移民たち (ゼーバルト・コレクション)

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  • Amazon.co.jp ・本 (268ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560027295

作品紹介・あらすじ

異郷に暮らし、過去の記憶に苛まれる四人の男たちの生と死。

感想・レビュー・書評

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  • 言葉の蒸気がたちこめ、一言で名づけられない蒸留物が手のひらに残る、という読後感。四話それぞれに、いたって繊細なバランスの元に組み上げられた手工芸品のようだった。鈴木仁子の翻訳がとても良い。

    巻末解説で堀江敏幸は「作家の極端なぺシミスムが読者にかけがえのない幸福をもたらすとは、いったいどういうことなのか?」と書いているのだが、自分とはまったく異なる感覚なのが興味深かった。ゼーバルトが極端に悲観的な書き方をしているとは思わなかったし、幸せな気持ちにはならなかった。国を移ることと祖国の過去の行いとを、彼のやり方で、類のない粘り強さで直視したのだと思った。そして読後に残ったのは四人の移民たちの悲痛と喪失だった。

    ドイツでは第二次世界大戦での戦争犯罪について、義務教育でしっかり学ぶという。生まれてもいない時代の祖国の罪を学ぶのはおもしろくはないだろう。とはいえ、生きていくうえでそこかしこで過去に直面させられるとき、学んでいた方が学ばなかった場合より、罪悪感と不満に翻弄され過ぎないで済むのではないか。そういう国で生まれ育った人が書き、受け入れられた本なのだと感じた。

    21世紀の日本で、本書と同じような構造の作品が日本を舞台に書かれたとき、それが優れたものであったとしても、商業出版として成り立つのかどうか疑問に思う。日本は学ばないことを選び退行して、過去の結果としてある進行形の悲しみを受け止めず、ないことにしようとしている気がする。そしてその態度のために、個人が傷つき不安を強めている可能性があるのではないかという気がする。

  • 「私」がかつて出会い、不意に記憶のなかから浮かび上がってくる人たちの奇妙な人生。写真と新聞記事の切り抜き、手記などの断片が巧みに嵌め込まれ、真実と思えないほど不思議な話が作り事と思えないほど生々しく語られていく。


    7歳のときにリトアニアから家族でニューヨークに移住するつもりがロンドンで船から降ろされ、それから名前も英国風に改めて妻にも出自を伏せていた元開業医のドクター・セルウィン。両親が百貨店を営む地元の町に馴染めず、恋した女性を強制収容所で亡くすという悲しみを抱えながら教師という天職に就いたものの、74歳になって自死を選んだパウル。ドイツからアメリカに移住しホテルのボーイから富豪の息子の付き人になったが、主人が精神病院で亡くなってからは少しずつ狂っていき、ついにショック療法の被験体となって記憶を失うことを自ら望んだアンブロース。子ども時代に両親をナチに殺され、自分だけがイギリスに渡り生き延びたという過去をずっと胸に秘めていた画家のアウラッハ。「私」が見聞する四人の物語の裏には、ユダヤ人の歴史が陰画のように貼り付いている。
    まるで来歴不明のアルバムやスクラップ帳があって、それを何年も眺めながら被写体の人生を妄想して書いたかのようだ。写真を使って本当らしく見せる手法について、作中でアウラッハの叔父が「新聞に載った記念写真は偽造なんだ。この記録が偽造だということは(略)おなじようにほかのものも偽造なんだよ、なにもかもはじめから」と語る場面がある。これはナチの焚書についての話なのだが、本作の構造に自己言及したセリフでもあると思う。たとえば、アンブロース叔父さんの章に日本人なら必ず知っている建造物の写真がでてくるのだが、その説明がとんでもないことになっていて笑ってしまった。国を追われた人びとの悲劇を描いた小説とだけ思っていたら足元を掬われるような虚構のうねりが、濁流のように物語を進行させていく。
    本書を読みながら感動したのはまさにそういう歴史の被害者として一絡げにされる人たちの細部に対する、偏執的とも思えるほどの凝視だ。集合写真を見ていたはずがそのうちの一人のアップになって、古いはずの写真がその人の身につけている指輪やなんかまでくっきりと見えてくるような感覚を、文字を通して体験させられる。アウラッハの母、ルイーザが遺した手記のパートでは彼女が幼少期を過ごした村での幸福な記憶がいきいきと語られる。戦争がなければ書き残すこともなかったようなこまごました事柄が、本当の意味で人の生きた証になるのだ。
    ゼーバルトを読むのは初めて。こんなにも好みにぴったり合って、こんなにも豊かなものを書く作家に出会えて嬉しい。主題をこれと一つに定められるような作品ではないので、いくつも気になったことがある。まずはやはり〈蝶男〉というモチーフ。セルウィンの章の網を持ったナボコフの写真、パウルとマダム・ランダウが知り合うきっかけが「ナボコフの自伝」なのも蝶男の変奏であり、移民というテーマにもかかっているのだろう。また、同性愛のほのめかしも繰り返される。セルウィンからネーゲリへの(妻への思いと比べられるほど)強い憧憬、アンブロースとコシモの閉じた関係、ウィトゲンシュタインへの度重なる言及。
    それから帯には「四人の男たちの生と死」とあるが、彼らの人生の語り部はマダム・ランダウだったりフィーニ叔母さんだったりして、文章から女性の声が聞こえてくる小説だということ。アウラッハの章では後半のほとんどをルイーザの手記が占め、エピローグで「私」が今度はゲットーで働いていた若い女性たちの写真を凝視しながら〈造りだした記憶〉の世界に再び入り込んでいく最後の一文で、これは著者の意図する読み方だと確信が持てた。本作は語る女性たちの小説でもあり、語られなかった女性たちにも思いを馳せる人の手になる物語なのだと。
    解説は堀江敏幸。だからというわけじゃないが、本書のはじめのほうは堀江さんにそっくりだなと思いながら読んでいた。かと思えば、ドクター・エイブラムスキーが語る恐怖のショック療法とアンブロースの最後の姿は、アンナ・カヴァンのように冷たい幻想性を帯びる。「私」がアンブロースとコシモの食事を眺める夢や、アウラッハが母の昔の恋人に出会う夢のシーンにも、白黒映画のようにしんと底冷えした陶酔感があり美しい。
    彼らは初めから失われるために生みだされ、再び消えていった"キャラクター"なのだが、それにしては本作を読み終えたあと、空の手のなかに質量のある実在感が残りすぎる。はたしてそれは初めから何もなかったのと同じなのだろうか。

  • 静かで印象的だった。移民たちにとっての故郷(故国)とは記憶なのだろう。記憶をたどり、記述することで、その人々が確かに存在したという事実をとどめようとする強い意志を感じる作品でもある。蝶男がたびたび出てくるあたり、移民であったナボコフへのオマージュでもあるのだろう。/ 写真が添えられてというより、写真が先にあって、物語がつむがれたような気がする。/ 「どのように語ろうが、私は対象に公正ではありえないのではないか」という問いは重い。

  • 4人の移民たちの悲しい物語。忘却がふいに甦り、押し潰され、消え入るように自ら終焉へと向かう移民たち。とても苦しくつらい読書だった。それでもゼーバルトは目を背けることを許さない。なし崩しに過去の亡霊と化そうとする歴史を掘り起こし、内なる怒りを静かに強く表出する。惹き付けられる、どうしようもなく。虚構を織り交ぜ、合わない辻褄のその隙間に、黙しても黙しきれない真実を感じずにいられなかった。ゼーバルトは使命を持って戦っている。

  • 幸せを求めて、僕は山形から東京へ上京した。けれど、僕は薄々気が付いていた。ここは僕の土地ではない、と。

    僕らが絶えず動き続けているのは、きっと僕ら自身に組み込まれた欠如のためだろうと思う。
    欠如を埋めようとして、日々の生活を営んでいる。足りないもの。抜け落ちた何かを求めて。

    4つの短いストーリーは、欠如を埋めることが出来なかった人々の話だ。誰もがそれを知っているにもかかわらず、どこかでそれから遠く離れていく。すっぽりと空いた心に埋まるものは、故郷の土だった。
    強烈なのは、精神病院で電気ショックを受け続けた老人の話だった。彼はロボットだったのかもしれない。足りないものを呼び起こすために、彼は苦痛を求めていた。衰退へと。

    僕は故郷を見据えてもいまだ東京にいる。人工的な香。どぶの匂い。過剰な有機物。僕は彷徨っているのだろうか。足りないものが遠く離れていく。強烈な電気ショックのように、度々刺激を求めようとする。ギャンブル、酒。僕らは衰退を免れない。生れ落ちたその場所へ再び戻るまで。

  • ゼーバルトは実に愚直な作家だな、と思う。器用に虚実を混交させて書いているようで、実は彼自身の実存を賭けてこうした「偽史」に取り組んでいるのだ、と思ったのだ。故に彼の書くユダヤ人迫害の歴史も少年時代の甘美な記憶も、現実を超えてより生々しく感じられる。書き続ける内に文章が単なる事実の記述を超えて生々しい細部の描写や肥大化する記憶へと至るあたり、一般的にはむしろ「蛇足」と言われそうなところがゼーバルトの場合は美味しい贅肉/果肉として結実しているように感じられる。読みやすい作家ではない。晦渋だが、確かな力を感じる

  • ユダヤ人の移民の物語。4篇。一筋縄ではない。
    ①元医師の物語。山岳ガイドの凍死体が72年を経て見つかる。
    ②教師の話。鉄道が死のメタファー。ある意味わかりやすい。
    ③大富豪の執事の話。精神病院への足取りが壮絶。
    ④マンチェスターの芸術家とその母の手紙。最後も痛めつけられる。

  • どこからか生まれた土地を離れてきた人々の物語は、良い思い出も苦い記憶もすべてはモノクロの世界となる。

    私たちはそういう過去をふとしたとき思い起こします。
    そう例えば、古い一枚の写真を見たときとか。

  • どれも移民……ユダヤ人の話でどんなに時間がたっても絶対に記憶から喪われることはない出来事は知らないふりをしたらダメだし、恥ずかしいことなのでは?と強く思う。2話目のパウル・ベライターの話はたぶんずっと忘れない。ワタシも忘れないよと伝わればいいなと思う。

  • ドイツ系移民にまつわる四編。

    とある新聞記事、写真、手稿などを発端に、その人物の生涯を辿るという趣向。彼らは歴史的偉人でもなく、作者の親族でもない様子である。一様に冷めた描写が重ねられてゆく過程で、いまは亡き移民達がまさに生きた時代と土地が、ありありと現前する。その手前が鮮やか。

    作者の遺作長編「アウステルリッツ」がそうであったように、作中にモノクロの写真が多数配置されている。この写真は必ずしも小説の展開とつながりがあるわけではなく、不穏で気がかりな心理を増幅させる装置。非常に印象的で、写真を眺めるだけでも、何事かが心の奥でうごめく様な気がしてくる。

    その時代の無名な個人ひとりの生涯を、残された記録や聞き取りを手がかりにして、ピンポイントで光を当てることにより、人ひとりの周辺だけでない多くのものが現前する。決して新しい方法ではないが、ゼーバルトはこの方法において巧みである。

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著者プロフィール

W.G.SEBALD
1944年、ドイツ・アルゴイ地方ヴェルタッハ生まれ。フライブルク大学、スイスのフリブール大学でドイツ文学を修めた後、マンチェスター大学に講師として赴任。イギリスを定住の地とし、イースト・アングリア大学のヨーロッパ文学の教授となった。散文作品『目眩まし』『移民たち 四つの長い物語』『土星の環 イギリス行脚』を発表し、ベルリン文学賞、ハイネ賞など数多くの賞に輝いた。遺作となった散文作品『アウステルリッツ』も、全米批評家協会賞、ハイネ賞、ブレーメン文学賞を受賞し、将来のノーベル文学賞候補と目された。エッセイ・評論作品『空襲と文学』『カンポ・サント』『鄙の宿』も邦訳刊行されている。2001年、住まいのあるイギリス・ノリッジで自動車事故に遭い、他界した。

「2023年 『鄙の宿[新装版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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