東方綺譚 (白水Uブックス 69)

  • 白水社
3.97
  • (46)
  • (41)
  • (46)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 525
感想 : 47
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (163ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560070697

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 東方世界の幻想的な九つの物語。
    文体、情景描写の美しさに不思議な浮遊感を感じつつ。
    源氏物語に着想を得たとされる「源氏の君の最後の恋」が新鮮な印象。

  • 西洋人の著者による東洋モチーフの短編集。一話目を読み始めたときから美しい文章にすっかり夢中になった。
    最初は中国が舞台だったけれど、その後は東欧が多い。西洋人というか西欧人からするとそれも東に入るのだろうとは理解できるが、東の範囲が広すぎるというのが東洋人としての素直な感覚かも。
    おはなしや文章は美しく儚く、初めてユルスナールを読んで、他の本も楽しみになった。

  • 幻想的な短編集。あっという間に読み終わる。夢を見ているような感覚。『源氏物語』のその後の源氏を描く作品や、絵師の老人とその弟子の話が好き。ヨーロッパからみると、東方は不思議で幻想的な世界だったのかもしれない。エンデ『モモ』と不思議な感じが似ている。アジアの視点からみると、ヨーロッパはとても華々しく、立派なイメージがあるように思う。映画や漫画などにもヨーロッパのものをモチーフにしたものが多い。『鋼の錬金術師』や『テルマエ・ロマエ』がその例。逆に、ヨーロッパがアジアのものをモチーフにしたものは、徐々に増えているとは言え、現在も少ない。当時、このような作品は新鮮に感じられたのではないか。ヨーロッパから見たアジアの見え方の一端を垣間見せてくれる作品。

  • 『老絵師の行方』
    幻想の世界を絵画の力で現実に作り出してしまうという何ともぶっ飛んだ内容だが、とてつもなく美しい表現がたくさん使われ、絵画になぞられるような比喩表現は絶品であった。
    「沈黙が壁であり言葉がそれをいろどる色彩であるかのように、語ったのだ。」9ページ
    世紀をいくつか遡るほど昔からアジアに伝わる伝説の物語のような雰囲気だが、これを書いたのはフランスの近代作家というのが驚きである。当時の漢には、こんな逸話が生まれるほど、絵画のような芸術に対する憧憬や蠱惑や未知や新鮮さというものがあったとでもいうのだろうか。
    老絵師は現実に存在する事物よりも影像を愛している。そして老絵師が事物を絵の中に投影すると、その事物は瓦解していってしまう。ここがなんとも不思議であった。老絵師が弟子の妻を描くと事物の妻は萎れ、弟子は絵の中の妻の方に魅力を感じるようになる。また、海や山や花を描けば、その絵を一度見たら事物の自然に感動しなくなってしまう。ここに何か深い意味を見出すことは拙劣な考察力の私にはできないが、西洋から見た東方の珍妙な印象が育んだおかしさなのかも知れない。
    芸術賛美の物語とも思ったが、それだけではなさそうである。老絵師の絵の持つ明証性というものがキーなのかも知れない。人間の生き方や価値観は定まることなく、長い時間の中で流転していく必然性がある。それ故に人間には脆さがある。しかしそれは必ずしも悪い事ではない。柔軟な都合の良さや狡猾さが現実の世界では求められる。しかし絵となると、ましてや一流のものとなると、絶対的な美となって、そしてそれは疑う余地のない真理として不動の物になってしまう。刹那的な存在である現実は、永続的となった影像の前には平伏すしかないのかも知れない。永遠がありえないのもさることながら、一瞬でも現実世界でその真理であることすら許されないなら現実は取るに足らぬ物となってしまう。妻もずっと綺麗ではいられず、自然もやがては朽ちる。現実と幻想の差異は尨大で、現実に生きる人間にはそれがなんとも残酷に映るのだろう。

    『マルコの微笑』
    血液や汗の匂いが充満する猛々しさの中に、官能の雫が滴るような魅惑を持つ物語であった。
    豪傑さと艶やかさを併せ持つマルコに、拷問による苦痛を与える所は三島由紀夫の『仮面の告白』を彷彿とさせ、目を伏せたくなるグロテスクさがあった。英雄であるマルコはカリスマ性、権力、美貌を恣にし、戦禍であったために命を狙われる。安らぎを与えてくれた寡婦がマルコを裏切ったことで彼は敵に捕まり、暴虐の限りを尽くされるが、身躯をピクリとも動かさずに耐え、死んだふりをして遁走の時を窺っている。そして凡ゆる損傷に耐え抜いたマルコであったが、色仕掛けにあった彼は僅かに気を緩める。圧倒的苦痛を耐え抜く忍耐でさえ、官能の前には歯が立たないというのがいかにも古典的男の姿を象徴するかのように感じる。倒錯したような、この禁断の果実とでもいうべき領域にある甘美なエロスは、その描写自体にえぐみがなくとも、その前段階である残酷な苦痛のあとに添えられるだけでこの上ない扇情的な効果を持たせ、男をふりまわすに十分足りる。屈強なマルコに笑みを零させらほどの力がある。やがてマルコは自らを欺き拷問させた寡婦を殺害して自分を誘惑した女と共にその場から逃げる。英雄伝説に相応しい不思議な味を持つ物語であった。英雄とは豪傑と艶麗さのバランスが必需なのかもしれない。
    だがあくまでもこの英雄伝は伝説のような物であり、事実かどうかは分からない。劇中でも現在の技師が歴史を語るように述べられているので、奇譚の一つである。

    『死者の乳』
    形式は『マルコの微笑』と似ていて、現在の人間が伝説を語るという形式である。この物語にも、如何にも奇妙で残酷な面があったが、「マルコの微笑』が男の象徴する姿とするなら、この作品は女のそれといえるかもしれない。大昔の女性像の理想とは、男を支え、子を持ったら愛情を持って育てるということなのだろう。
    アルバニアの男三兄弟は、トルコからの侵略を阻止するため、物見をするための塔を建設しようとするが、うまくいかない。当時の風習として、生贄を捧げなければ建築は行えないというものがあったため、男兄弟は配膳をいつも届けてくれる自分らの妻らに目をつけ、次配膳に来る3人の誰かの妻を生贄にしようと話が決まる。長男は妻に愛想を尽かし、新たに思い人がいるのであわよくば妻が生贄になればと思っていた。妻を生贄にする提案をしたのも彼である。次男は、妻を思う心があり、次の配膳の日は顔を出さずに洗濯をしてろと脅迫的に説得した。そして三男は妻と比翼連理であり、抱き合いながらどうか配膳当番が妻ではありませんようにと願った。三男は塔の建設という男の役割にも誇りを持っていたために生贄に関しても仕方がないと受け入れる。三男の夫妻には生まれたばかりの赤子がいた。
    生贄を捧げるの当日、兄弟の前に姿を表したとのは残酷にも三男の妻であった。運命というのは悪いほうへ傾いていく。そんな運命すらも受け入れた三男の妻は、生贄になる前にある条件を提示する。それは、自身が捧げられた塔の前に息子を毎日連れ、私の乳を与えてくれというものである。畢竟、女は次の日には死んでしまったが壁からはみ出た乳は輝きと生力を失わずに、子供が必要としなくなるまで乳を出し続けた。その伝説が起きた聖地である塔には、何世紀か経っても、心打たれた母たちが訪れたという。しかしその塔も、今や誰の記憶にも留めることはなく忘却の中へと消え去った。かつて崇められた女性像はなくなり、金というものに縛られた母親が跳梁するようになったという。
    新たなもの(それは価値観でもなんでも)が生まれる時、必ずしも温故知新のようにいくわけではないことを嘆くかのような話でるような気がした。ユルスナールは歴史作家でもあるようなので、歴史の捉え方を見直すように言っているのかとも感じた。


    『源氏の君の最後の恋』
    源氏物語を題材にしており、内容も外国の人が執筆したとは思えない程にとても日本的であった印象である。
    若い頃の源氏の君は自分を慕う女に困る事などなく、困らせられたのは当然女の方であったが、耄碌してくるとその立場も反転してくる。嘗てのような麗しく新鮮な瑞々しさを失い、女からも裏切られるようになった君は隠居生活で人生の終焉を迎えようとし、矛盾と不純の愛に憔悴したような様子が感じられる。その生活の中で、やがて君は目から光を失ってゆく。その様子を描写した「彼の愛したかよわい女たちのために流した涙で目を焼かれたかのよう」という表現は、まさに過去の狂乱と愛欲に浸かった婚姻生活が垣間見れる一文である。現に彼を愛した女は沢山いた。そして花散里もその一人であり、彼女は身分と縹緻が共に斗出しているわけではなかったが、源氏に加え、その妻にまで忠実に仕えていた女である。それでも自身の境遇に不満を持つどころか、感謝の念を抱いていた。源氏の側に身を置くことがこの上ない幸せであったからである。そんな彼女は隠居している源氏に逢いに行くことを決心する。それも素性を隠して。昔を思い出すことを嫌がり、自身が忘却されることを願う君のためにである。そして正体を言わずに生活を続ける二人であるが、やがて君が亡くなる時、嘗て愛した妻や情人の追憶に耳を貸す花散里であったが、その中に素性を隠した自分はいても、花散里としての自分が思い出されることはなく、彼女が慟哭して物語は終わる。
    この物語は、源氏の君と花散里が初めて純真な恋慕の情を抱くようになった所にあると思う。片方は派手で、片方は慎ましやかに恋をしてきた。そして過去の生き方があまりに異なりすぎた故に、最期は本来の自分としての過去の軌跡を共有することが叶わなかった。そして今まで見せてこなかった花散里の素直な気持ちが最後に表に出てきてしまう切なさは無情な悲しさがある。つつましく、自己を押し殺してきた生き方を痛罵されるような境遇は、運命が嘲笑っているかのようである。恋というものがいかに冷酷にできているかが改めて実感させられる。

    『ネーレイデスに恋した男』
    いままでの作品は全昔話の伝説を語るような形式であったが、本作は語り手と同じ時代に起こった不可思議な幻惑の物語となっている。
    石鹸工場の所有主のジャンが、目の前にいる啞となったパネギョティスという男の身に降りかかった顛末を話すという形式。
    美女の憧れの的であるほど眉目秀麗で、裕福な百姓の息子であったパネギョティスは、ある日家畜の羊が二匹倒れたので獣医を呼ぼうと、山の向こう側の麓にある獣医の元まで暑熱の中山へと出かけた。ところがあくる日の夕方にやっと戻ってきた彼は亡者のようになり、おぼつかない呂律で美しい裸の女を見たと言ったきり口もきけない腑抜けになってしまった。
    倦怠と空虚のみしか感じない人生行路から抜け出し、幻影の世界を羨望する人間につけいるかのような、ニンフの蠱惑的なイタズラ。世間の潮流からの逸脱したものへの憧れがこのような話を生むのかもしれない。お金持ちのジャンもニンフの犠牲者のことを哀れむことはしない。むしろ羨ましそうな気さえする。
    最後に登場する三人の外国人の女性らもネーレイデスと「私」に言われている。彼女たちは世間から隔絶されることを望んで三人だけで暮らしている人間である。度合いの違いからパネギョティスにはネーレイデス(ニンフ)と認識しなかったが、俗を生きるジャンや「私」には女神、ネーレイデスとして目に映る。
    人物描写に大地に生きる神聖な生物を思うかのような神秘的な感じがしたのはやはり現実的な側面から乖離したものとして表したかったからであると私は思う。


    『燕の聖母』
    修道士テラピオンという、キリスト教布教に邁進し、他の宗教に並々ならぬ憎悪を持つ偏屈な老人が、ギリシャの村で悪戯するニンフの撲滅を企む。これはキリスト布教の悪の一面とでもいえるかもしれない。ニンフはギリシャの村では信仰の対象であるが、テラピオンは蹂躙を止めることはない。宗教のあり方とはなんなのかと思った。やがて洞窟に追い込まれたニンフは飢死しそうになるが、突然現れた聖母マリアの象徴のような女性が現れ、ニンフ達を燕にして解放する。結局はキリストが問題を解決する。小説全体としては御伽噺として綺麗で良かったが、内容に関してはキリスト賛美をこちらに押し付けているような気がしてしまった。
    ところでギリシャのニンフという存在にとても興味を持った。信仰の対象でありながら人に危害を加えるもの。自然という存在が、人が賛美しながらも、人を陥れるそのものなので、大地に生きる存在として説得力のある信仰であると感じた。

    『寡婦アフロディシア』
    短いながら怒涛の展開を見せる短篇であった。黒い情熱を宿す生粋の魔女、ここに誕生といった感じである。このような女が放つ蠱惑のような威光は何なのであろうか。窃盗や殺人を繰り返す悪漢と逢引きする、それも自らの夫を殺した人間と。この女のもつ凄まじい情念を、美しいメタファーと流麗な文体でつづり、読者は恐怖の酩酊へと誘われる。彼女は悪漢との逢引きが夫に見られてる様子を「影絵芝居の滑稽な嫉妬(やきもち)やきのように喜劇的で大げさなおびえ方」としか捉えず、「(私)の恋愛劇にちょっとした笑劇の風味」と嘲る。そして悪漢と自分の情事を「かくす掛け布団の役」と夫を認識している。何が彼女をそうさせたのかなど議論の対処としない。ただ扇情という名の悪魔から背中を少し押されただけである。我々は悪漢と魔女が交わした情交のグロテスクな瑞々しさを有り有りと体験しなければならない。男を誘惑し、騙し、裏切るが、誰よりも愛を信じ、尽くしきる。そしてその最期は無様にも儚く散りさる。この異様な弱々しさに気味の悪い切なさを感じてしまう。それはテーマが身近で月並みな愛だからであろう。深淵と黄昏の底に沈んでいく彼女から、声にならぬ叫びが私の胸臆に響き、気持ちの悪い何かを掘り起こされるような気分になる。文学に登場する悪女は、『真珠夫人』の瑠璃子しかり、既知である筈の愛を、魅力に包みつつも遥か知らない領域で展開してくるから面白い。

    『斬首されたカーリ女神』
    神の人間界への追放はよく聞くが、他の神々の嫉妬から人間界へ捨てられるような形で追放されるのは初耳であった。ヒンドゥー教の神話を題材にしているらしく、興味を持った。どうやらトーマス・マンもこれを題材にして小説を出しているらしい。神の頭部に娼婦の体を繋がれたカーリ女神。女神の神聖さと醜い情欲を持つ人間の混合である。魅力を知らなかった女神と魅惑をしりすぎている娼婦。女神はこれに耐えきれずに賢者に嘆くが、人間は多かれ少なかれその混合に生きている。自身の醜さには目を背けたくとも抗えない。哀れなカーリ女神こそが人間の象徴ではないか。

    『コルネリウス・ベルクの悲しみ』
    この本の冒頭の『老絵師の行方』との対比を為すのであろうことはすぐに気がつく。事物の影像をとことん愛した画家と、人間を描き、人間を探索し過ぎて嫌気がさした画家。芸術の探究心の持続が如何に艱難辛苦を伴うことか。最近読む作品には偶然にもこのことを実感させられる。
    または幻想と写実の対決のようにも読めた。これは幻想の勝利の一つを提示しているのか。

  • 訳者は解説の中で小泉八雲をひいておられるが、読書中に思い浮かんだのはむしろ泉鏡花の怪奇譚であった。文体にせよ根底を流れる奇譚への興味にせよ甚だ異なるものではあるが、日本に育ってしまった捨てようもない感覚が、どうしても読み手としての自分に妖しい違和感を押し付けてくるのである。間違いなく格調高い文学としての価値を感じつつも、どこかで読み手の文化的背景を避けられず読み違えてしまうのではないかと不安になる、そんな作品である。

  • 『東方綺譚』は、ユルスナール若書きの書。アムステルダムに住まう老画家を描いた一篇を除く八篇が作者の生地であるベルギーからみて東方(オリエント)に位置する地方を舞台にするのがその名の由来。ブリュッセルの名家に生まれ、教養ある父と家庭教師により高度の古典学を教授された著者は、父の死後各地を遊学し見聞を広める。厖大な古典学の教養と実地に感受した諸国の風土、文物の印象を綯い交ぜにし、絢爛たる修辞を惜し気もなく濫費しつつ、彫琢された硬質の文体で思惟を固め、衆生の耳目を驚かせるに足る九つの稀譚を、表情の一つも変えることなくさらりと語り終える。初版時には十篇構成であったが、38年後改訂版上梓にあたり、その内一篇を手直しの用無しとして削除するほか、文体上の修正を経て今に至る。

    巻頭を飾る「老絵師の行方」が特筆すべき完成度を誇る。訳者いうところの「神韻縹渺たる趣き」が全篇を蓋いつくし、時に読者をして批判や解釈を捻り出そうとさせる夾雑物が入り込む隙を与えない。とはいえ、それでは評足り得ない。気のついたことを幾らか記しておく。旅の絵師汪佛の興味の対象は物ではなく、その影像にあった。偶々知遇を得た玲は、汪佛によって、事物に色彩あることを知り、師と仰ぐ。自分より画中の影像に心奪われる夫を憾んで妻は縊死を選ぶ。玲は家財を売り払い汪佛と旅に出る。

    ある時、師弟は捕縛され皇帝の前に連れ出される。無実を訴える絵師に皇帝が語る。外界と隔絶され、汪佛の画を蒐めた部屋で育った皇帝は、世界を汪佛の描いた画のように美しいと思って育つ。長じて実世界の醜悪であることを知り、あまりの違いに絶望した。老師の罪は天子を欺いたことによる、と。最期に未完の絵を完成させるよう命じられた汪佛が素描の水に色を指すと櫂の音が聞こえ、先刻殺されたはずの玲が舟から招く。汪佛が乗るや否や舟は次第に遠ざかり、やがて画中の崖の陰に消える。汪佛が船に乗って消え去るところは、「解題」にあるハーンの『果心居士』によく似ている。

    訳者は絵師の品格と作品の美的効果をもってユルスナールが勝るとする。それに異論はないが、両者の差は名品を所有する(描ける)者に対する権力者の思いの差にあるのではないか。信長や光秀のそれは単なる物見高さに過ぎない。しかるに皇帝のそれは、現実を超える美や真への希求である。魂のこもった画には、現実世界の空虚さには比ぶべくもない存在感がある。しかし、一度それを知ってしまえば、皇帝と言えども、世界の支配者という点では一介の絵師に及ばないことを認めねばならない。皇帝としてそれは許せない。手を断ち、眼を焼く罰は、汪佛からその世界を奪うことに他ならない。支配者は一人でいいという論理。これでこそ皇帝というものである。

    ユルスナールの物語る綺譚は、ただ物珍しい話というのではない。そこには哲学というと言い過ぎかもしれないが、何か人をして深く思いに至らせるものが含まれている。しかも、寓話のように独断的な解釈によって諭すのではなく、読者が自ずから思いをめぐらせそれまで気づかなかったものの見方に触れる契機となる、そんな物語となっている。すぐれた文学だけが持つ美質である。

    人柱とされても、幼子のために乳を飲ませたいと願う母性の奇蹟を描いた「死者の乳」、造物主の造り損ねた天使がニンフや牧羊神となった、というキリスト教ありきの解釈がいささか気にはなるが、急進派の宗教者がキリスト教以前の神の撲滅を図るのを憐れんで降臨するマリアの起こす奇蹟を語る「燕の聖母」と、地方に伝わる譚詩を素材とするものや、礼拝堂の名から発想を得て書かれた架空の由来記と、その発想は自在。原作がはっきりしているパスティーシュとしては『源氏物語』から想を得た「源氏の君の最後の恋」がある。さすがの光の君も歳をとり、奥山に庵を構え寂滅の時を待つ。目も見えなくなり人の訪れを厭う光のもとを訪れるのは花散る里、別人を装い最後の情人となることを願うのだが…。女人の持つ業の深さに、ひときわあわれを催す一篇である。

    悼尾を飾る「コルネリウス・ベルクの悲しみ」は、レンブラントの画家仲間の一人、コルネリウス・ベルクが老境に至ってたどり着いた境地を描く。巻頭の「老絵師の行方」(原題は「ワン・フォーはいかにして救われたか」)が、画業に専念した画家の永遠の救済をモチーフにしたものとするなら、それに呼応して、救われることのない厭世観を胸に抱く、やはり老画家の末路を描いたもの。対比が鮮やかで、その構成の妙にただただ賛嘆するのみ。見事というほかない。

  • 同じ詩人の訳者ということでシュウォッブの『少年十字軍』と比べながら読んだのがいけなかったのかな。なんとなく水面をたゆたうような虚ろな気持ちで、深海まで潜りこめなかった感じがする。もちろん多田智満子さんの訳文は優美で素晴らしいのですけれど。西洋人が書く東洋に馴染みきれなかったのだとも思う。オリエントを謳い文句にした香水のような錯誤感。と考えつづめれば上等なイミテーションは正に東洋そのものかもしれない。

  • ユルスナールは三島について書かれた本しか読んだことがなくて、小説は初めてです。ヨーロッパから見た「東方」の範囲は結構広いみたいで、日本、中国、インド、ギリシャその他、あちらからみて「オリエンタル」な匂いのする国々が舞台になった短編集。各地の伝説や神話がモチーフにされていることもあって幻想的な話が多く、寝る前に1編づつ読むのが毎夜楽しみでした。

    好きだったのは、いかにも中国の伝説系にありそうな「老絵師の行方」。絵の中の海に舟で漕ぎ出してゆくラストの美しさはとりわけ印象的。インド神話やヒンドゥ教の女神の説話を元にした「斬首されたカーリ女神」も、神話らしいエピソードで好きだったなあ。「死者の乳」は、日本の昔話にある「子育て幽霊」をちょっと思い出しました。国は違ってもこういう逸話には不思議と共通点があったりするのって面白いですよね。

    「燕の聖母」は、ファンタジー色の濃いところは好きなんだけど、キリスト教って布教の過程で土着の神様を否定してどんどん迫害していったでしょ、あのやり口が大嫌いなので、途中までちょっとイラっとしたものの(苦笑)、最終的に聖母様はとても寛大だったのでハッピーエンドになり良かったです(笑)。

    日本が舞台の「源氏の君の最後の恋」は、タイトル通りかの光源氏の最後の恋のエピソード(もちろん創作)ですが、日本人でさえ源氏物語を全部読んだ、登場人物はすべて把握している、という人は少数派だと思うので(かくいう私も基本知識は「あさきゆめみし」です・笑)、ユルスナールが源氏物語を知っているというだけでも十分な驚きだし、多少の間違いはまあご愛嬌ですよね。そこは逆に翻訳者の機転が利いていて、非常に読みやすかったです。

  • 目次
    ・老絵師の行方
    ・マルコの微笑
    ・死者の乳
    ・源氏の君の最後の恋
    ・ネーレイデスに恋した男
    ・燕の聖母
    ・寡婦アフロディシア
    ・斬首されたカーリ女神
    ・コルネリウス・ベルクの悲しみ

    『ハドリアヌス帝の回想』が難解な長編だったので少し気合いを入れて手に取りましたが、とても読みやすい短編集でした。
    どれも本当に短いし。

    とくに良かったのは、『老絵師の行方』。
    物心がつく前に天才絵師の絵に囲まれて育った皇帝は、現実が絵ほどに美しくないことに腹を立てて画師を殺そうとします。
    まったく自分勝手である。
    師を庇って目の前で殺された弟子の首が飛ぶのを見て、血の赤と床の石畳の緑の対比を感嘆して眺めるに至っては、絵の才能が業でしかない。
    中島敦の『山月記』を想起してしまいました。
    業の向かう方向は逆だったけれども。

    『死者の乳』は、日本にも似たような話があったはず。
    自分は死んでも、子どもにはお乳をのませる母親の話。

    『源氏の君の最後の恋』も面白く読んだ。
    私は光源氏の最期を看取るのは花散里じゃないかと思っていたのだけど、伊達男には伊達男の矜持があるのね。
    ユルスナールの書く最後の恋は、残酷と言ってもいい展開だけれど、そういう解釈もあるのかとも思う。(納得はしていない)

    ただ、話とは別に、註釈がちょっと気になった。
    訳者が書いたのか、編集部がつけたのかはわからないけど、これでいいのだろうか?

    まず最初に、二番目の妻である紫の上が亡くなった後の喪失感を書いた後
    ”三番目の妻、西の館の君は、むかし彼が若かった頃、うら若い后と通じて父を裏切ったのと同じように、若い義理の息子と通じて彼を裏切ったのだった。”
    という文章の註解に、”紫の上は「三番目の妻」ではなく、この文章に該当する人物は『源氏物語』にはいない”とあるけど、これ、三番目の妻であり、彼を裏切った女三宮のことなんじゃないの?
    しっかり該当していると思うんだけど。

    それから”あの長夜の君、わたしの館とわたしの心の中で、第三番目の地位に甘んじた、あの優しい人”と書いているのは、明石の御方じゃないのかな。
    註釈では”不詳。こんな人物はいないはず”とまできっぱり否定しているから、ちょっと自信はないけれど。
    紫の上が春の館、秋好中宮が秋の館、明石の御方が冬の館で三番目?
    心の中では、藤壺、紫の上、明石で三番目じゃないかなあ?
    いろいろ考えていたら、頭のなかが大和和紀祭りになってしまった。

  • どうせ死ぬなら綺麗に死にたいな

全47件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1903年ベルギーのブリュッセルで、フランス貴族の末裔である父とベルギー名門出身の母とのあいだに生まれる。本名マルグリット・ド・クレイヤンクール。生後まもなく母を失い、博識な父の指導のもと、もっぱら個人教授によって深い古典の素養を身につける。1939年、第二次世界大戦を機にアメリカに渡る。51年にフランスで発表した『ハドリアヌス帝の回想』で、内外の批評家の絶賛をうけ国際的な名声を得た。68年、『黒の過程』でフェミナ賞受賞。80年、女性初のアカデミー・フランセーズ会員となる。母・父・私をめぐる自伝的三部作〈世界の迷路〉――『追悼のしおり』(1974)、『北の古文書』(1977)、『何が? 永遠が』(1988)――は、著者のライフワークとなった。主な著書は他に『東方綺譚』(1938)、『三島あるいは空虚のビジョン』(1981)など。87年、アメリカ・メイン州のマウント・デザート島にて死去。

「2017年 『アレクシス あるいは空しい戦いについて/とどめの一撃』 で使われていた紹介文から引用しています。」

マルグリット・ユルスナールの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×