しやすく、欠点があると彼らはしむていました。国家の秩序に完璧はないのです。人間のすることには限界があると自覚すること、それが謙虚さのあらわれなのです。ですから、憲法の前文に神が言及されているわけです。」神は人の良心に訴える存在?ティール(神学の参考人)は「古代から啓蒙主義の時代にいたる二千五百年間、自分の命を絶つという暴力的な行為は一貫して否定されてきました。(略)キリスト教かいは社会において、いまでも監視役なのです。」切腹や殉死などがあった日本と相違?!以下のティールの言葉にはポピュリズムへの問題提起を感じた。「役に立つかどうかで命を落とす天秤にかけるなら、じきに「健全な国民感情」がもてはやされ、わたしたちの社会に望ましくない人たちが特定されることになります。身体障害者、うつ病患者、高齢者、愚鈍な人。ダムが決潰する恐れはすでにているのです。」「自然死は生きることとセットです。それを奪ってはならないと思います。」
    「わたしたちの命は自分ひとりのものではないということになりますね?」(ケラー 倫理委員会委員) 一人でいきているわけではないから出てくる。一方でティールの「士民には保護され、尊厳をもって歳をとり、死んでいく権利があるのです。」という言葉に、例えば発狂した姿ではなく、自分らしさ、自分の望む自分の姿で死にたいという意思の肯定も感じ、共感した部分。ティールは神学者らしく「命は神の賜であるとされたのです。生きるか死ぬかを決められるのは神だけということです。」とも語っている。個人的には日本人なので神のところは「御先祖様」と考えたほうが腹落ちした。
    また、戯曲らしい極論として面白かったのは、ビーグラー(弁護士)の「幸福を追求し、苦しみを避けようとするのは人間にとってただしいことではないですか?それは人間の本性ではありませんか?(略)司教。人間が苦しむのは無意味ではありませんか?」とそれに対するティールの「いきることは苦しむことです。」という対極のやり取り。現実はこの中間といったところか。生きるというやり取りに対し、安楽死を望むゲルトナーの「ひとたび死んでしまえば、何もかも残りません。暖かいところも、すてきなドレスやきちんとしたスーツも。死の床には自分以外なにも持ってはいけません。」という言葉からは物質は無理でも愛した感情、心はその身に宿したまま死ねるという思いも感じた。
    「わたしたちの命は誰のものなのか?」「みなさん、わたしたちのしは、わたしたちのものでなければ、イッタイだれのものなのでしょうか?」個に帰属してきたものとはいえ、生かされているということを忘れてはいけないと感じた。
    ハルトムート•クレスト
    「自尊心が傷つけられ、尊厳をもって死ぬ権利が毀損されると見ているのだ。こうした人々は、矛盾をはらんだ死のプロセスを避けるために、医師といったしかるべき人による自死の介助や最期の看取りを求めている」
    ◎「孵化に耐えうる答えを、わたしたちはまだ持ちあわせていないといえるだろう。生きる喜びや生きる意味を高齢になってもいかにイジするか、また、それが失せたときにどうするかといった、長寿との付き合い方を、甥も若きもまなばなければならない。」これからの大きな仮題

  • 中村先生ご推薦

  • テロ、が衝撃作で舞台も興味があり、それと同じような感じかな?と読み始めた。

    宗教観なんかが色濃く反映されるので、意見がまとまることはないと思うんだが…

    「困惑するかもしれませんが、法的には生きることは義務ではないのです。」
    というセリフにああそうだなと首肯。

    後半のケラー倫理委員のセリフが一番入ってきた。
    「〜しかし人間は愛情、保護を必要とし、共同体に依存しています。わたしたちが生まれてから死ぬまでに相互に頼ることはないと主張するのは無理があるでしょう。たしかに生きる義務はありません。〜しかし本来、わたしたちは社会的な生きものなわけですから、死を望む者が死ぬ手伝いをするのではなく、その人を抱きとめ、翻意するように働きかけることは必要不可欠です。そういう心根はわたしたちの法と憲法よりも古いものです。それによってわたしたちの共同体ははじめて成り立つのですから、法よりも上位のものといえます。〜」

    長文だが、是非お読みいただきたい。

  • 安楽死は、これからの社会では切実かつ避けては通れない問題です。
    自分はどちらか、と言えば…賛成側です。
    作中にて、最近、世間を騒がせているアノ問題にニアミスしています。
    日本では、ここ半年前から騒がれ始めましたが、作者の地元·ドイツを含む欧米では、発覚した当時は大騒ぎだったようです。以前聞いた話では、「修道院では就寝時、両手は毛布から出す」のが決まりだとか…
    本筋からズレてしまい、すみません

  • 学生選書ツアー2023選書図書

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