時間についての十二章

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  • 農山漁村文化協会
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  • Amazon.co.jp ・本 (311ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784540141331

感想・レビュー・書評

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  • 1993年発行のものを図書館にて借りた。
    山里の時間と、都市の時間の違いについて。
    自然とともに生きる山里では時間は円環的に流れるものだが、時間単位で労働力を切り売りする賃労働の世界では時間は不可逆的な直線時間である。
    時間に切り刻まれ追い立てられるようにして生きる身には、時たま自然の時間で行きたくなる。

  • もってるのは96年発行
    学生時代に読んでた。いまとは別人だな、自分は。

  • 時間について考える本のなかでは優しい感じ。
    みなそれぞれいろいろな時間をもっている。

  • 時間がまさに主体と他者との関係そのものである

    商品として流通していながら、純粋に商品になりきらぬ「過渡的商品」がいくらでもあった

    使用価値を交通概念、関係概念として把握するという試みである。労働生産物のなかに使用価値という固有の概念は存在しないと私は考えた。それは交通のなかでのみみあらわれてくる関係的価値だったのではないだろうか。つまり使用価値は労働行為者によって勝手につくりだすこともできないし、使用者によって勝手に発見されることもない。労働行為者の主体、技能、わざと使用者の使用が交通するとき、その関係のなかでつくられてくるのが、使用価値なのではないか。

    ★主体が内在しているもの

    固有のものがそんざいし、その固有のもの同士の間に関係が成立するのではなく、はじめに関係が存在s、その関係が固有性をつくりだしている

    使用価値を関係概念として把握するところから出発したこの議論は、こうして固有のものを基礎に据えた「世界観」への解体へとむかわざるをえなくなった




    確かに使用すればどちらも有用性を発揮する、ところが昔の使用価値は、それが商品であることを突き破っていった深さのなかに成立していた
    →質的なものだろうと思う。

    資本制商品経済時代の商品が持ってゐる交換価値、ならびに価値一般としての価値は合理的に測定できるものとして措定されている。価値は労働時間によってつくられる。ところが使用価値は非合理的である。それは労働じかんによって生産されたものでもないし、使用価値の量はそれを使う主体の在り方により変化する

    たとえば渡植は会寧焼を中心にするずいぶん多くの古陶をもっていたが、それらの焼き物はただながめるだけで大いなる文化が感じられ、はかりしれないほどの使用価値を提供してくれる。しかしその使用価値は誰にでも、伝統文化に親しんだものと同じようにあらわれてくるものではないのである。今日の商品にこの非合理な有用性があるだろうか、今日のそれは商品が提供する効用程度のモノではないか。

    →この文章が示唆しているのは、一般に「定量化」し、「定義」できる「商品価値」は、「万人にとってそうなる」という「純客観性」「普遍性」が基本となる概念である。200グラムのおにぎりを食べれば、どのくらい人間はおなかを満たすことができる、とか。したがって、それは「経済」の中で扱いやすい。こうした「商品価値」は、「記号」として「貨幣」と等価交換されているとみて間違いないだろう。つまり市場の中で、「価値づけ」られた、「定義」された部分「商品価値」ということ。一方で、そうした「定量化」を免れるところで感得される「使用価値」は、「一般化」が困難であり、またそれを感じるか否かは、徹底して「享受者」に拠るという。つまり、その「使用価値」はどちらかといえば、もともと「実体」としてあるというよりは、「享受者」の側が、そこに「価値」を「発見」することから、生成してくるものであるような気がする。つまり「使用価値」は、それを「感じるか」「感じないか」、または「見出すのか」「見出さないのか」というところでのみ成立するということだろう。したがって、「使用価値」は、「記号」ではないということになろう。その「もの」とそれを享受する人の「相互作用」の中から、それが「見出される」「感得される」というような、中働態的側面があるように思う。これは「スペーズ」のロジックに近い。つまり、それは「記号」として「貨幣」と置き換えられるような「商品」ではなく、そこに「商品」として「記号化」でき、「貨幣化」される側面を含みつつも、実はその「モノ」自体は、それ自身においてはそれがなんなのかの「定義」が困難な状態に「在る」のだと思う。そしておそらく「使用価値」というのは、そうした定義困難な状態に「在る」ものに、消費者側が、「そこにはこういう価値がある」というのを、徹底してプライベートな領域において「見出し」、「関わる」ところに、立ち上がり、「感得」するものなのだろうと思う。つまりそれはそれをつくりだした人の媒介としての「モノ」であり、その「モノ」を通して、それを作り出した人の「存在」が何であるのかを、直接的に問い、示唆ような、そうした「フラジャイル」なありかたをしているのではないか。逆に言えば、現在の消費社会において制作されている「モノ」は、そうした、すでに市場において、その価値が定義され、容易に貨幣化され、記号として流通しているという意味で、一方向的なものになっているということだと思う。「作り出した人がこれがなにかを定義できない」、そうした「もの」が世にあふれていることが、そおらくは「制作者」と「モノ」の距離の健全であり、またそこにこそ「贈与」というものが発生するような気がしてならない。「市場」において「記号」として流通するのではなく、そこから一歩はみでた「世界」において「定義されるのを待っている」ということかなと思う。制作者の「存在」がそこに「露呈」されている、それが「使用価値」を発生させる第一かなと。「使用価値」は徹底して「線」であって、その「線」こそが「縁」であり、本来的な『経済』というのはその「縁」=関係性を、存在を交換する行為であったのではないだろうかと思う。商品というのは、言い換えれば、「すでに価値づけられたもの」なり「貨幣化できるものとして作られたもの」なのかなと思う。


    〇良い仕事というか、本質的な仕事というのは、それがなんであるかを、自分自身で定義できない在り方をしているものなのだろうなと思う。

    論文の商品化と無関係であった。

    労働行為者は労働生産物をつくりながら、その内部に「使用価値の源泉」を生み出す。使用価値は使用しなければその価値を発揮しない以上、ここでつくられているものは使用価値の源泉である。その労働生産物が使用されたとき、本当の使用価値は生まれてくる。
    では使用価値の源泉がつくられていくとき、どんな時間世界が形成されているだろうか。ひとつの作品をつくr、そのできばえを検証し、次の作品を構想しつくりあげていく循環的な時間の流れがここにある。しかもその時間は等速で流れることはなく、つねにゆらぎつづけていく。主体的な労働の世界、自分の経験やカンを働かせながらおこなわれる労働の世界では、時計の刻む時間はしばし無視されている。主体的な時間が形成される。使用価値はこんな時間存在の中で生み出される。

    その労働生産物が使用されて、使用価値の源泉が本物の使用価値に転じていくのは、どんな時間世界のなかであろうか。私はここでも、使用価値の源泉をつくりだしていった労働行為者たちと同質の時間が流れてゐるのだと思う。使用価値を味わうのは、縦軸の時間世界の中では生じない。一瞬直線的な時間世界が消え、横軸の時間世界のなかに身を置く、そんな瞬間のなかにおいてしかそれを味わうことはできない。

    →「時間」と「時間」がまじりあうということか。「使用価値」は、市場ではなく、個々人内部の「世界」に関連する概念なんだろうなと思う。受け手の「世界」において、発信者の「世界」との交流が生まれる。「世界」において作られたものに対してそこに「使用価値」を認めることとは、その享受者が、そこに自らの「時間」を見出す、もしくは「出会う」ということなのかな。

    使用価値はその源泉が生み出されるときも、使用されてそれがあらわれてくるときも、そこには人間の主体との関係で存在している時間が存在している。そして商品の価値は、その価値量が労働時間で測られているように、客観的で直線的な時間のなかで生み出される。とすれば、使用価値と価値とでは、それがつくりだされる時間世界が異なっているのではなかろうか。さらに価値は客観的な時間を基準にして計測できるがゆえに客観化できるけれど、使用価値は非合理的な時間のなかでつくられ、それがゆえに客観化することのできない非合理な価値でありつづけるのである。

    畑仕事は愉しみだねという表現をすることはあるが、畑仕事が楽しいということではなく、畑仕事をしているとそのなかか楽しみがわきでてくるということ。そのわきでてくる愉しみとは、畑仕事とともに展開する関係がつくりだす


    ここでは仕事それ自体が、固有の価値をもっているのではない。もし畑仕事に価値を求めれば、それは作物を得るという事以外にない。

    ★畑仕事に価値意識があるわけではなく、畑仕事と山里の世界の結びつきのなかに、畑仕事をする意味は成立する

    自分の労働の価値を自己確認する現代

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著者プロフィール

内山 節:1950年、東京生まれ。哲学者。1970年代から東京と群馬県上野村を往復して暮らす。NPO法人・森づくりフォーラム代表理事。『かがり火』編集長。東北農家の会、九州農家の会などで講師を務める。立教大学大学院教授、東京大学講師などを歴任。

「2021年 『BIOCITY ビオシティ 88号 ガイアの危機と生命圏(BIO)デザイン』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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