皇帝たちの中国

著者 :
  • 原書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784562031481

感想・レビュー・書評

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  • 中国史研究の第一人者による、皇帝に焦点を当てた中国史。さすがに緻密な研究に基づく、学術的な説得力ある内容である。中国の歴史に関する知識が深まった。感銘を受けた。

    「国家などというものは、十九世紀になって世界中に広まった観念だ。十八世紀末のアメリカ独立とフランス革命までは、地球上のどこにも国家はなかった。ここのところがよくわかっていないと、つい「中国」という国家があって、「中国人」という「国民」が中国を構成していて、その中国を皇帝が治めていた、というとんでもない誤解をしがちである」(裏表紙)
    「中国史のつまらなさかげんは、実は中国人自身の、歴史に対する態度に責任がある。西暦紀元前二世紀の末に、中国で歴史を書くことがはじまって以来、歴史というものは、皇帝の天下をほめたたえるために書くものだった。書いてあることは、御立派な建前ばかりで、本音はどこにもない。そんな歴史の中から、ものごとの真相をあばきだすのは大変なしごとだ。中国史の歴史家は、お人よしではつとまらない」p1
    「そんなつまらない中国史の中でも、三世紀の三国時代だけは例外で、日本でも人気が高い。人気の理由は明らかだ。この時代には、皇帝のもとに統一された天下、という中国史の建前が破れて、天下に3人の皇帝が並び立つという異常事態だったからだ。言い換えれば、中国が中国らしくなかった時代だ。こういう時代だから、人格と人格のぶつかり合いがむき出しになって、歴史らしい歴史が可能になったわけだ」p1
    「1911年、中国人が満州人の清朝に対して反乱を起こした辛亥革命のとき、革命派はこの年を黄帝即位紀元4609年とした。黄帝は暦を創ったとされる神である。これは明らかに、日本の神武紀元のまねだったが、この黄帝紀元が「中国四千年」という俗説のもとになった。もちろんこれは神話である。現実の中国の歴史は、西暦2000年まででも2220年間しかない。秦の始皇帝の統一以前には、皇帝はまだいないのだから、中国もなく、したがって中国人もいなかった、と考えなくてはならない」p9
    「中国は「南船、北馬」の国土といわれるとおり、おもな交通手段は、洛陽盆地より南では船であり、洛陽盆地より北では騎馬であった」p18
    「群臣は、夜明け前のまだ暗いうちに、宮城(きゅうじょう)の中の「朝廷」に集まる。朝廷とは、文字通り「朝礼」の行われる「庭」である。朝廷には、臣下の位階によって立つ場所が指定されており、正一位がいちばん前で、その次が従一位。「位」とは、文字通り、朝廷で「人が立つ」場所のことである」p23
    「意味に関係なく読み方が変わらないから、漢字には名詞とか動詞とか形容詞といった品詞の区別もない。人称もないし、過去、現在、未来といった時称もない。能動態や受動態といったものもない。品詞の区別がないのだから、漢文には主語ー述語ー目的語とか、形容詞ー名詞といったような、一定の語順もない。つまり漢文には、文法というものがない」p28
    「((孝文帝)同じ部族の出身者同士がかたまって住むことを禁ずる政策)これは現代のシンガポールの住宅政策に似ている。多民族国家のシンガポールは、個人の住宅を壊して高層集団住宅を新築し、核家族単位での入居を法律で定めた。親族や同民族が隣り合って同じ階を占拠することは禁止されている。これは種族ごとの差別を打ち破り、おたがい同じシンガポール人という国民意識を作り出すことを目的にしている」p67
    「隋・唐の新しい中国人の主流は、北アジアから入ってきた遊牧民だった。隋・唐の文化が、秦・漢の古い文化とは断絶していたことは、漢字を読む音が変化したことからもわかる」p71
    「(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや)この国書は、日本史では聖徳太子が送った国書ということになっているが、これは嘘である。送ったのは太子ではなくて、男の倭王である。しかも『日本書紀』には、こんな国書は載っていない」p73
    「唐という政権の本質は、遊牧民出身の皇帝が自分の種族を代表して、漢人などの異種族を支配するというものだった」p91
    「北宋時代に「夷てき」は軍事力では中国より強くても、文化も何もない、劣等な人間以下の動物であり、「中華」は軍事力では「夷てき」にかなわないが、いわゆる「中華思想」が生まれた。これは、自尊心を傷つけられた漢人の病的な心理から出た、くやしまぎれの言い訳にすぎないが、この「中華思想」は、現在にいたるまで中国人の外国に対する態度を支配している」p112
    「皇帝たちの話になると、かならず後継者争いが起きる。モンゴル帝国も例外ではなかった。君主の死後の後継者争いで、最終的に決め手となるのが母親の財産だった。新しい君主は、部族長・氏族長たちの大会議で選出される。母親が賢夫人で、ゆたかな財産と、すぐれた外交手腕にものを言わせて、大会議で影響力をふるえば、その腹に生まれた息子は、後継者争いにおいて有利な地位を占めることができた。また母親の出身部族も後ろ盾として、後継者争いで重要な役割を果たした。なぜなら、自分の部族から嫁に行った娘の息子がハーンになるかどうかは、出身部族にとっても死活にかかわる問題だったからである」p117
    「(モンゴルのロシア支配)総司令官のパトゥは、そのままヴォルガ河畔に留まって、自分の宮廷を開いた。これが白いオルド、つまり黄金のオルドで、パトゥの一族はこれから十八世紀まで、500年間ロシアに君臨した。モンゴルの支配から初めて独立したロシアの君主は、ロマノフ家のピョートル一世である」p129
    「(1279年 元朝による中国統一)北アジアの遊牧民・狩猟民の帝国の系列が、トルコ帝国ーウイグル帝国ー契丹人の遼帝国ー女直人の金帝国という段階を踏んで成長して、モンゴル人の元帝国にいたって、ついに隋・唐以来の中国を完全に呑み込んでしまったことを意味する。これからあとの中国は、もはや独自の「天下」ではなく、モンゴル帝国の歴史の一部になるのである。こうしてフビライは、世界帝国のハーンでありながら、中国の皇帝をも兼ねる、歴史上はじめての君主となった」p140
    「モンゴルでは、モンゴル語をウイグル文字で書く習慣がすでに確立していたので、せっかくつくったパクパ文字はあまり普及しなかった。しかし、パクパ文字は、元朝の支配下の韓半島の高麗王国に伝わり、その知識が基礎となって、高麗朝に代わった朝鮮朝の世宋王がハングル文字をつくり、それを解説した『訓民正音』という書物を1446年に公布したのだった。そういうわけで、フビライ・ハーンがパクパ文字をつくらせたおかげで、今の韓国語・朝鮮語があるのだといえる」p144
    「秦・前漢・後漢・三国・晋は、もちろん本来の漢人である。隋・唐の皇帝は鮮卑人である。五代・十国の時代の、華北の5つの王朝のうち、最初の後梁の朱氏は漢人だが、次の3つの王朝、後唐・後晋・後漢の皇帝は、トルコ人である。後周の郭氏、北宋・南宋の趙氏については疑問があるが、ここではいちおう漢人として数える。北京と大同を支配した遼は契丹人。華北を支配した金は女直人。全中国を支配した元はモンゴル人。次の明は漢人だが、最後の清の皇帝は満州人である。秦の始皇帝が即位した紀元前221年から、清の宣統帝が退位した1912年までのスパンをとり、漢人が皇帝だった期間の長さと、皇帝が非漢人だとはっきりわかる期間の長さを比べてみると、全部で2132年間のおよそ3/4が、非漢人の皇帝の時代だとわかる。というわけで、皇帝制度は中国文明の本質ではあるが、その皇帝は非漢人のほうが圧倒的に多いのだから、中国文明は漢人の専売特許ではない」p152
    「洪武帝の言葉からわかるように、当時の人たちの感覚では、軍事力で中国を制覇しただけでは、ほんものの皇帝とは認められなかった。ほんものの皇帝になるには、それまで天命を受けて帝国を統治してきた正統の皇帝である元朝のハーンの身柄と、天命の正統の証明である伝国璽を確保し、さらにモンゴル高原を制圧して、モンゴル人たちの臣従を取り付けねばならない。これが、正統の皇帝になる、正規の手続きなのである」p171
    「東洋文庫には、明代の世襲の将校たちの名簿があって、これを「選簿」というが、それを見ると、初代の将校たちはみなモンゴル風の名前を持っている。つまり元朝のとき地方に駐在していた軍隊を、明朝がそのまま引き継いだのが、軍戸の起源だったらしい」p186
    「漢人が科挙の試験に合格して官僚になれば、中国の行政には参加できたが、辺境の統治にも、帝国の経営にも、漢人が参加することは許されなかった。漢人は、清帝国の二級市民であり、中国は清朝の植民地の1つだったのである」p201
    「満州語は日本語と同じような文法がある。しかし、漢字には品詞の区別も、語形の変化もない。はっきりいって、漢文には文法がない。それに情緒を表現する漢字が少なく、きわめて貧弱である。そんな粗雑な漢文とちがって、満州語は日本語と同じように、細やかな感情を表現するのに向いた言語なのである」p216
    「チャイナ・ドレスは、実は中国服ではない。漢語で「チーパオ」と呼ばれるのでわかるとおり、チャイナ・ドレスは旗人、すなわち満州人の婦人服であり、満州服である。清朝の時代には、満州人は特権階級であり、漢人が満州人の服装をすることは禁止されていたので、漢人の女性たちは満州服にあこがれながら、着ることができなかった。それが二十世紀のはじめになって、清朝が国民国家化に踏み切ってから、はじめて漢人にも満州服が許され、漢人の女性たちは大喜びで着るようになった。これがチャイナ・ドレスの起源である」p218

  • 楽しい!
    歴史はこれぐらい納得しながら知りたいです

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著者プロフィール

東洋史家

「2018年 『真実の中国史[1840-1949]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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