- Amazon.co.jp ・本 (560ページ)
- / ISBN・EAN: 9784492212523
作品紹介・あらすじ
ポーランド、ドイツ、イスラエル、日本、韓国――
犠牲者なのか、加害者なのか?
その疑問から記憶を巡る旅が始まった!
韓国の各メディアが絶賛した話題作、待望の翻訳!
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2007年1月18日朝、新聞を広げた私は首をひねった。購読する進歩系と保守系の新聞どちらも、『ヨーコの物語』(邦訳:『竹林はるか遠く:日本人少女ヨーコの戦争体験記』を批判する記事が文化面トップを飾っていたのだ。どうということのない本のように思えたが、驚くほど大きな記事だった。
韓国メディアの激しい批判は、「韓国民族イコール被害者」「日本民族イコール加害者」という二分法が揺さぶられたことへの当惑を表すものだったのだろう。避難する日本人女性を脅し、強姦する加害者という韓国人のイメージが日本の植民地支配に免罪符を与え、歴史を歪曲するという憂慮が行間から読み取れた。
その心情は理解できるものの、その二分法が常に正しいわけではない。韓国が日本の植民地主義の被害者だったというのは民族という構図でなら正しいが、個人のレベルでは朝鮮人が加害者に、日本人が被害者になる場合もある。個々人の具体的な行為ではなく、集団的所属によって加害者と被害者を分ける韓国メディアの報道は、「集合的有罪」と「集合的無罪」に対するハンナ・アーレントの批判を想起させた。
それ以上に興味深かったのは、論争の火が遠く離れた米国で広がったことだ。米国で6~8年生向け推薦図書リストにこの本が入り、ボストンとニューヨークに住む韓国系の保護者たちが2006年9月に異議を唱え始めたのが始まりだった。
『ヨーコ物語』騒動を見ながら、私はドイツとポーランド、イスラエルの記憶の戦争を思い出し、「犠牲者意識ナショナリズム」という概念を思いついた。
(はじめにより)
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【犠牲者意識ナショナリズム】
植民地主義や二度の世界大戦、ジェノサイドで犠牲となった歴史的記憶を後の世代が継承して自分たちを悲劇の犠牲者だとみなし、道徳的・政治的な自己正当化を図るナショナリズム。グローバル化した世界で出会った各民族の記憶は、互いを参照しながら、犠牲の大きさを競い、絡み合う。記憶が引き起こす歴史認識紛争がいま、世界各地で激しさを増している。
感想・レビュー・書評
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ポーランド、ドイツの事例が豊富で、日韓とはまた違った経過を見せており興味深い。
一点気になったのは「犠牲者」「被害者」の語の使い分けで、日本語のニュアンスではむしろ前者の方が軽い意味で使われている印象がある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本書を通じ、自分の漠然とした感覚がある程度具体化された気がした。著者は犠牲者意識ナショナリズムを「犠牲となった前の世代の経験と地位を次世代が世襲し、それによって現在の自分たちの民族主義に道徳性正当性と政治的アリバイを持たせる記憶政治の理念的形態」と定義する。犠牲者とは、韓国社会における元慰安婦のように、画一化されるとともに崇高な意義を付与された存在だ。
犠牲者意識ナショナリズムでは、「加害者」日独では原爆投下やドレスデン爆撃、終戦直後の苦労など自らの被害が強調される。一方で「被害者」韓国、ポーランド、イスラエルでは、朝鮮人軍属や植民地朝鮮での華僑虐殺、反ユダヤ主義とホロコースト加担又は傍観、パレスチナ人への行為といった自らの加害は忘却や周辺化される。著者はこのような「二分法的世界観」には批判的で、「加害者を被害者にするだけでなく、被害者の内にある潜在的な加害者性を批判的に自覚する道を閉ざしてしまう」とする。
著者は、日韓の民族主義を含め、加害者と被害者それぞれの犠牲者意識ナショナリズムを「認識論的な共犯性」「負の共生関係」「親密な敵」と表現する。
また、冷戦終結後は記憶のグローバル化が促進され、異なる記憶が出会い絡み合うという。慰安婦問題を戦時性暴力や女性の人権という広い文脈の中で見るというのもこの一環だろうか。ただ、グローバル化の中でどうナショナリズムが強化されるのか、自分にはこの点の咀嚼が不十分だった。
ただ、著者の個別の指摘にはやや疑問に思う点もある。『帝国の慰安婦』を「『親日』の論理が強化された著作」とするが、朴裕河にその意図はないのではないか。また、日韓の歴史問題激化の理由としてまず第一に、1980年代半ばの「日本の右傾化進行」を挙げるが、果たしてそうか。 -
冷静に中立的な立場をとる筆者のどの国、どの団体、どの民族にも忖度しない姿勢には驚かされる。日本の加害性を指摘したかと思いきや、犠牲者の記憶を利用して立ち回る韓国に対する指摘も怠らない。個々の事例から犠牲者意識ナショナリズムがどのように作られているのか、またどのような規則があるのか、膨大な知識量で示されている。
私は日本人なので日韓関係の話には多少見聞がある。しかし本書を読んだことによって、ポーランドとドイツの関係を犠牲者と加害者という単純な対立と捉えていた自分の知識不足を恥じるばかりである。
戦争責任を背負った日本人としてグサグサくる内容もたくさんあるので覚悟して読みましょう。 -
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著者がトランスナショナルヒストリーを専門にしている(ポーランド近現代史も)こともあって、本書は記憶と歴史が大きなテーマになっている。要するに、歴史認識、より具体的にいえば、日韓歴史認識問題の解決策を模索する上での素材を提供することが、本書の目的である。
そうした目的を果たすために、著者は一貫して、犠牲者意識ナショナリズムという概念に着目している。端的にいえば、国家が歴史的な柵を乗り越えて和解するためには、当事国の内部から犠牲者意識ナショナリズムが除去されることが1つの条件となろう。
犠牲者意識ナショナリズムは戦争の加害国にも存在するという。一般的にみて、日本は第二次世界大戦における太平洋戦線を最初に開いた加害国であり、南京事件や従軍慰安婦問題といった数え切れない犯罪を犯してきたが、唯一の被爆国でもあるがゆえに、戦争の被害者という側面が強調されることがある。著者は、日本は加害国であるにもかかわらず、国内では被害者意識が広く共有されていることを問題視している。広島にある原爆資料館の展示の仕方も問題だと指摘する。態様は違えど、著者の母国韓国にもそういった問題があるという。そうした犠牲者意識がある限り、相手と和解することは決してできないと。なるほど、日韓の交渉が進展しないのはその証左だということか。
そうした一種の硬直状態を切り抜けるうえで、著者がポーランドとドイツ間の歴史認識問題に着目したのはユニークである。戦後、ポーランドとドイツは、大戦下の暴力や国境線を巡って争っており、なかなか交渉は進展しなかった。そんなときにアクションを起こしたのは、ポーランド司教会だった。同会は、ドイツの司教会に赦しを請うことで、ドイツ司教会がポーランド司教会に赦しを請わざるをえない状況を作ったのだった。紆余曲折を経て、互いが赦し合うことに成功した。この出来事は、たとえ歴史問題を巡って衝突があったとしても、互いに赦し合うことができることを示唆している。著者はこれと同様に、日韓のカトリック教会を通じた和解に期待を寄せているようだ。
著者は以上のことを論じるにあたって、歴史和解の障壁となる要素を吟味している。犠牲者意識というものが、いかに各国で醸成され、市民に受け入れられたのか。既存の、支配的な歴史そのものを否定し、あるいはそれを修正しようとする勢力の論理などが検討されている。論旨は明快であり、大変読みやすい本だが、これをまとめるのは難しい。 -
今年一番の考えさせられる本でした。記憶の戦争、犠牲者意識ナショナリズム。戦争の記憶がグローバル化されるなかで個人の原罪までも行き着く事が理想だけど…
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大変フラットな目線で、各国で発言した犠牲者意識ナショナリズムの形態を読み解く名著。
去年、昭和天皇と、ヒトラーとムッソリーニを並列したウクライナのTwitterが”炎上”しましたけれど、では枢軸国たる日本の、ヒトラー枠って誰なのか、誰が主体で戦争始めたのかが分からないのはなぜなのか。日本が二次大戦を始めた、というよりも、なんとなく戦争が始まって、原爆で悲惨に終わったような気がしてしまったように物語化してしまうのはなぜか…犠牲者意識ナショナリズムの補助線ですっきり見えてくる。 -
360°、死角なく論理で武装したようなぶ厚い1冊。とにかくどの方面にも徹底して「君たちは本当にただ被害者であるだけなのか?」と厳しい視線を投げかける。ポーランド、ドイツ、イスラエル、韓国、日本……。本来加害と被害は表裏一体のはずなのに、自国に都合の良い被害者としての記憶だけを利用して被害者意識ナショナリズムに浸っているんじゃないのか?と圧倒的な論拠をもって突き付けられるド迫力がたまらない。
忖度やノリや空気やキャラクターばかり求められる今の社会の中で、そういったものを全く削ぎ落として徹頭徹尾冷静な、いや冷酷とも思える程の目線で本質を見極めようと試みるその誠実さに幸あれ。 -
紀伊国屋じんぶん大賞2023
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