- Amazon.co.jp ・本 (163ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560070697
感想・レビュー・書評
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東方世界の幻想的な九つの物語。
文体、情景描写の美しさに不思議な浮遊感を感じつつ。
源氏物語に着想を得たとされる「源氏の君の最後の恋」が新鮮な印象。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
西洋人の著者による東洋モチーフの短編集。一話目を読み始めたときから美しい文章にすっかり夢中になった。
最初は中国が舞台だったけれど、その後は東欧が多い。西洋人というか西欧人からするとそれも東に入るのだろうとは理解できるが、東の範囲が広すぎるというのが東洋人としての素直な感覚かも。
おはなしや文章は美しく儚く、初めてユルスナールを読んで、他の本も楽しみになった。 -
幻想的な短編集。あっという間に読み終わる。夢を見ているような感覚。『源氏物語』のその後の源氏を描く作品や、絵師の老人とその弟子の話が好き。ヨーロッパからみると、東方は不思議で幻想的な世界だったのかもしれない。エンデ『モモ』と不思議な感じが似ている。アジアの視点からみると、ヨーロッパはとても華々しく、立派なイメージがあるように思う。映画や漫画などにもヨーロッパのものをモチーフにしたものが多い。『鋼の錬金術師』や『テルマエ・ロマエ』がその例。逆に、ヨーロッパがアジアのものをモチーフにしたものは、徐々に増えているとは言え、現在も少ない。当時、このような作品は新鮮に感じられたのではないか。ヨーロッパから見たアジアの見え方の一端を垣間見せてくれる作品。
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訳者は解説の中で小泉八雲をひいておられるが、読書中に思い浮かんだのはむしろ泉鏡花の怪奇譚であった。文体にせよ根底を流れる奇譚への興味にせよ甚だ異なるものではあるが、日本に育ってしまった捨てようもない感覚が、どうしても読み手としての自分に妖しい違和感を押し付けてくるのである。間違いなく格調高い文学としての価値を感じつつも、どこかで読み手の文化的背景を避けられず読み違えてしまうのではないかと不安になる、そんな作品である。
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『東方綺譚』は、ユルスナール若書きの書。アムステルダムに住まう老画家を描いた一篇を除く八篇が作者の生地であるベルギーからみて東方(オリエント)に位置する地方を舞台にするのがその名の由来。ブリュッセルの名家に生まれ、教養ある父と家庭教師により高度の古典学を教授された著者は、父の死後各地を遊学し見聞を広める。厖大な古典学の教養と実地に感受した諸国の風土、文物の印象を綯い交ぜにし、絢爛たる修辞を惜し気もなく濫費しつつ、彫琢された硬質の文体で思惟を固め、衆生の耳目を驚かせるに足る九つの稀譚を、表情の一つも変えることなくさらりと語り終える。初版時には十篇構成であったが、38年後改訂版上梓にあたり、その内一篇を手直しの用無しとして削除するほか、文体上の修正を経て今に至る。
巻頭を飾る「老絵師の行方」が特筆すべき完成度を誇る。訳者いうところの「神韻縹渺たる趣き」が全篇を蓋いつくし、時に読者をして批判や解釈を捻り出そうとさせる夾雑物が入り込む隙を与えない。とはいえ、それでは評足り得ない。気のついたことを幾らか記しておく。旅の絵師汪佛の興味の対象は物ではなく、その影像にあった。偶々知遇を得た玲は、汪佛によって、事物に色彩あることを知り、師と仰ぐ。自分より画中の影像に心奪われる夫を憾んで妻は縊死を選ぶ。玲は家財を売り払い汪佛と旅に出る。
ある時、師弟は捕縛され皇帝の前に連れ出される。無実を訴える絵師に皇帝が語る。外界と隔絶され、汪佛の画を蒐めた部屋で育った皇帝は、世界を汪佛の描いた画のように美しいと思って育つ。長じて実世界の醜悪であることを知り、あまりの違いに絶望した。老師の罪は天子を欺いたことによる、と。最期に未完の絵を完成させるよう命じられた汪佛が素描の水に色を指すと櫂の音が聞こえ、先刻殺されたはずの玲が舟から招く。汪佛が乗るや否や舟は次第に遠ざかり、やがて画中の崖の陰に消える。汪佛が船に乗って消え去るところは、「解題」にあるハーンの『果心居士』によく似ている。
訳者は絵師の品格と作品の美的効果をもってユルスナールが勝るとする。それに異論はないが、両者の差は名品を所有する(描ける)者に対する権力者の思いの差にあるのではないか。信長や光秀のそれは単なる物見高さに過ぎない。しかるに皇帝のそれは、現実を超える美や真への希求である。魂のこもった画には、現実世界の空虚さには比ぶべくもない存在感がある。しかし、一度それを知ってしまえば、皇帝と言えども、世界の支配者という点では一介の絵師に及ばないことを認めねばならない。皇帝としてそれは許せない。手を断ち、眼を焼く罰は、汪佛からその世界を奪うことに他ならない。支配者は一人でいいという論理。これでこそ皇帝というものである。
ユルスナールの物語る綺譚は、ただ物珍しい話というのではない。そこには哲学というと言い過ぎかもしれないが、何か人をして深く思いに至らせるものが含まれている。しかも、寓話のように独断的な解釈によって諭すのではなく、読者が自ずから思いをめぐらせそれまで気づかなかったものの見方に触れる契機となる、そんな物語となっている。すぐれた文学だけが持つ美質である。
人柱とされても、幼子のために乳を飲ませたいと願う母性の奇蹟を描いた「死者の乳」、造物主の造り損ねた天使がニンフや牧羊神となった、というキリスト教ありきの解釈がいささか気にはなるが、急進派の宗教者がキリスト教以前の神の撲滅を図るのを憐れんで降臨するマリアの起こす奇蹟を語る「燕の聖母」と、地方に伝わる譚詩を素材とするものや、礼拝堂の名から発想を得て書かれた架空の由来記と、その発想は自在。原作がはっきりしているパスティーシュとしては『源氏物語』から想を得た「源氏の君の最後の恋」がある。さすがの光の君も歳をとり、奥山に庵を構え寂滅の時を待つ。目も見えなくなり人の訪れを厭う光のもとを訪れるのは花散る里、別人を装い最後の情人となることを願うのだが…。女人の持つ業の深さに、ひときわあわれを催す一篇である。
悼尾を飾る「コルネリウス・ベルクの悲しみ」は、レンブラントの画家仲間の一人、コルネリウス・ベルクが老境に至ってたどり着いた境地を描く。巻頭の「老絵師の行方」(原題は「ワン・フォーはいかにして救われたか」)が、画業に専念した画家の永遠の救済をモチーフにしたものとするなら、それに呼応して、救われることのない厭世観を胸に抱く、やはり老画家の末路を描いたもの。対比が鮮やかで、その構成の妙にただただ賛嘆するのみ。見事というほかない。 -
同じ詩人の訳者ということでシュウォッブの『少年十字軍』と比べながら読んだのがいけなかったのかな。なんとなく水面をたゆたうような虚ろな気持ちで、深海まで潜りこめなかった感じがする。もちろん多田智満子さんの訳文は優美で素晴らしいのですけれど。西洋人が書く東洋に馴染みきれなかったのだとも思う。オリエントを謳い文句にした香水のような錯誤感。と考えつづめれば上等なイミテーションは正に東洋そのものかもしれない。
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ユルスナールは三島について書かれた本しか読んだことがなくて、小説は初めてです。ヨーロッパから見た「東方」の範囲は結構広いみたいで、日本、中国、インド、ギリシャその他、あちらからみて「オリエンタル」な匂いのする国々が舞台になった短編集。各地の伝説や神話がモチーフにされていることもあって幻想的な話が多く、寝る前に1編づつ読むのが毎夜楽しみでした。
好きだったのは、いかにも中国の伝説系にありそうな「老絵師の行方」。絵の中の海に舟で漕ぎ出してゆくラストの美しさはとりわけ印象的。インド神話やヒンドゥ教の女神の説話を元にした「斬首されたカーリ女神」も、神話らしいエピソードで好きだったなあ。「死者の乳」は、日本の昔話にある「子育て幽霊」をちょっと思い出しました。国は違ってもこういう逸話には不思議と共通点があったりするのって面白いですよね。
「燕の聖母」は、ファンタジー色の濃いところは好きなんだけど、キリスト教って布教の過程で土着の神様を否定してどんどん迫害していったでしょ、あのやり口が大嫌いなので、途中までちょっとイラっとしたものの(苦笑)、最終的に聖母様はとても寛大だったのでハッピーエンドになり良かったです(笑)。
日本が舞台の「源氏の君の最後の恋」は、タイトル通りかの光源氏の最後の恋のエピソード(もちろん創作)ですが、日本人でさえ源氏物語を全部読んだ、登場人物はすべて把握している、という人は少数派だと思うので(かくいう私も基本知識は「あさきゆめみし」です・笑)、ユルスナールが源氏物語を知っているというだけでも十分な驚きだし、多少の間違いはまあご愛嬌ですよね。そこは逆に翻訳者の機転が利いていて、非常に読みやすかったです。 -
どうせ死ぬなら綺麗に死にたいな