- Amazon.co.jp ・本 (147ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560071526
感想・レビュー・書評
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ある朝突然、虫になってしまったセールスマンの青年とその家族の生活の行方を追う。カフカ文学を代表する有名作。
20世紀の文学を代表する作家とされるフランツ・カフカの最も有名な作品。一読して、けったいな話である。何なの、この状況……。しかし、後からじわじわくる何かがあり、この物語が示すものを読み取ろうと、深読みしたくなる。読者に解釈と思索を要求する不思議な作品だ。
まず、主人公が虫になってしまったことについての論理的な説明は一切ない。この物語で焦点になるのは、その状況が及ぼす結果、生活への影響である。虫になるという設定以外、非現実的なファンタジー要素はなく、ひたすらに現実的な家族の対応が描かれていくのだ。やがて、まぁそうなるしかないわな、という結末で終わるのもリアル。
作者はこの作品でいったい何が言いたかったのか?ここにある寓話性とは?ネットで検索して様々な考察を読んでみた。自己の内面的な苦悩、社会の不条理、家族との疎外感、etc……。どうもしっくりこない。
やがて、下記の文章を見つけた。これだ。
『「人間のアイデンティティがどう社会に存在しているのか」をこの毒虫に変わってしまった主人公とその家族との関係性を通して描いている。人間は自分が自分であるということを他者とのコミュニケーションの中で確認している』
さらに、
『他者との言葉と心の通じ合いがかなわなくなり、どんどんおたがい同士がズレていく姿は、まるで「引きこもり」』
という意見も。なるほど、面白い。
そういう意味では、非常に現代的なテーマを扱っているともいえるし、解釈次第でまだまだ読み取れるものがありそうでもある。時をおいていずれまた読んでみよう。ただ、深い意味がわからなくても、自分がいきなり虫になってしまったら……どれだけ焦るか、どれだけ恐怖するか、どれだけ悲しいことになるか、それを生々しい文章で書いてある、単純にこれだけで面白い作品だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
オーストリア=ハンガリー帝国領プラハ出身の、20世紀文学を代表するユダヤ系作家フランツ・カフカ(1883-1924)の作品、1912年執筆。当時彼は、ボヘミア王国労働者傷害保険協会の勤勉な小役人で、近代官僚機構の最末端に身を置いていた。
近代ブルジョア社会は、個人を何者でもない何者かという suspending な存在でいることを許さない。個人は、「社会」の内に於いて当該「社会」の言語によって名指し可能な何者かとして在ることを強要される。断片化という原初的暴力だ。何者かである何かが、俺を同じ名前で呼ぼうとする。匿名多数の他者は、俺でない何かを持ち出して、それが俺だということにする。そもそも俺に名前など無いのに。実存――あらゆる即物的規定を超越する不定態として、人間存在は如何なる規定を拒否する機制。実存の死屍累々としての社会。
自我は、自己否定による自己破滅をも辞さないほどに否定性・超越性という自己関係的機制を純粋に徹底せんとする実存は、断片化の暴力に抗しようと、必然的に敗北を喫する以外にない闘争――日常性との血みどろの闘争――にその悲劇的な結末を承知しながらその上でなおも赴き、成就すべからざる成就としての全体性の回復を待つ。
「待つ」と云う美的態度。いつからか、待つことでしか、生きていくことができなくなっている。日常と云う時間は、そうした生の在りようの、戯画化された反復だ。その中で、俺は何処に腰を据えるのだろう。どの椅子も、それぞれに、居心地が悪い。家に、部屋に、タオルケットに、俺は退き下がり閉じ籠りたいのだけれど、そこはそこで、窒息の苦しみだ。
「社会」の内に在って、全体性の回復を希求する者は、毒虫の如き異形を晒すしかない。「社会」にとっては、不穏な存在――内在化された超越――なのだ。
現代は、communication ばかりが肥大化し、独在という構えに存在余地は無い。我々は communication へと疎外され、強迫的に関係を求める。予め設えられた商品としての communication へ参画することそれ自体が自己目的化している。そこでは「(当該「社会」で位置を与えられている限りでの)充実した私生活」を演出し見せ合わなければならないという無言の抑圧に支配されている。日々の止むに止まれぬ鬱屈は、選別され粉飾された多幸感に溢れる communication vacancy の中には、居場所が与えられない。皮膚にまとわる「日常」にもがき苦しむ者の赴く場所ではない。「communication tool の発達」と騒いでいるが、要は愛想笑いの場所が増えただけだ。効用と定型句に埋め尽くされた「社会」に、即物という暴力的な存在様態が遍在する「社会」に、人間の居場所は無い。そこは、縁の無い無限遠の穴のようだ。喧噪だけの空虚。
communication から人間を捉えるのは、倒錯している。communication tool を通して他者と一つに繋がった気でいられる者は、自己欺瞞に陥っている、独りであることを知らないのだ。そこで空疎な愛想笑いの交換をして何の摩擦抵抗を感じないでいられる者のほうが、却ってよほど毒虫じみて見えないか。自分が毒虫じみているなどと想像してみることさえ無い傍観者の非意識自体が、ザムザの毒虫以上に醜悪な姿を晒していないか。
独り言でしか口にできないことを誰かに伝達しようとする矛盾。そこにこそきっと、人間どうしの関係と云うものの存在理由があるのではないか。
communication tool に瀰漫する太平楽と冷笑と演劇的な深刻を、孤独な絶望へ転化せよ。
死に到る絶望が、致命的に足りない。 -
ある朝、主人公グレーゴルが目を覚ますと、虫に変わっていました。『変身』のこの部分だけ知っている人も多いのではないでしょうか。私もそんな一人でした。
読んでみて驚いたのは、グレーゴル自身が虫に変わっていたことに対して、全く驚いていないことでした。仕事のことばかり考えているセールスマンが虫に変わってしまうということについて、現代でも考えさせられるところがあると思います。
また、家族の反応も、グレーゴルが虫になったことに驚くというより、虫を気持ち悪がっているように感じました。そして、だんだんグレーゴルが疎ましくなり、彼が死んだときには生き生きとしていきます。
虫に変身してしまうというのは突拍子もない出来事ですが、現代に生きる人間に対しても皮肉を感じるような作品で、色々考えながら読むことができました。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/758476 -
改めてちゃんと読む
どこかで読んだときと少し内容に齟齬があったから、バージョン違いか翻訳違いなのかもしれない。
解釈的には、こちらの作品のほうがギリギリ好き -
フランツ・カフカの代表作
ある朝、グレーゴル・ザムザは不安な不安な夢から目を覚ましたところ、
ベッドの中で自分が途方もない虫になっているのに気がついた。
という文章から始まる、20世紀を代表する不条理小説。
(翻訳が複数あり、少し違う可能性あり。)
虫になっていたというのをどうとらえるか。
家族の家計を背負わされている長男が、朝目覚めると、
虫になっていて、目覚まし時計を見ると1時間以上寝過ごしていた。
読んでいて、虫というのは比喩で、
精神疾患のような、何かしら負っているのではないか、
という感がしてならない。
あまり語れはしないので、こういう状況なら、
その可能性もあるよねって、読めばすぐにわかると思います。
家族の対応や、その後の家族の変化。
有名すぎて、今さらかとは思いますが、
まだの人で、海外の名著をサラッと読みたい人はどうぞ!! -
朝起きたら得体のしれない生物になっていたという仰天の書き出しにとても興味を惹かれた。最初はかろうじて人の心を持っていたのにどんどんそれが薄れていくのはなんとも不憫で仕方がなかった。グレーゴルの家族への気持ちとは裏腹に、気持ちが離れてていくのもつらかった。最後にグレーゴルが死に、解放された家族の希望に満ちた様は祝福しようともし難いものではある。この本にどういう真意があるかはわからない。私が考察するには、グレーゴルはストーカーのようなものに例えられるかもしれない。愛が生きすぎたが故にそれが誰かを苦しめる。それがグレーゴルの馴れの果てではなかろうか?
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学校の読書感想文の宿題の時など、必要に迫られない限り読書をしない自分にとってはとてもレベルの高い本だと感じた。まず、海外文学であるので当然日本語に訳されているわけだが、その訳が古文っぽい言い回しでセンター試験でしか古文を学習していない自分にとっては、所々拾える語があるにせよほとんどは理解できず読みづらさを感じた。後は、1900年台のヨーロッパの生活の常識がないので日常生活の一コマと思われる何気ない行動が理解できなくて辛かった。四畳半神話大系が好きすぎるあまり、その中でポロッと出てきた本書に興味をもったが、ネットに上がっている解説みたいなのを見てようやく話の肝が見えてくるレベルでしか読むことが出来なかった。
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不条理。しかしそれが日常
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あまりに奇妙な物語で評価できない!
この作品が世界的に読まれている、評価されている、ということがスゴイ。
雰囲気から、なんとなくバリー・ユアグローを思い出した。
確認してみたら、ユアグロー『一人の男が飛行機から飛び降りる』の解説にカフカの名前がありました。
シュールな世界観、不条理な物語、といったところは似ているのかも。