戦争論 縮訳版

  • 日経BP日本経済新聞出版本部
3.63
  • (1)
  • (4)
  • (2)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 193
感想 : 7
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (411ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784532176938

作品紹介・あらすじ

世界の軍事戦略のデファクトスタンダードになっているアメリカ軍の戦略大学校。その戦略論コースの普遍の定番となっているのが、クラウゼヴィッツ『戦争論』と『孫子』です。軍事論、国際関係論、戦略論を語る上でのグローバルな常識になっている『戦争論』ですが、本書を購入した日本人読者の何割が通読できているでしょうか。  
 本書は、読まれざる名著の代表と言っても過言ではないクラウゼヴィッツ『戦争論』の縮訳版(分量にして四分の一ほどで、未だ半分もないので「縮訳」としました)。本書の言う「縮訳」は、「超訳」などという、翻訳とは別ものではなく、ドイツ語原文から省略した部分が相対的に多いというものです。
 訳者はドイツ語翻訳能力は高く評価され、下記に列挙した既刊訳と比較するとわかりやすさは格段で、難解きわまりない『戦争論』が本書の登場によって理解が格段に進みます。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 強い表現もあるが、徹底した論が広げられており、非常に示唆深く考えさせられる良著。

    memo
    ・人間相互の決闘は敵対感情と敵対的意図 必ずしも感情は伴わない
     しかし、感情に端を発さなくとも結局多かれ少なかれ感情に結びついていく
    ・戦争とは相手に自らの意思を強要するための実力行使
    ・軍事行動の目標は敵の無力化。敵の武装解除、撃破
    ・敵の抵抗力は投入資源と意思力の強弱
    ・両極性の原理 敵と味方が一つの同じ対象について、相互プラスとマイナスが量的に対応し差し引きゼロとなるような状態で初めて妥当する

  • 【はじめに】
    戦略と戦術を区分し、戦争とは政治の延長であるという有名なテーゼを示したクラウゼビッツの大著『戦争論』。その縮訳版が出されたということで手に取った。2022年の初頭から日々伝えられるウクライナ情勢を『戦争論』から見るとどのように見えるのか、二世紀ほど前の論考が現代においてどの程度有効なのかどうかを確認したいという気持ちがあった。果たして、読後の結論としては、その内容は「戦争」の本質に迫った論考であり、そうであるがゆえに時代性を超えてとても多くの示唆が得られた、というものであった。

    なお、『戦争論』は著者のクラウゼビッツが執筆途中でコレラのために急死したため、未完となっていたものを妻のマリーがその後編纂したものである。クラウゼビッツは生前書いた本書の覚書の中で、納得いくものは第1篇第1章のみで、他の篇はさらに加筆修正が必要だと考えていると書いていた。しかしながら、著者が未完であると考えていたにせよ、長きにわたって熟考して書き継いできた構想は、著者の望んだように時代を超えて今も古典として読み継がれている。

    以下、簡単にこの『戦争論』の内容を見ていきたい。

    【概要】
    ■ 戦争の本質
    クラウゼビッツは、『戦争論』を「戦争とは何か?」という根本的な問いから始め、その答えとして、「戦争とは、相手に自らの意志を強要するための、実力の行使である」とした。

    意志を強要するため、戦争においては、敵を撃滅し、抵抗力を無力化しなければならない。なぜなら、軍事行動の目的を達成するためには、敵の無力化が必要であり、かつ有効であるからである。そして、この敵の撃滅は、戦闘の場現場においては戦争全体の目的からいったん離れてそれが当面の目的となる。したがって、敵を武装解除させたり、降伏させたりして必要以上に損害を与えないようにするべきだと考えるようなことには決してならない。戦争はその本質から導かれるものとして、野蛮で粗暴なものであり、もし文明化によって残忍性や破壊性が少なくなると考えているようであれば、戦争の本質を見誤っているという。「戦争は危険なものであり、ただ善良な気持ちから発する、このような誤謬こそ最悪のものだ」とクラウゼビッツは指摘する。

    戦争の本質が敵の抵抗力を無力にするということであるからには、そのためには持てる限り圧倒的に多くの力を注ぐ必要があり、同時に相手もまた同じように考えることとなる。実際の戦争としては、必ずしもそういった絶対戦争ではなく、限定された現実の戦争というのもが多くある。しかしながら、そういった限定や緩和は戦争の本質ではなく、戦争の外部で与えられるものだという。戦争の理論から導出される答えとして、戦争の本質は絶え間ない無制限の実力の行使であるというのがクラウゼビッツの主張である。

    この本が出版された後に、文明諸国間で行われた第一次世界大戦と第二次世界大戦のことを思うと、クラウゼビッツの指摘は正しかったと言える。本書で繰り返し書かれていた内容を辿るように、軍事競争はお互いに極限まで行きつき、国民を巻き込んだ総力戦となった。それは戦争の本質を考え尽くしたクラウゼビッツにとっては論理的に導かれるものであったのだ。

    ■ 戦争と政治
    クラウゼビッツは、戦争と政治の関係を次のように規定する。
    「戦争とは他の手段をもってする政治の継続に他ならない」
    つまり、政治を離れた戦争というものはない、ということである。政治が主であり、戦争が従なのだ。

    この戦争の政治に対する従属性は『戦争論』の中でも何度も繰り返される。「戦争は政治的行動であるだけではなく、政治の手段でもある」、「政治的意図こそが目的であり、戦争はその一手段にすぎないからである」、などである。したがって、もし戦争が本来の性質の結果として極限の破壊まで行かずにある段階で講和が結ばれるのであれば、それは政治的目的によるものであり、かつそれ以外にはないのである。

    「これらの限定・制約は、戦争それ自体に内在しているものではなく、戦争の外から与件として戦争に与えられるものである。戦争の哲学に何か緩和の原理を持ち込むのは、まったく不合理である」

    そして、戦争が政治のための手段であることから、どのような限定・制約が持ち込まれて戦争がどのようなものとなるかは政治の目的次第なのだと指摘する。そして、その観点から戦争継続における最終判断は文民によってなされるべきであるという文民統制の概念の正当性が主張されうるのである。このことからウクライナでの戦争を終わらせることができるのは、国際関係も含めた政治によってのみだとも言える。

    ■ 戦略と戦術
    『戦争論』において、戦略と戦術が明確に区別されたことも有名である。クラウゼビッツは、戦術と戦略とを区別して、「戦術とは、戦いにおいて戦闘力を使う方法を指し、戦略とは、戦争目的を達成するのに戦いを用いる方法を指す」と定義している。

    クラウゼビッツは、戦略と戦術は互いに影響しあうが、本質的には全く異なる活動であることを強調する。なぜなら、「戦術上の成功たる勝利は、戦略にとっては、本来、手段である」からである。本書では、戦術論を攻撃と防御に分けて非常に詳細に論じるとともに、戦略については別の章で明確にわけて分析している。

    もし、戦術と戦略の役割を対照的に定義するとすれば次の記載が相応しいだろう。
    「戦術が、戦争目的達成のための戦闘の使用だとすれば、戦略は全軍事行動に、戦争の目的に対応した目標を与えるものでなければならない」
    戦争だけではなく、ビジネスにおける市場を巡る戦いにおいても本書で規定される戦術と戦略の区別は十分に役に立つものであり、「戦争」という本書の目的を越えて普遍的に適用可能なコンセプトであると言える。

    ■ 戦争のエスカレーション
    クラウゼビッツの『戦争論』執筆の動機のうち、大きなもののひとつはナポレオンによって一変した戦争の姿である。フランス革命後のナポレオン登場以降、戦争の様相は一変した。この戦争には、クラウゼビッツ自身もプロイセンの軍人として参加し、敗れ、捕虜になっている。
    「フランス革命という短い序奏の後、勇猛果敢なナポレオンが登場してすぐ、戦争はその絶対的な概念が完全に具現するところとなった」

    自分自身これまであまり意識をすることはなかったのだが、国家そして国民を挙げての戦争はこのナポレオン以降の近代の新しく生まれた現象であったということがわかる。本書の中で、「文明化した欧州では、国民の加わった国民戦争は、この十九世紀の現象である」と書いてある通りである。ナポレオンによって築かれた国民戦争の仕組みによって、物資の軍事調達制度ができ、それと一般義務兵役制度によって巨大な軍が成立し、大規模な絶対戦争が可能となったのである。「戦争は突如、再び国民の事業となった。...これ以後、戦争は用いられる手段でも、傾注される力でも、いかなる限界もなくなった」という。近代社会は、戦争の本質と人類の激烈性とを解き放ったのである。クラウゼビッツによる次の考察は非常に重たいものを含んでいる。そして、おそらくは正しかったのである。

    「このように戦争は、従来の制約から解き放たれ、本来の力の要素をすべて発揮するようになった。その理由は、戦争という国家の重大事に国民が加わるようになったことにある。そして、この国民の関与の原因は、フランス革命の影響で各国内に生じた状況と、欧州諸国がフランスに感じた脅威、この二つに求めることができよう。
    このような状態は今後も続くのか。欧州での今後の戦争はすべて、常に国力の限りを尽くして戦われるのか。国民に影響する利害関係によって戦われるのか。あるいは次第に政府と国民の分離が生じ、旧来の戦争が再び立ち現れるのか。― これらについて判断するのは困難であり、あえて断言するつもりもない。
    だが、次のように言っても誰も異議を唱えないだろう。つまり制約というものは、ある意味で、何が可能なのか、人が限界に気づかないでいることに本質があるので、いったん制約が除かれると、再びその制約を課すのは難しいであろう。少なくとも、重要な利害対立が生じると、今日見られるように、敵対心が武力衝突に発展するであろう、と」

    ■ 戦争を支配する三位一体 ― 国民、軍隊、政府
    クラウゼビッツは、『戦争論』に関する覚書で第1篇第1章だけが本人が納得がいく内容となっていると記している。その第1篇第1章の最後、「戦争理論」の帰結として、次のようにまとめている。戦争に対する包括的な視点として説得力のあるものである。

    「戦争の全体像から支配的傾向を見るに、三つの面からなる独特の三位一体をなしている。第一は、戦争の基本的な性質である強制性(暴力性)である。憎悪と敵意からなり、一途な本能と見なせるようなものだ。第二は、計算可能性と偶然性からなる賭けの要素である。そこから戦争では、精神活動が自由に動ける余地が生じる。第三は、戦争が政治の道具だという従属的性質である。それにより戦争は、純然たる知性の下に置かれる。
    三つの面の第一の要素は、主に国民と関連が深く、第二の要素は、概ね高級司令官とその配下の軍隊と関連が深い。第三の要素は、政府と関係している。戦争で燃え上がる激情は、戦争に先立ち国民の心に内在していなければならない。偶然を伴う確率の領域で、勇気と才能がどのような作用を見せるかは、高級司令官とその軍隊の特質に依拠している。しかし政治の目標だけは、政府が独力で統制できる」

    ■ 戦争における精神力
    『戦争論』はまた、「精神力」を強調したことでも知られている。「精神力は戦争を論じるにあたり、最も重要な要因である」と書いている。これまでの戦争理論において、精神力がまったく無視されており、それはまったく愚かなことであると書いている。

    さらに精神力を①高級司令官の才能、②軍隊の武徳、③軍隊の民族精神、に分けて分析をしている。近代の戦争においては、自らの命を顧みず国のために戦うことのできる兵士の精神力と、それを銃後で支える国民世論とが戦争の帰結を大きく左右するという。それはある程度までは正しいが、もちろん物理的兵力の彼我の差をすべて埋めてくれるものではないこともまた確かである。この精神力が極限まで強調されたのが第二次世界大戦における日本であるが、それは多くの国において大差ものでもあった。ロシアは大祖国戦争として国民を鼓舞し徹底抗戦に向かわせた。
    クラウゼビッツは、戦争戦略家の立場からこの国民翼賛の統制をポジティブに評価する。

    「今日においてまずほかの手段がなく、その意味で国民にこの精神を涵養するのは、戦争だけである。しかも、大胆な指導者の下でなければならない。つまり、生活が向上し、各国国民の交流が盛んになるなかで、国民を堕落させる軟弱な心情、安逸の欲求を抑えるのは、大胆な指導だけだ、ということである。
    国民の気風と戦争の習熟とが、持続的な相互作用のなかで維持されている場合のみ、その国の国民は国際社会で確たる地位を占めうるのである」

    もちろん現代においては、上記の考え方は否定されるべきものであろう。しかしながら、ウクライナの状況を鑑みると、戦争に対する国民世論や国際社会でのポジショニングが、国や国民を強化・形成しているようにも見えるのである。

    【まとめ】
    戦争論といえば、クラウゼビッツの本書と言われる古典的名著。ウクライナの戦争が長期化する中、本書を読んで多くのことを考えた。

    ■ 世界大戦
    本書が書かれたのは第一次世界大戦・第二次世界大戦からもさらに遡ること一世紀も前の時代である。
    ここで指摘されて改めて認識をしたのが、一部の兵士だけでなく国民全員を動員可能となったのがナポレオン軍のフランスからであったということである。そして、戦争は当事者国間の相互作用をもってその手段をエスカレーションさせることから、すぐに国民動員は欧州全域において行われるようになった。本書の指摘は、その後に起こる世界大戦を予告をしているようであり、それが実際に起こってしまったことを鑑みてもクラウゼビッツの分析は非常に的確なものであったと言える。

    なぜ、あんな悲惨でかつ粗暴な戦争が、近代化が最も進んでいる欧州で二度も起きてしまったのかは、何よりもその一世紀前に書かれた本書がよく示している。近代化が進んだからこそ、あの凄惨かつ徹底的に暴力的な戦争が行われたのである。まさに慧眼であり、本書が古典的名著として今も読み継がれている理由だと思う。

    また著者はロシアの持つ広大な国土の特殊性についても指摘しているが、これもまた慧眼であることは間違いない。ロシアの国土が戦力の一部であることはナポレオン戦争に次いで第二次世界大戦においてもまたそうであることが証明された。そして、ロシアの国土の広さは今も変わらないし、それは今も無視できないロシアの特殊性をよく表しているのだと思う。

    ■ ウクライナの状況
    戦術を説いた防御と攻撃の分析においては、防御が圧倒的に有利であり、かつ国内の退却においてはその優位がさらに大きくなるとの指摘はウクライナの現在の状況を正しく説明できるものと思う。国内への退却の悪影響は、国土の被害と国民の士気であるとされているが、後者に関しては今のところは懸念するところではなさそうである。しかし、戦争が長期化した場合にはその限りではない。
    空間的・時間的に集中するべきだという指摘は開戦当初にロシア軍がキーウ方面と東部・南部方面に分散していたために首尾よく進まなかった戦況から、その後はまず東部に戦略を集中していることからもその指摘が正しいことがわかる。

    また、この本で書かれた戦争の理論からするとこんなにも人が死んでいく悲惨なものは止めなくてはならないといった理由で戦争が止まるわけではないということも理解できる。クラウゼビッツは、「戦争の粗暴な部分を嫌悪するあまり、戦争の本質を無視するのは無益であり、本末転倒である」とも語る。

    ウクライナかロシアのどちらかの抵抗力が完全になくなるまで戦い合う絶対戦争になるのか。現実の戦争が絶対戦争のようにならないのは、その政治目的に依存しているというのが『戦争論』が指摘するところだ。それでは、ウクライナで行われている戦争の目的はいったい何なのかをまずは明らかにしなければならない。またその目的に鑑みて現時点での講和を結ばれる条件とは何になるのだろうか。もちろん戦争が推移するに従いのその目的自体も形を変えることはある。それでもまずは双方の政治的目的を正しく認識することがまず重要なのである。

    戦争が政治の延長であるとするのも正しいのであれば、経済制裁も含めて「政治」がどうなるのかを分析する必要が出てこよう。クラウゼビッツによって、戦争は「相手に自らの意志を強要するための、実力の行使」と定義された。プーチンの意志とは何になるのだろうか。次の言葉が今もまだ真であるのであれば、この戦争はいつどのような形で終わるとしても悲惨な結果を招くように思われる。

    「いやしくも国家たる限り、たとえ敵に対してどれほど弱い小国であろうと、滅亡のふちに臨んで最後の努力を惜しむことがあってはなるまい。さもないと<魂の抜けた国家>と非難されることになろう」

    -----
    もちろん、現代はクラウゼビッツの時代にはなかった情報通信技術とそれが実現したグローバルなコミュニケーションネットワークが存在している。それらは戦術の中身や、国民世論の形成に影響してくるだろう。また、戦略を大きく左右する核兵器も存在している。そういった変化にも関わらず、クラウゼビッツの戦争の本質や国民戦争に関する指摘は今も通用するように思われる。そして、残念ながら戦争が世界からなくなることは当分なくならないのだろうということをウクライナのニュースは教えてくれる。そして、遠く離れた日本においては、できることとやるべきことのひとつは、歴史的かつ論理的に真摯に考えるということなのだと言い聞かせるのである。

    • 澤田拓也さん
      workmaさん
      コメントありがとうございます。
      自分も国際情勢について誰かよりもたくさん知っているわけではないですが、プーチンの目的がロシ...
      workmaさん
      コメントありがとうございます。
      自分も国際情勢について誰かよりもたくさん知っているわけではないですが、プーチンの目的がロシア国内での支配力確保と国際社会でのロシアの地位確立だとするとウクライナ・西側の妥協なしでは終結しないように思いますよね。
      ロシア国内の混乱はそれほどなくて、国民の不満がそれほどたまっていないようだという報道がその通りだとすると戦争状態の長期化が懸念されますよね。
      休戦協定みたいなことはあるのか...。
      2023/02/23
    • workmaさん
      100分de名著 というTV番組で、ジーン・シャープという学者の「非暴力論」を知り、「非暴力という武器」で「戦略」を練り、大国を退けた実例...
      100分de名著 というTV番組で、ジーン・シャープという学者の「非暴力論」を知り、「非暴力という武器」で「戦略」を練り、大国を退けた実例を見ました。そういう未来を期待したいです。
      2023/02/23
    • 澤田拓也さん
      ジーン・シャープは知らなかったのですが、いつか読んでみたくなりました。
      今回、では非暴力をウクライナがとり得たのかというと難しいと断じてしま...
      ジーン・シャープは知らなかったのですが、いつか読んでみたくなりました。
      今回、では非暴力をウクライナがとり得たのかというと難しいと断じてしまいそうになりますが、そういう選択肢も含めて考えてみることも誠実な態度なのかもしれないですね。
      2023/02/24
  • 19世紀に刊行されて以来、不朽の名著として読み継がれてきたクラウゼヴィッツの『戦争論』。難解で知られる、この大部の著作のエッセンスを、読みやすい新訳で伝える書籍。

    戦争とは、「相手に自らの意志を強要するための、実力の行使」である。
    敵に自らの意志を強要するには、敵が軍事行動を継続できないほど、不利な状況に追い込まねばならない。

    戦争は、政治目的から始まるものであり、政治・政策が軍事行動に間断なく影響し続ける。つまり、戦争は、政治的交渉とは別の手段を用いて、政治的交渉を継続する行為といえる。

    戦争は、次の3つの面からなる。これらは戦争の本質に深く根ざしており、その重要性はその時々に変化する。
    ①憎悪と敵意からなる、強制性(暴力性) 国民
    ②計算可能性と偶然性からなる、賭けの要素 高級司令官とその配下の軍隊
    ③政治の道具であるという、従属的性質 政府

    戦争が、敵を屈服させ、こちらの意図を受け入れさせる実力の行使だとするなら、敵の抵抗力「戦闘力、国土、敵の意志」を奪うことが唯一の目的となる。

    戦争が、政治目的によって起こされるものである以上、政治目的の価値の大小により、払われるべき犠牲の大小が決まる。
    戦力の消耗が政治的価値に釣り合わないほど大きくなると、政治目的が放棄され、講和が結ばれることとなる。

    戦争の手段はただ1つ、戦いである。
    そして戦いでは、敵の戦闘力の撃滅が、最も効果的な目的達成の手段である。

    知性と情意に極めて優れ、大きな業績を上げられる人物は《天才:Genius》と呼べる。軍事的天才は、「勇気」「知力」「困難な状況での決断」など、種々の精神力が調和的に複合されている。

    • workmaさん
      Tomotaさん
      はじめまして。

      う~む…書物の概要が なんとなく分かりましたが、結局のところ、ウクライナ戦争の終結は長くかかり難しそ...
      Tomotaさん
      はじめまして。

      う~む…書物の概要が なんとなく分かりましたが、結局のところ、ウクライナ戦争の終結は長くかかり難しそうですね…
      2023/02/23
  • ※実際は兵頭二十八訳の文庫版を読んでいたが、手元にないためこちらで登録※

    タイトルが気になって読み始め、戦争や武力の是非を問うような内容かと思いきや、当時の戦争のハウツー本!
    現代、初心者向けに訳されていたので言いたいことはなんとなく……わかった……?世界史の知識がないとあまり面白さがわからないかも。
    クラウゼウィッツがとにかく、兵士や国民の精神的な面を重要視していたことは伝わってきた。
    戦争の形式の変遷から、国中の全てを動員した戦争が始まった経緯が理解できた。

全7件中 1 - 7件を表示

著者プロフィール

1780年生まれ、1831年死去。プロイセン王国の軍人で軍事学者。ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校として参加、戦後は研究と著述に専念したが、死後1832年に発表された『戦争論』で、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績を示した。

「2020年 『縮訳版 戦争論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

カール・フォン・クラウゼヴィッツの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×