- Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560024249
感想・レビュー・書評
-
原作:Le feminisme au masculin (1977)
著者:Benoite GROULT(1920-2016)
訳者:山口昌子(1940-)
【目次】
目次 [003]
献辞 [004]
まえがき [005-013]
第1章 「フェミニズムという言葉が存在しなかった時」 015
第2章 プーラン・ド・ラ・バール 023
第3章 退潮期のフェミニズム 049
第4章 コンドルセ 049
第5章 女性崇拝〔フェミノクラートル〕の時代 061
第6章 スチュアート・ミル 107
第7章 未知なる人サン・シモンと魔術師的理工学者アンファンタン 145
第8章 「フェミニズム」という言葉の発明者へ 179
第9章 女たちのフェミニズム 219
訳者あとがき(一九八一年 暮 山口昌子) [229-235]
人名索引 [i-iii]
【抜き書き】
・グルーによる「まえがき」。一息の文章です。
・ここではルビを亀甲括弧〔 〕で括りました。
・「未丁年者」という語がありますが、意味は未成年者です。
・本では「冒涜」を古い方の漢字で印刷してありましたが、ここでは常用漢字にしました。
――――――――――――
まえがき
人類は女嫌い〔ミソジン〕である――この明白な事実に立ち返る必要がある。人々が女嫌いなのは呼吸するのと同様、ごく自然で疑問の余地がない。常識である。歴史や文学、あるいは哲学に取り組むと、女嫌いがかくも根深く、人生のあらゆる行動や私たちの文化にかくも密接に関りあい、かくも世界的な広がりを持ち、かくも……要するに自然であるため見分けることさえできない場合がえてして多いことに気付く。女嫌いはほとんどの宗教に登場し、今日もなお大部分の男性と多数の女性の行動に重くのしかかっている。
「フロイトを理解するには眼鏡のかわりに睾丸をつけよ」とあるシュルレアリストはアンドレ・ブルトンに言った。女嫌いを理解し、またさまざまな変装をした女嫌いを撃退するには、眼鏡の代わりに多分、乳房を持つ必要がある。なぜなら、特権階級というものは決して、いやほとんど決してと言い直そう――このほとんどという表現こそまさしく本書の余裕のあるところであるからだが――出生や性、あるいは肌の色によって自分たちが差別している者の精神状態を懸念することがない。彼らはあらゆる疑惑から彼らを免除するもの、即ち神、摂理、あるいは自然によって特権を与えられていると常に信じている。
女嫌いには千一の流儀がある。女性の幸福という名のもとに家族の存続の保証を女性に求める者、女性自身から彼女たちを守護するのだと主張する者、母親としてのみ女性を尊敬する者、性的対象として女性を蔑視することを許容する者、女性なしではいられない者、女性が「殺戮的な労働と雑然たる製造所」を免れるように努める者、女性が問題になるや自然の法則を常に持ち出す者、女性がもっと本能的に宇宙と彼らとの間の仲介者になるべきだと信じる者、男性の知性を補足するものとしての女性美のみに敬意を表する者、「慇懃な者や大げさな者」。こういう人々は残らず、女嫌いである。そして自分たちが女嫌いであることに無知だったり、否定したりすればするほど彼らは危険である。
白糸で目印をつけた見えすいた女嫌いはもはや恐るるに足りない。つまりアリストテレスや聖パウロのごとく女性を公然と軽蔑し、オーギュスト・コントのごとく女性は知性の点で劣っていると公言し、ルソーやナポレオン、ニーチェのごとく従属状態こそ女性の自然の姿であると断じることは、今日ではもはや擁護できるような立場ではないからだ。サーカスの出し物はせいぜい一つしか残っていない。ある種の懐古的な文学だけが――その中には女性もまた女嫌いであることを示そうとしたものもある――見物人を手軽に慰めるために今だにその出し物を演じて暇をつぶしている。
ナポレオンもプルドンも女性に恐怖を与え、痛い目に合わせた。しかし今や、勇敢なる現役の女嫌いたち、即ち流行遅れの男らしさを守る後衛部隊の兵士たちは、むしろ私たちを笑わせ、そして結果的には私たちの主張の正しさを証明することに役立っているのだから、まったくばかげている。彼らの名はラルテギイ、コオ、ミシェル・ドロワ、バルジャベル、デュトールやデュグランである。
しかし、どうしたら私たちは狡滑な女嫌いや生来の女嫌い、慇懃な女嫌いから解放されるだろうか。この慇懃な女嫌いという意味は「われわれ人類の中で最上なもの」とか、または彼らが前もって定義するのに骨を折るものと女性を評しながら平然と女性に助力を乞う男たちだ。いつ、私たちは一方的に感動を与えてばかりいる状態をやめるのだろうか。いつ、私たちは自分たちが、本当の意味での《最上なもの》であることを確信できるのだろうか。それを発見するのは私たち自身である。女性が一人も含まれていない《議論の余地のない精神的権威者》に勝手なことを言わせてはならない。今の私たちの社会は男性支配の社会であるわけだが、こういう社会ではごくわずかな例外を除いたら、私たちはアリバイ型女性、人質型女性、証拠型女性、あるいは絶叫型女性のみをこれまで念頭においていたといってもいいだろう。
男性が今日、フェミニストであるためにはたった一つの方法しかない。それは女らしさについて沈黙することである。女性に自由に発言させることだ。
男女間の力関係は古くから不変であるが故に正当化されてはいるものの、新たに問題にしようとする高潔かつ正義への情熱に燃えた男性がいないわけではない。こういう男性はこの力関係に物事の性質の影響や崇高な神の意志(男性にとってのみの神)を見ることを拒否し、権力の影響、つまり権力の濫用を告発することになる。フランス革命および市民の半分にしか適用されなかったのに普通選挙と呼ばれた選挙の百年後に、ヴィクトル・ユーゴーは、女性のための最初の日刊紙を一八八七年にマルグリット・デュランと創刊したこれらの高潔な男性の一人であるレオン・リシェールに次のように書き送った。「われわれの文明には語るも苦々しい奴隷がいる。法律用語ではこの奴隷を未丁年者と呼び、婉曲な表現をしているが、この未丁年者、実際には奴隷こそ女性のことである。このような法制度のもとで、女性は所有せず、出廷せず、投票せず、勘定に入れられず、存在しない。男性の市民は存在しても女性の市民は存在しない。まったく冒涜もはなはだしい。こういう状態はやめるべきである」
まったく冒涜もはなはだしい。こういう状態はやめるべきである。ユーゴーが述べていることは文字の上だけのことである。実際は父権主義者であるのに、ユーゴーはフェミニストを自称しているにすぎない。この文章からうかがえるのは、船荷の最小限の底荷をバランスを取るために、しぶしぶ放出する特権者特有の用心深さや正義のパロディー、あるいは利己主義的憐憤の情だけである。
児童の名において女性を擁護することはフェミニズムではない。愛の名において擁護することも同様だ。物わかりがよく、熱心な女性の擁護者であると自称する男性の大半は成行き上、ある状況を整えたにすぎない。その状況に彼らは非常に満足した。また――それ以上に重要なことだが――文字どおりスキャンダラスな面を見なかった。正義の味方や勇敢な男性主義に忠実な男性も一様に、正義や勇敢な心、あるいは、大原則の適用を一時的に中止するのは、彼らに最も近く、時として最も愛しく、そして常に最も虐げられている者、即ち女性という存在に恩恵をほどこす時だけである。この驚くべき錯誤……といってもこの無分別さはまったく信用ならない。
ところがこれから登場する男性たちにはいったい、いかなる珍しい資質が備わっていたのだろうか。彼らは独立した人格、まったく独自の人間として女性を考えるために、忠実な妻、家庭の守り手、賞賛すべき母といった伝統的なイメージを凌駕したいと望んでいた。また彼らに優越性を捨てさせるように仕向けたのはいったい、いかなる感動的な公正さだったのだろうか。多数の男性は単に男に生まれるだけで、この優越性が授けられたということを忘れている。ほかの無数の男性とは区別されるもので彼らが共通に持っているものはいったいなんなのだろうか。ほかの男性たちは女性の性格や使命、知性、マゾヒズム、性欲など、あらゆるものをまるで自分たちのもののように熟知し――それには立派な理由があるのだが――それらについて力説し、もったいぶって説明し、法律を制定し、予言する。
この例外的な資質を持った男性たちにこそ私たちは光をあてたいと思う。そしてこのあまりにも忘れられ、潮笑され、あるいは無視されることの多い彼らに、わずかながらも近づいて耳を傾けたいと思う。彼らの名前はプーラン・ド・ラ・バール、コンドルセ、フーリエ、スチュアート・ミル……。彼らはパンテオン入りする価値が十分にある……まだほとんど空っぽのフェミニスト用のパンテオンに。彼らに空想家〔ユートピスト〕という安全な貼紙をつけて片付けたのは少々早計だった。彼らは「ある性を他の性に従属させることは悪であり、人類の進歩に対する主要な障害の一つである」という革命的な思想に感動していたからだ。この思想はたとえ承認されているにせよ、今日でもなお、世界の大半の国々で最も破壊的かつ最も衝撃的で、最も実行不可能なものだが、同時に全人類にとって最も希望に富んだものである。
―――――――――――――――
・次に、訳者が概要を示した部分を引用します。なお「訳者あとがき」自体は、この四倍ほどの分量があります。
―――――――――――――――
訳者あとがき
本書はフランスで一九七七年に出版されたLe Féminisme au Masculin〔……〕の全訳である。〔……〕歴史の中で時には故意に忘れられ、無視され、あるいは冷笑の対象として扱かわれてきたプーラン・ド・ラ・バール、コンドルセ、サン・シモン、アンファンタン、フーリエ、スチュアート・ミルといったフェミニズムの男性闘士たちに光を当てることで、フェミニズムの歴史を明らかにしたものである。
グルー女史は七五年、優れた女性論『最後の植民地』(原題 Ainsi soit-elle)(有吉佐和子・カトリーヌ・カドゥ訳、新潮社)を発表しているので、本書はそれに続く「女性論」の“第二弾”である。
『最後の植民地』が人類二千年の“男尊女卑”の歴史と闘ってきた古今東西の女性たちの事例や、一見共通点のなさそうな孔子、ナポレオン、ポードレール、フロイト、ニーチェ、ドゴールらを《女嫌い〔ミゾジン〕》という共通項でくくることで、時空を超えて常に不利な“女性の条件”を白日のもとにさらしてみせてくれたのに対し、本書はフェミニズムとは何かをその根源にさかのぼって根本的に問い直した歴史書であり、概論であり、入門書である。
本書を読むと、《フェミニズム》という言葉がフーリエの造語であること、〔……〕など、いまさらながらにフェミニズムが古くて新しい人類の課題である点に驚かされる。と同時に、〔……〕フロイト的見方をする偏狭の人や、フェミニストとフェミノクラートとを混同している時代遅れの人の目も見開かせてくれる。そういう点では“啓蒙の書”ともいえよう。
今、《フェミニズム》という言葉が、かつてないほどもてはやされていながら、この言葉に対する正確な情報がそれほど多くないとき、豊富な資料と知識に裏打ちされたグルー女史の明噺な解説と鋭い洞察は貴重だ。
〔…後略…〕
――――――――――――――詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『4分の3時代』は、どこだろう?