- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569692043
作品紹介・あらすじ
増加・減少の要因とは?歴史人口学が日本の姿を明らかにする。
感想・レビュー・書評
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人口の動態から見えてくる社会のありようが面白い。白眉は江戸期の分析です。江戸の前・中期は人口停滞。理由は少子化と晩婚化。女性の初婚年齢は21.7歳と遅い。これらは豊かさを目指した結果であり、例えば、長州農民の所得水準は相当高くかなりの貯蓄があったと指摘します。学んできた、酷税や飢饉に悩み、間引きが横行した農村のイメージとは大いに異なります。また、江戸期を通じて江戸を除く大阪や城下町などの都市人口は減り続けます。これも農村の商工業の発展によるものだそう。新鮮。基礎となる数値の正確さを高め、より深い考察に期待したい学問です。
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日本で人口が減少した時期が4回ある。縄文後期、鎌倉時代、江戸享保期、そして2005年以降現在進行形の時期である。
「文明としての江戸システム」に続いて鬼頭宏氏の著作から。
日本では10年ほど前から人口減が始まって、出生率はなかなか増える気配もない。このままだと2045年頃に1億人を割り、2105年には現在の3分の1、4459万人まで減るという。
一度減り始めた人口はなかなか戻るものではなく、仮に(本書の出版時期である)2007年に合計特殊出生率が2.07に戻ったとしても、減少が止まるのは21世紀も半ばのことになる。実際にはそんなすぐには戻らないし、10年経った平成27年でも1.46であるから、まだまだ先は遠い。
ともあれ歴史に学ぶことはあるであろうから、過去の人口減少とそれが解消された原因を探ることで、現在の人口減を解決するヒントが見えてくるかもしれない。
縄文初期には2万人程度だった日本の人口は、縄文中期に26.1万にまで増加したが、晩期には7.6万人にまで減少した。
稲作のなかった縄文時代の主な食料は動物はシカやイノシシ、サケやマスであり、植物だとドングリ、クリ、クルミといった堅果類になる。縄文早期から前期にかけて年間平均気温が1度ほど上昇し、樹林の豊かな東日本を中心に人口が増加した。
当時の寿命は短く、15歳まで生き残るのは6割で、15歳の平均余命が15年、全体の平均寿命が15歳くらいということになる。当時の出産は命の危険を伴うものであったし、子供の半分は生まれてすぐに死んでしまう。
それでも豊富な食料に支えられて縄文人は増え続けたが、中期から晩期にかけて急激な寒冷化が起き、平均気温が3度も低くなった。植物の発育が悪くなって食料が減った所に、大陸から渡ってきた人のもたらす疫病により大打撃を受けた可能性がある。
弥生時代には稲作が始まり、安定的に食料を確保できるようになったことから、人口が急激に増える。縄文時代は殆どが東日本に分布していたが、弥生時代になると大体半々くらいになる。縄文晩期から弥生時代の900年で人口は7.5万人から60万人になったとされる。
しかしこの増加分が単純に国内で増えたというわけではなく、大陸からの渡来人が少なくない比率を占めていた可能性があり、弥生から奈良にかけての千年間で数十万から百万人以上が渡来し、奈良時代人口の7~9割が渡来系だったという説もある(否定する説もある)。
平安時代になると、中央国家が征服した西日本では人口増加が停滞し、征服が遅れた東日本では増加が続いた。国家の支配下においては租庸調などの徴税が厳しく、耕地の維持、拡大が困難だったことが関係している可能性がある。
縄文晩期から平安中期まで人口増加率は0.16~0.39%もあったが、平安中期(900)~末期(1150)には0.02%と激減し、鎌倉時代の1150~1280には-0.11%とついに減少に転じる。平安末期(1150)684万人が、鎌倉時代(1280)595万人まで減少する。
この人口停滞の第一の理由は渡来人の減少である。奈良時代までは多くの渡来人が大陸から渡っていたが、8世紀頃には減少したと見られている。
第二は致死率の高い伝染病の流行である。はしか、インフルエンザ、天然痘である。これらは8世紀以前には日本にはなかったが、この時期に活発になる。人口が増加し人口密度が上昇した結果、伝染病が流行しやすくなったと考えられる。
免疫もほとんどなかったであろうことが致死率をさらに押し上げたと見られる。
第三が気候の変化で、奈良時代以降に気温が上昇し、温暖乾燥の時代を迎えることで日照り、旱魃が頻発した。飢饉が多発し、栄養失調になったところへ伝染病の流行があり、死亡率上昇、出生率低下となる。
第四にして最大の理由は、中央集権国家が崩壊して権力が荘園など地方に分散したことで、大規模な干拓、灌漑などが行えなくなり、また支配者である貴族たちは農地経営にほとんど関心がなかったことから技術開発も乏しく、生産性が向上しなかった。
室町時代になるとまた人口は増加し、1450年にはついに1000万人に達する。室町幕府が誕生してしばらくは政治的、気候的に安定な時期が続いた。農業技術が発達し、牛馬耕など少ない労働力で生産量が増加する仕組みも発展した。
特に稲の休耕期に別の作物を植える二毛作の普及は、米の備蓄が少なくなる収穫前の食糧不足を補い、死亡率の減少に大きく貢献した。
応仁の乱から戦国時代にかけて、戦乱は多くの犠牲者と田畑の荒廃を招いた。またこの時期にはヨーロッパから梅毒が伝わり、瞬く間に全国に広がって多くの死者を出す。
それでも二毛作や新田開発により食料生産力が向上し、戦国大名の富国強兵策により生産や人口を増やす動機もあって結果として人口は増加し、1600年には1500万人までになる。
江戸幕府の前半、1600~1721年の増加率は0.61%にも及び、過去最高となるが、後半の1721~1846年は0.03%とほぼ横ばいになる。末期から明治維新頃までの1846~1872年でまた0.27%まで回復する。
戦乱が終わり平和だったことに加え、生産量のベースになる石高が増加した。一人当たりの耕地は減っても耕地あたりの生産量が増したのである。さらに手工業生産や流通の活発化によって生産力がますます高まり、人口増加を支える。
また、年貢米など現物納に見えて、年貢米を換金する市場が整備されることで実質的な市場経済が発展する。自給自足で、自分たちの食べる分だけを作ればよかった荘園時代とは異なり、より良いものをより多く作るというインセンティブも生まれた。
しかし中、後期には停滞の時代を迎える。18世紀は世界的に平均気温が低下し、「小氷期」と呼ばれる。享保、天明、天保の三大飢饉もこの時期に当たる。特に関東、東北、近畿で人が減る。一方で中国、四国、九州では増加している。
また、この時期には農村から都市への出稼ぎ、奉公が増えた。奉公中は結婚できないから、年季が明けて戻るまでの分だけ婚期が遅れるし、それだけ生涯出産回数も減ることになる。
また人口密集地である都市では相変わらず衛生環境が悪く、伝染病が蔓延し、人を吸い寄せては食い殺す「蟻地獄」状態であった。2007年の東京都中野区の人口密度が1平方キロあたり約2万人であるのに対し、江戸の街区では6万人にもなったという。
晩婚化、出生数の低下により少子化が進んだ。江戸に至っても出産は母体の命を危険に晒すから、農作業や機織など女性の仕事が増えた時代にあって、跡継ぎを確保できればそれ以上無理に出産しないという意識も働いたであろう。
幕末の経済状況は決して悪化していたのではなく、一人当たりの所得水準は相当に高かったとされている。しかし当時の生産力では、それ以上の人口を支えられなかったのである。
江戸後半から「プロト工業化」という、農村における加工業が目立ち始める。生産品をそのまま売るのでなく、加工して付加価値を高めるのである。そのため農村にも雇用が増え、都市へ出る必要性が減じる。
経済成長によって生活水準が向上し、またも人口は増え始める。この頃には干拓という大事業も行われるようになったし、肥料も改善されてますます生産量は増えた。
疫病としてはコレラ、赤痢がたびたび流行するも、一方では種痘の接種が始まり死亡率の上昇を食い止めた。明治維新により、江戸時代の結婚や出産を制限するような風習が解消されたことも人口増加に繋がったとされる。
明治以降、近代化によって多産多死から少産少死へ転換し、その過程で人口が増加する。大正期には出生率が3.6、死亡率が2.2程度で、多産多死であるが出生率の方が高いために人口は増える。
また都市の衛生環境が向上し、都市の自然増加率がマイナスからプラスへと転じる。そして19世紀末になると、いよいよ人口過剰に対する警戒感が出てくる。
第一次大戦後の不況下で、生活上の防衛策として子供数の制限が課題となっていた。女性の社会進出のためにも、多産からの解放を望む声が強まっていた。産児制限は危険思想と弾圧されたが、合計特殊出生率は大正14年の5.11から昭和15年の4.11へ大きく低下した。
それでも死亡率の低下から人口は増加を続けたため、海外への移民政策が打ち出される。ハワイ、アメリカ本土、メキシコ、ブラジル、ペルー、そして日本の植民地となる東南アジア、満州である。
戦後、日本は植民地や占領地をすべて失い、在外邦人660万人以上が帰国した。一方で日本に連れてこられていた在日外国人120万人が帰国し、差し引きで500万人が増えることになる。このような大規模な増加は過去に例を見ないものだった。
戦後のベビーブーム(いわゆる団塊の世代)とあいまって生まれた人口過剰論は根強く残り、その印象が現在に至っても少子化を軽視する風潮に至っているのかもしれない。(インフレを過剰に警戒するあまりデフレが続いてしまっているように)
日本人の平均寿命は、明治期30代後半から、2000年には80年程度へと、百年で2倍も延びた。大正後期には65歳まで生き残るのは3割強だったが、2005年には男85%、女93%にもなっている。
女性の社会進出への機運は高まったが、出産、育児、再就職などの制度が不十分で、仕事を続けたい女性は結婚、出産を忌避するようになった。少子化は江戸時代にも起きたが、当時は平均寿命が短く、高齢化はしなかった。超高齢化は人類の歴史の中でも初めてのことである。
1989年に出生率が史上最低となり、「1.57ショック」などと呼ばれ、さまざまな少子化対策が打ち出されてきたが、2005年には1.26まで落ち込んだ。夫婦へのアンケートによると「理想の子供数」は2.5人前後だが、実際にはそれに及ばない。
高齢出産の忌避、育児の負担感、不妊、仕事への支障など出生率を下げる理由は枚挙に暇がない。「夫が家事、育児を手伝ってくれない(くれそうにない)」というのも無視できない理由である。
婚外子への偏見が強い日本では晩婚化がさらに非婚化へと進むことでさらに出生数は減る。見合いが減って若い男女が結ばれる機会が減ったこと、さらには非正規労働などの収入の不安定化が拍車をかける。
江戸時代にも少子化はあったが、当時の寿命は今より短く、「高齢化」はさほどでもなかった。未曾有の事態を前にして、しかし対策したとてなかなか成果の出ない(下手すると自分の生きているうちには成果が見えない)問題に、どうやって意識を向けていくべきか。 -
図説といってもほとんどグラフなのだが、大きく載っているので読みやすい。
江戸時代の都市と農村の関係とか、死亡率と出生率の推移とか、因果関係を推測する「これぞ歴史の醍醐味!」って感じで面白かった。人口史は今後を考える上で必須だろうから、もうちょっといろいろ調べてみたいな。 -
地域別の細かい人口推移が分析されている。最初に数値表があり、本文で人口増加、停滞、減少などの理由を説明。理由が晩婚化の場合は平均初婚年齢などが書いてある。よくここまで調査・推計できたなぁと思うことが多い。
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縄文時代や江戸の詳しい人口動態など、類書を読んだことのない私には新鮮な情報がいっぱいでした
中身も平易に書かれているので一読の価値はありだと思います -
2011/6月
勉強として
歴史っていわゆる有名人と政治文化事件だけでなく色んな視点から見られるはず。すべての根底に歴史あり。多角的な歴史視点が必要
本当にオススメ本です。
一方、新書の購入は費用かかりますし、...
本当にオススメ本です。
一方、新書の購入は費用かかりますし、蔵書はキャパが厳しくて、
私はもっぱら図書館本です。