精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

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  • 日本評論社
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  • Amazon.co.jp ・本 (346ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784535804036

感想・レビュー・書評

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  • 自分に刺さったところだけ更に取り出すと、シュルテのうつ病者の「反響欠如性」(苦しさの訴えに感情移入できず、むしろうんざりさせられること)の考えだろうか。本当に、一緒に苦しめない。でも、その苦しみは経験した人だけにしか分からないと言ってあげればそれで良かったんだな。精神病の中では、一番分かってあげられると思ってしまいそうな症状だからこそ。
    サリヴァンの言う、トレーニングの声とデザイアの声。聞き分けられるようでありたいけれど、本当はただ、聞き分けられるような自分ですと言いたいだけなのかも知れないし。


    ・ところが、心気症その他の「気で病む人たち」が、実は、身体のリズムに自然な意識を向けているとはとうていいえないのである。心気症の人たちは、身体の一部分の健康を大いに気にし、実際救い難いほど病んでいるのだと主張するけれども、身体の他の部分はおかまいなしで、ひどく不摂生・不衛生だったり、時にはほんとうはそちらの方が病気だったりする。

    ・フランスの実験で、昼夜のわからない洞窟の中で158日間だったかを過ごしてもらい、人間に最後に残るリズムはどんなリズムかを調べたところ、48時間という答えが出たそうである。「一日の苦労は一日にして足れり」というが、それを現実に破らざるを得ない時は48時間で収支の合うようにと、やりすぎた翌日は控えめにするのが、分裂病はもちろん、やはり不眠と深い関係のあるうつ病から回復した人が再発しない心得の一つであるように思う。むろん健康者にも望ましいことであり、てんかん発作のある人にも大切だろうと思う。実際、たいていの人は知らず識らずにそうしているのではあるまいか。アルコール飲用でも、翌日二日酔いで苦しむのが限度で、“三日酔い”はアルコール中毒への直通路といえないだろうか。

    ・人間とは何かといえば、それこそいろいろな定義の山だろうが、無理をする唯一の動物、限界をこえようとする唯一の動物ともいえるだろう。それは人間を人間らしくしたが、いろいろ代価を支払ってもきた。
    …分裂病の近く研究が盛んとなって、彼らは超覚醒的状態にあるといわれるようになった。たしかに非常にかすかな徴候、相手の表情の動きに敏感であり、足の裏をハンマーの柄でこするテストを「足の裏をナイフで切られる」と観念した患者もいた。しかし、私は、超覚醒的というのでは不十分であると思う。微分回路的という方が当たっていると思うが、それは別のところで述べたし、本論の趣旨ではない。
    ここでいいたいのは、「足の裏をナイフで切られるように感じる」人、つまりアンデルセン童話の二十枚だったかの羽根ぶとんの下の一粒の豆を感じるお姫様のような人が同時に、自分の身体からの信号はまったく感受しないことである。
    …ストレスをまず身体で受け止めるという段階が跳び越えられていることが、分裂病を苦しいものにし、同時に、もっとも驚くべきことだが分裂病者における悪性腫瘍の少なさと関連しているのであろうか。精神科医以外の人はなかなか信じないが、最近の信頼できる統計でも、一般人集団との間に罹病率の有意の差があるのは悪性腫瘍なのである。

    ・「波はあるときは高くうねって泡のまだらをのせ、またあるときはほとんど目に見えぬさざ波となる。ときどき、波の波長はインチで測る程度になったかと思うと、また幾ヤードにも高まるのであった。…いったいどういうことばを使ったら、手におえない複雑さにおちいらずに、これらのはっきり目に見える事実を描き出すことができるだろうか。」―ハーバード・ウィーナー

    ・「『創造的狂気』などという語を気軽に口走る人々にとっては、ニーチェやカフカの狂気も“金の卵を産む鶏“以上のものではありえない。彼らは金の卵が欲しいのであって、鶏の苦痛はどちらでもよいのである」―磯田光一

    ・患者としては、「敵か味方かただの人か妖術師か」と思って自然である。したがって、合意ぬきではじめられた治療はすべて彷徨的な治療になるといって差支えない。いかなる医師の「ヒューマニズム」を以ってしても、それはカバーし切れない。その場合には患者を背負っての彷徨となるが、こういう時は、医師は、真実にもとづかない一種の万能感を患者に与えるので、医師が万能であるとみえればみえるほど、患者は小さく卑小で無能となる。

    ・パラメーター的ということは、多次元の単なる言いかえでないと思う。パラメーターは通常は定数とみられているものを変数として扱うことである。多くの病気の場は固定して動かないように見える。これをじっとみつめて、突然起こる変化に目ざとくあるということである。


    ・医師にかかる以前に、「家庭医学書」を読む分裂病者も少なくない。私の経験では、彼らは、むしろ「うつ病」と自己診断を下すことが多いように思われる。おそらく、うつ病の項目には、気が沈むとか、眠れないとか、多少とも、本人の苦しみに即した記述があるからかもしれない。分裂病の記載は、本人の苦痛や、本人にはどう感じられているかについては、およそ触れられていない。

    ・一般論としてここでいっておきたいのだが、医学の力で治せる病気はすくない。医学は依然きわめて限られた力なのだ。しかし、いかなる重病人でも看護できない病人はほとんどいない。看護というものの基礎は医学よりもずっと安定したものである。

    ・たしかに患者は生死にかかわる問題をかかえていることが多い。幼年時代このかたの懸案が即時全面解決を求めてやまないことも多い。しかし、私は時にうたがうのである。今の今、この人生の危機の時に幼少年時代からの大問題を解決しなければならないのだろうか。

    ・ドイツの精神医科シュルテが、うつ病の人の場合は、その体験がその人にしか分かるものでないことを話すことが、逆説的にも、相手に了解されたという感じを生むものだ、といっているのは正しいと思う。

    ・私は、むかし、フランスの大学教授が指導し役者に演技させてつくった、分裂病のはじまりの解説映画をみたことがある。また、寛解期の患者が―うたい文句では―自分でシナリオを書き、切り紙細工の人形や背景をつくって、少しずつ動かしてつくった、という入院から退院までのストーリーの映画『詩人と一角獣」をみたことがある。そして両者の相違に一驚した。
    その相違をどう表現したらよいだろうか。前者には、たしかに急性分裂病の次々に発現してゆく症状がうまく並べられている。そして役者は脅え恐怖し不安となり時に恍惚となる。しかし、いかに分裂病の症状が映像で表現されていようとも、それに反応する役者の表情から伝わってくるものは神経症的なものである。いかにクレッセンドに、音楽が不安と恐怖をもりあげ、役者が苦悶し圧倒されようとも、精神科医にさえ、これは違う、何か全然違うという感じを与える。
    『詩人と一角獣』も、単純に患者の自主制作とはいえまい。いわゆる芸術療法の一つとしてスイスのある精神病院でつくられた映画である。当然、陰に陽に治療者側の手が加わっているだろう。しかし、である。
    詩人は、病院に鳥籠をさげて現われ、それを受付において、これは「私の心」だ、という。受付の看護婦(中年の婦長クラス?)はそれをくず籠に叩き込み、詩人は腕をとられて院内につれこまれる。
    ここまでと退院のシーンだけが実写であって、ここからは切紙の動画になるのも、巧みといえば巧みである。
    さて切紙人形になった詩人は衣を脱がされてベッドに横たえられる。やはり切紙人形の医者が入ってくる。聴診器が中空をとんできて詩人の胸にあたる。
    詩人は小さな格子窓のついた個室に入れられる。詩人に、詩人よりも大きな注射器が中空を四方八方から殺到する。それから食事がさし入れられる。そのうちに個室の中に火がもえ出す。
    ここで、また巧みな転換が行われる。同じ切紙細工でも、ここからは、ただの色紙から、グラフ雑誌のページをうまく使った切紙に変わる。たくさんの女性の顔が登場する。それは実際に万華鏡の筒に入れて映されたらしい。万華鏡を動かしているので、切紙細工を少しずつうごかして一コマ一コマ撮影していた時のギクシャクした動きはなくなる。女性の顔は一つ一つが一枚の花びらとなり、顔のあつまりがつぼんだり開いたりする一つの花のようである。それがそれこそ万華鏡そのものの動きでめまぐるしく変化する次第にテンポが速くなる。詩人の過去に登場した現実あるいは空想の中の女性たちであろう。その顔は一つ一つが交代に前景にあらわれてはしりぞく。どの顔も半ばはかくれていて、とらえがたい。このテンポが目にもとまらぬ速さに近づいたところで、ウサギやニワトリが右から左へトコトコと駆け抜ける。トリックスターのようでもある。
    そうこうするうちに、世界地図が出現している。その一か所に窓があいて中から兵隊の列が出てくる。あとからあとから出て来て世界地図の上を隊列を組んで歩み出す。世界は兵士に行列に埋まってゆく。このテンポも次第に速くなる。世界最終戦争(アルマゲドン)を予感させるこのシーンで映画は唐突に切れて、退院の現実の情景に戻る。

    ・私は、精神病患者も、周囲の表情によって自分がクレージーとみられていることを知るのだ、と思う。周囲のあわれむような、やさしさを交えたまなざし、“美しい”が何も内容のないことば、―こういったものは、「君は今日は変だ」「君のいうことはさっぱりつかめない」といわれるよりも決定的な衝撃でありうる。彼は、何とか自分が正気であることを証明しようとする。しかし、ふだんの時には誰がわざわざ自分の正気を証明しようとするのだろうか。そして、どんな時でも証明するとなれば、論理を用い、因果論を使い証拠を挙げなければならない。そして、これほどクレージーな印象を与えることはない。ことばによって正気であることを他人に証明する方法はおよそ実らない。この証明は他人にむかってなされると同時に自らにむかってなされる。この方は残る。そして、あるいは妄想の根となるだろう。

    ・うつ病の場合は患者が非常な焦慮を口にするにもかかわらず、うつ病者の焦りは治療者にほとんどといってよいほど伝わらない。うつ病者の深刻な話が治療者の心に反響を生まないこのことこそ、うつ病の特徴であり、診断の一つの目安であることを指摘したのはシュルテであった。彼のいう「反響欠如性」は、リュムケの有名な「プレコックス感」にまさるとも劣らぬ、治療者側の内面変化にもとづく、いわゆる主観診断の白眉であるが、「プレコックス感」ほど知られていない。

    ・何回かのシュヴィング的面接(とは患者のそばにそっとすわることからはじめる方法をいう、それをはじめたのはドイツの看護婦シュヴィングである)ののち、ある患者ははじめて口をひらいて「今日は空が広いですね」とつぶやいた。それは、私の中で“転移性”の焦りが雪どけのように消えてゆく瞬間であった。彼の中ではどうであったか、むろん、そこでたずねることはしないものであるし、しなかったけれども。

    ・患者の音調に二種類あることを書いたことがあるが、サリヴァンがよく患者自身に告げていたことだったのを最近になって知った。彼は「君のトレーニング(訓練)の声と君のデザイア(希み)の声とがある」といっていたそうである。おそらく「訓練の声」とは、音域の狭い、平板な声だろう。私は、妄想を語るとき、音調がそのように変わること、逆にそのような音調は、妄想を語っていることを教えてくれる場合があることを述べた。一般に論弁的になる時、人間の声はそうなりがちである。数学の証明を読み上げる時、上司に問われて答える時、等々。それは防衛の声であり、緊張の声である。

    ・(分裂病の急性期では空間を自由に区切ることが求めてもできない。枠の中を自由に区切って下さいと言っても、二分割でも何でもいいのに区切れない。自由構成ができない。)では、構成に対立するものは何か。私は、投影とそれを名付けている。投影ということばは大変ルーズに使われているが、私は、既存の図や物体を意味づけ解釈してゆく活動を投影と呼んでいる。

    ・われわれは、患者の精神的自立をよしとするが、家族とのミゾを深める結果になるようなことはつつしむべきである。なるほど、患者の苦しみと家族の苦しみとはなまなかに通じあえない。そのことは悲劇的事実である。この通じあえないことが、お互いの苦しみを、孤立を深める。この通じあえないことそれ自体の苦しみを汲むことは治療的といえるが、通じあわないことを、いずれかの病理に帰して足れりとすることは治療的に不毛である。

    ・(精神病発症から人格が豹変したように見える母親について)おそらく、人格よりも、状況であろう。鍵が鍵穴にはまるような正解が得られないやり取り。答えのない問題の前に逃れなく佇むこと。些細な問題がどのような大きさにまでひろがってゆくか、それもいつそうなるか判らないこと。くるくる変る局面と、いつもかわらず立ちはだかる将来への不安と、周囲の眼を怖れる気持ちと。記憶の深井戸の奥へと「原因」をさぐって迷う視線と、「原因」の如何を超えて自らを責める悔恨と、他者への抑え切れない憤懣と、自らへ向かいがちなやり場のない怒りと。時には自分のほうが錯乱したらいっそ楽だろうとさえ思え、いいたいことをいい放題のようにみえる本人に腹が立ってくる。「いつも本人の見方をする医者にも腹が立つ。」そして孤立無援感―。
    こう記してみると、ほとんど患者の感じていることそのままであるのに気づかないだろうか。

    ・分裂病圏の病の人はどこか厳粛な気持ちにさせる。(リュムケは彼の「プレコックス感」が医者がうぬぼれの鼻をへしおられて患者に劣等感をもつから起こるのだという。)これはアルコール症の人に対する時の感情と大いに違う。アルコール症の人に対しては、安易な優越感と、何かもっともらしい教訓をたれたい気持ちにさせられるようだ。(医者はアルコール症の人に対して一般にきびしいのだが、ひょっとするとアルコール症の人の“超自我”―社会的なルールが自分の中に寄生してしまった奴で、たとえば立小便の時うしろめたい気持ちにさせる奴だ―に仕立て上げられている、というか、その位置にすすんではまり込んでいる、というか、そいういうのが実態ではないだろうか。
    …うつ病の人の深刻な訴えは、聞く者の心には反響せずむしろうんざりさせる、という。ヒステリーの人がどこか「自分もあんなにふるまえたらいっそ楽だろう」という羨望の気持ちを起こさせるのに対して、強迫症の人は、はるかにルールを守り、お行儀がよくても、治療者を苛々させ、攻撃心を誘い出させる(病棟勤務者の苦情は強迫症の人を対象にしがちで、ヒステリーの人にははるかに寛大である)。

  • 便通に関してより気にかけるようになった。

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著者プロフィール

中井久夫(なかい・ひさお)
1934年奈良県生まれ。2022年逝去。京都大学法学部から医学部に編入後卒業。神戸大学名誉教授。甲南大学名誉教授。公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構顧問。著書に『分裂病と人類』(東京大学出版会、1982)、『中井久夫著作集----精神医学の経験』(岩崎学術出版社、1984-1992)、『中井久夫コレクション』(筑摩書房、2009-2013)、『アリアドネからの糸』(みすず書房、1997)、『樹をみつめて』(みすず書房、2006)、『「昭和」を送る』(みすず書房、2013)など。訳詩集に『現代ギリシャ詩選』(みすず書房、1985)、『ヴァレリー、若きバルク/魅惑』(みすず書房、1995)、『いじめのある世界に生きる君たちへ』(中央公論新社、2016)、『中井久夫集 全11巻』(みすず書房、2017-19)

「2022年 『戦争と平和 ある観察』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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