人口からみた宗教の世界史 ユダヤ教・キリスト教・イスラムの興亡 (PHP新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569855165

作品紹介・あらすじ

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など、世界宗教の歴史を宗教人口の推移から解説する。イスラム教が世界最大の宗教となる未来とは?

感想・レビュー・書評

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    ブログ - 宮田律の中東イスラム世界と日本、国際社会
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    人口からみた宗教の世界史 | 宮田 律著 | 書籍 | PHP研究所
    https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-85516-5

  • ■書名

    書名:人口からみた宗教の世界史 ユダヤ教・キリスト教・イスラムの興亡
    著者:宮田 律

    ■感想

    TOPPOINTで読了。

  • なぜ古代にはキリスト教徒が、中世にはムスリムが増えたのか。本書では、世界の宗教人口の推移やその背景となった要因を明らかにするとともに、今後世界でムスリム人口がいかに増えていくかを予想する。

    Ⅰ 初期キリスト教の人口増加
    Ⅱ イスラム人口はなぜ増加したか
    Ⅲ 中世・近世のヨーロッパ・キリスト教世界の人口動態
    Ⅳ イスラム世界を逆転したキリスト教徒の人口増加
    Ⅴ ヨーロッパ・ナショナリズムと宗教
    Ⅵ 宗教がせめぎ合うアメリカ大陸
    Ⅶ 増加する世界のムスリム人口
    Ⅷ 現代世界の宗教人口の検討

  • 人口からみた宗教の世界史 ユダヤ教・キリスト教・イスラムの興亡 (PHP新書)


    二十一世紀の世界では宗教的にはイスラム人口が最も多くなると見られている。理由はキリスト教信仰が支配的な欧米では日本と同様に、少子高齢化によって人口が伸び悩むこと、イスラムでは家族関係を大事にして、子どもを神の賜物として歓迎し子沢山を美徳とするような傾向があること、またイスラムは信仰を放棄する棄教は認めることがなく、さらに人為的な避妊が定着してこなかったことなどの要因を背景にしてムスリムの人口増加は継続していくに違いない

    キリスト教の人口が常に多かったわけではなく、歴史を振り返るとオスマン帝国などのイスラム国家が世界の勒権を握った時代などは、非キリスト教世界の人口のほうが多くいた時代もあり、キリスト教人口は産業革命で食粗生産が増えたことなどを背景にイスラム人口などを抜いていった。

    世界の宗教動静を調査している米調査機関「ピュー・リサーチ・センタ—」によれば、約四十年後の二〇六〇年までにはイスラム教徒が三〇億人(人口比三一%) 、キリスト教徒が三一億人( 三二%)とほぼ同等になり、その後はイスラム教が世界最大の宗教になると見られている。

    七世紀以降イスラム世界が拡大、発展していく過程で、 イスラムはギリシアやローマ帝国が支配した地域を包摂するようになり、ギリシア・ローマの古典を継承し、その翻訳、研究を行っていった。ムスリムたちは、学術・科学を発展させ、ムスリムの学究的成果がスペインのコルドバやシチリア島のパレルモなどを通じてヨーロッパにもたらされ、ルネサンスとして開花することになった。

    米国の初代大統領であったジョージ・ワシントンは側近であったテンチ・ティルグマンに宛てた文書で、「アジア、アフリカ、ヨーロッパの人間であれ、またイスラム教徒、ユダヤ教徒、クリスチャンであれ、よき労働者ならば雇用すべきである」と説いた。ワシントンは、ユダヤ人に宛てた書簡の中でも米国の自由と個人の生活を保障しながら「アブラハムの子どもたち」は米国では恐れることは何もないとも述べている。

    ヒトラーのナチス政権、また欧米やイスラエルの極右が考えるようなー国家は一民族によって成り立つという「国民国家(ネ—ション・ステート) 」の考えから国内の「異分子」を完全に排除することなどは現代世界では不可能であり、異なる文化をもった人々を円滑に取り込まなくてはならない。

    1章 初期キリスト教の人口増加

    宗教社会学研究のロド二ー・スタ—クの著書『キリスト教とローマ帝国』 によれば、キリストが処刑された頃のキリスト教徒の人数はー二〇人ほどで、四〇年には一〇〇〇人ほど、四世紀にローマ帝国皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認した当時のキリスト教徒の人口は、五〇〇万人から七五〇万人の間であったという。スタ—クは四世紀でこれほどの人口になるには増加率を十年で四〇%と見積もり、三五〇年には口—マ帝国の総人口の56.5%がキリスト教徒だったと推定している。キリスト教人口が増加した背景にはローマ帝国がキリスト教を国教として採用したことが要因として大きい。

    また、スタ—クはキリスト教が女性にとって魅力のある宗教であったのではないかと述べている。スタ—クによれば古代ギリシア世界などでは女性に対する差別が深刻で、ギリシアのアテネ社会では「間引き」か行われていたために、女性の数が少なく、男性は女性が気に入られなければ家事を取り上げるだけで離婚することができた。キリスト教は男女にあった性差別を改善する傾向にあったため、それも女性たちの好感を得られるものだったとスタ—クは説明する。

    イスラムはおよそ1192年にわたってエルサレムを支配したが、それに対してユダヤ人が支配したのは424年間にすぎない。

    ユダヤ教は唯一絶対の神ヤハウェのみを信仰し、他の神を一切信じない一神教の宗教で、ユダヤ教を信仰するユダヤ人(他からはヘブライ人、自らはイスラエル人と呼称していた) たちは、ヤハウェから選ばれた民であるという「選民思想」をもち、律法(卜—ラー) を守ることによって神の救済があると考えた。トーラーとは、聖書(キリスト教でいう「旧約聖書」の主要卻分である「モーセ五書」をいうが、卜—ラ— の内容は人間の生活の多くの面をカバーするものだ。

    ユダヤ教の選民思想はモーセの十戒をよく守ることによって選民になれると考える。『旧約聖書』に描かれる「出エジプト」や「バビロン捕囚」などの民族的苦難から救世主(メシア)の出現を信じるようになり、エルサレムの神殿に属す祭司たちによって教団が形成され
    た。

    ローマ帝国がキリスト教を国教として採用すると、同じ一神教の信仰をもつ ユダヤ教をキリスト教に対抗、競合する宗教と見なすようになり、ユダヤ教の信仰は支配者によって著しく抑圧、弾圧されるようになった。キリ
    スト教会はユダヤ人たちをキリスト教に改宗させることに蹴起となり、この傾向は数世紀にわたって継続した。

    ローマ帝国のキリスト教国教化の措置はキリスト教、ユダヤ教の対立をもたらすことになった

    キリスト教徒人口が飛躍的に伸びるのは四世紀で、ローマ帝国は313年にミラノ勅令を出し、キリスト教を公認した。キリスト教を公認したのは、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝だったが、312年、西の正帝の地位をめぐってマクセンティウスと戦っていたコンスタンティヌス帝は、伝承では夢のお告げに従って十字架を掲げて戦いに勝利してから、キリスト教を認めるようになった。

    当時のローマ帝国ではマニ教やミトラ教などの宗教も盛んで、伝統的な民間信仰である偶像崇拝や儀礼も残り、混乱が生じるようになった。ローマ帝国は複数(三人) の皇帝による統治に戻っていたが、テオドシウス帝は三八〇年、他の二人の皇帝グラティアヌス帝とウアレンティニアヌス帝との「三帝勅令」として、キリスト教を国教とした。翌三八一年の第一回コンスタンティノープル公会議で、「父と子と聖霊」は本質において同一であるというアタナシウス派の三位一体説を確認し、キリスト教の正統な宗教観として確立した。「三位ー体説」とは「父(神) と子( イエス) と聖霊」は三つの位格をもつが本質的に一体であるというもので、父なる神と子なるイエスと聖霊とは各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの実体 、一つの神であるというのが「三位一体説」だった。

    三九二年、テオドシウス帝はアタナシウス派キリスト教以外の宗教、伝統的なローマの神々、マニ教やミトラ教も禁止した。こうしてアタナシウス派キリスト教はローマの唯一の宗教、つまり国教とされた。キリスト教は人口の上でもヨーロッパで飛躍的に増加、拡大する契機を与えられることになった。

    三九五年、テオドシウス帝の子である幼帝ホノリウスが帝位を継承し、東ローマ帝国と分離して西口ーマ帝国は成立する。都はローマだったが、間もなくミラノに移っている。しかし、ゲルマン人の活動がこの帝国に弱体化をもたらすことになる。

    ローマ教会は西口ーマ帝国が滅びた後、ビザンツ帝国の保護下にあったが、ビザンツ帝国はペルシア(イラン) のササン朝と抗争を続けていたため、西ヨーロツパになかなか関心が向かわずローマ教会は次第に衰退していった。ローマ人はゲルマン人を言語が異なり、古代ギリシア・ローマ文化に属さない野蛮人という侮蔑的意味を込めて「バルバロイ」と呼んでいた。

    アタナシウス派は、イエスは神の子であり神性をもっと考え、イエスの神性を否定する
    アリウス派と対立していった。両派の対立が深刻になったので、325年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝はニケーア公会議を開き、そこでイエスを神と同質と見るアタナシウス派がローマ教会の正統な教義とされた。後に神とイエスと、さらに聖霊に神性を認める考えが結びついて三位一体説が成立した。

    「神聖ローマ帝国」は中世から十九世紀初頭に至るまでのドイツ国家の呼称で、起源は既述した八〇〇年のカール大帝の戴冠による西ローマ帝国の復活であるが、実質上は九六二年、ザクセン朝のオツトーⅠ世のロ—マでの戴冠と考えられている。神聖ローマ帝国皇帝は台頭する諸侯の力を抑えるために、皇帝に直属する教会・修道院を権力の支柱とした。

    神聖ローマ帝国の最盛期の地理的範囲はイギリス、フランスを除く西ヨーロッパに広がり、ローマ教皇に対抗する世俗的政治権威の頂点となった。十六世紀にハプスブルク家が権力を掌握し、最盛期を迎えたため、ハプスブルク帝国とも呼ばれている。1157年に、フリードリヒⅠ世が「皇帝の地位はローマ教皇よりも上位にあり、神から与えられた神聖な地位である」という意味から「神聖ローマ帝国」という名称を使うようになった。

    神聖ローマ帝国の皇帝はローマで教皇によって帝冠を授けられるというのが帝国の慣習であったが、1508年に即位したハプスブルク家のマクシミリアンⅠ世はローマに行くことなく、自ら戴冠して、神聖ローマ帝国皇帝を名乘り、ハプスブルク家の繁栄の基礎をつくった。このマクシミリアンⅠ世から神聖ローマ帝国の正式国号は「ドイツ国民の神聖ロ — マ帝国」となった。


    1519年にマクシミリアンⅠ世の孫カール五世がハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝になった。神聖ローマ帝国はドイツの領邦国家の集合体だが、カール五世はそれよりも広い、ナポリ王国、ネーデルラント、アメリカ大陸にも領地をもつようになり、「ハプスブルク帝国」とも呼ばれるほど大帝国の皇帝となった。

    十三世紀初めの十字軍では、経済的目的からコンスタンティノープルを攻撃するなど、聖地回復という当初の目的から大きく逸脱していった。ローマ教皇の権威が失墜する中で、聖職者ではなく、イエスを通してのみ神を知るべきだという考えが生まれていった。イギリスのジョン・ウィクリフやベーメンのフスは聖書を信仰の根本に据えるべきだと主張し、ローマ教皇の権威を否定するようになった。
    十六世紀には教会は犯した罪を償わなくてもよいとする免罪符(贖宥状) を売ることで、教会の財政や聖職者たちの生活を支えるようになる。免罪符を買えば、現世の罪は許され、また亡くなった人のために購入すればその人は救われると喧伝した。

    教皇らが贅沢な生活を享受し、免罪符から上がる利益が宗教目的以外にも用いられるようになると、カトリック教会の腐敗に疑問を感じたドイツの神学者のマルティン・ルターは『九五ヵ条の論題』を出して教皇に異議を唱え、人は信仰のみによって神に救われると主張した。

    神聖ローマ帝国のカール五世はルターに自説の撤回を求めたが、 ルタ—が拒否すると、 皇帝と対立する諸侯などはルタ—を支持するようになる。ルタ—はヨーロッパで発達した印刷技術を駆使してドイツ語訳の聖書を出版し、信仰が聖書に基づくという自らの考えを実践していった。ルタ— の主張に従ってローマ・カトリック教会の権威から離脱していった信徒たちが、プロテスタントだ。プロテスタントはドイツやスウェーデンなど北欧に広がっていった。

    さらにフランス出身のカルヴァンはプロテスタント迫害が強まったパリからスイスのバーゼルに逃れて、一五三六年に『キリスト教綱要』を著した。カルヴァンは人の救済はすべて神によってあらかじめ定められているとする予定説を主張し、現世の仕事に成功することが救いに選ばれた証と信じた。彼のこの考えは利潤の追求や落財を認められたものと信じられるようになり、西ヨーロッパの商工業者たちに受け入れられ、資本主義社会形成の一つの背景になったという見方もある。

    ドイツではカトリツクとルタ—派の対立に一応の決着が見られ、カール五世の弟のフェルディナントは1555年にアウグスブルクで帝国議会を招集して、「アウグスブルクの和議」を成立させた。その結果、 プロテスタントの信仰は正式に認められ、プロテスタント、 あるいはカトリックを選ぶかは、その領邦の諸侯と各都市の当局の一任とされ、住民はその決定に従うことになった。こうしてー領邦一宗教の原則が成立した。住民に宗教選択の自由が与えられたわけではなく、領主に自由が与えられたのみということだった。

    カトリックの側にも従来の教義の正しさを確認し、聖職者たちの風紀の乱れを正し、ローマ教会の布教に力を入れる「対抗宗教改革」と呼ばれる運動が現れた。それを推進したのがイグナティウス・ロヨラで、パリでイエズス会を結成し、新たな布教活動や教育事業に乗り出していく。日本にやって来たフランシスコ・ザビエルもイエズス会の設立者の一人だった。

    コーヒーショップは、 ヨーロッパでルタ—の宗教改革が行われた頃の十六世紀半ばにオスマン帝国領内で広く見られ、コーヒーを飲む習慣はイエメンからシリアを通じてオスマン帝国に伝わった。さらにそれがヨーロッパに伝わったのは、一六八三年の第二次ウィーン包囲の時だった。敗走したオスマン軍の兵士が残していった麻布の袋からこげ茶色の豆が出てきたのが最初だったと言われている。

    ユダヤ人たちがヨーロッパ社会で嫌われた理由には、一部が経済的に成功していたこと、また自ら「選民思想」を訴えたことが傲慢に見られたこと、またヨーロッパで困難なことが発生すると、容易にその責任がユダヤ人に転嫁され、さらにキリストを殺した民であると見られたことや、ヨーロッパ・キリスト教世界に人種主義的な発想があったことなどがあげられる。
    ユダヤ人たちの「選民思想」は、他者よりも優れているということになり、これが「鼻持ちならぬ」という感情をキリスト教徒たちにもたせることになった。

    2章 イスラム人口はなぜ増加したか

    イスラムの開祖ムハンマド・イブン・アブドウツラーは、西暦570年に生まれている。四〇歳の時に天使ガブリエルを介して神の啓示を初めて聞くことになったが、その最初の営葉は「誦め! 」であった。ムハンマドは、その後22年間、亡くなるまで神の啓示を伝え続けたが、彼が神から預かり人々に伝えた言葉をまとめたものが啓典『クルアーン』である

    キリスト教徒とユダヤ教徒は「啓典の民」と呼ばれ、本来はムスリムと同じ信仰をもつとされている。イスラムでは、「啓典の民」は神と最後の密判の日を信じ、善行を積めば天国に行くことができると考えられているものの、『クルアーン』が神の言葉を最も正しく伝えていると考える。

    イスラムの基本的行為は五行(あるいは五柱) とも呼ばれ、信仰告白、礼拝、喜捨、断食(、巡礼の五つの行為である。信仰告白は「アッラーの他に神はない、ムハンマドはその使徒である」というものであり、必ずアラビア語で唱える。

    イスラムという宗教自体がアラビア半島で信仰されていた多神教を乗り越えることを目指した。ムハンマドは神の言葉を聞き、それを人々に伝えた「預言者」であるが、信仰告白のアラビア語はサウジアラビアの国旗などにも描かれ、そのデザイン化はムスリムの信仰心から共感や強い関心をもたれるものであるに違いない

    イスラムが急速に拡大し、信徒人口を増やしていったのは、ビザンツ帝国などのキリスト教社会に浸透し、キリスト教からイスラムへの改宗を大量に促した要因が大きい。キリスト教の階級社会を乗り越え、住民たちに「公平」や「平等」を訴えると急速に魅力的な宗教と見なされていった。また、イスラムは「アブラハムの宗教」として同じ一神教のユダヤ教徒やクリスチャンたちに「啓典の民」として保護を与えることを約束し、人頭税と地税を収める限りは保護しなければならなかった。同じ地位は、ゾロアスター教徒、また仏教徒にも与えられていった。

    イスラムの聖典『クルアーン』では宗教に強制があってはならないと説き、宗教的な寬容性はアラビア活で「タサームフ(相互寬容) 」という言葉で表され、 異教徒に対しても寛容さが常に求められていった。

    ムハンマドとその支持者たちはメッカでの迫害を逃れて、メディナに移り、そこでイスラム共同体の構築を図る。このイスラム共同体で、ムスリム相互の、またムスリムと非ムスリム間の対立の解決や共同体がとるべき行為についての規則がつくられていく。

    イスラム勢力の征服を受けた地域では、イスラムに改宗するか、人頭税や地租を払って自らの宗教を保持するか、それともこれらを拒絶して戦うかの三者択一であった。

    イラクのバグダードではアッバース朝時代、数学、天文学、物理、化学、医学などの分野で目覚ましい発展があった。その発展もイスラム教徒やキリスト教徒、インド人などコスモポリタン的な協調があって可能であった。

    「知恵の館」はアッバース朝第七代カリフのマアムーが設立した学術・科学の研究所でアッバース朝の学術研究の中心となった。アラブ人とペルシア人のハーフだったマアムーンは、中世バグダード科学の最大のパトロンだった人物で、彼の時代にバグダードが古代ギリシア学研究の中心となった。
    ヨーロッパが「暗黒の時代」の頃、アッバース朝というイスラム帝国はローマ帝国やアレクサンダー大王が支配した地域よりも広い版図を誇っていた。マアムーンは二七歳でカリフに即位したが、学芸に秀でた人物で、『クルアーン』を暗記し、詩を詠み、イスラム初期の歴史に通暁し、またアラビア語文法にも秀でていた。数学にも明るく、それを税制に役立てていた。

    彼は、頭脳明晰で、クリスチャンやユダヤ教の学者たちとも、ソクラテスや、プラトン、アリストテレスなど、ギリシアの哲学者たちの思想について議論を行った。ありとあらゆる分野の学者たちを宮殿に招き、彼らの知識を吸収しようとした。マアムーンは、世界の書籍を収集するのにも熱心で、それをアラビア語に訳そうとする情熱をもっていた。

    マアムーンはギリシアの学術, 科学の研究と文献の収集、翻訳を活発に行ったため、バグダードの翻訳家はカリフの支援や保護を受けて、当初はクリスチャンたちが、続いてムスリムたちが精力的に活動した。バグダードにおいてヘレニズム文化の影響はペルシャの古都ジユンディシャープールのイラン・ギリシア的な学問業紐の蓄秋とも相まって科学的研究を大いに前進させた。数学、天文学、物理、化学、医学などの分野で目覚ましい発展があった。
    「知恵の館」における天文学の研究は、惑星の連動予知や黄道傾斜の親測など宇宙に関するものだけでなく、地球の大きさの測定も行われていた。天動説で有名なコペルニクスも、アラビアの天文学を大いに参考にしていたとされている。

    イスラム・スペインが繁栄していたことは十世紀までに後ウマイヤ朝の首都コルドバの人ロが50万人であったのに対して、パリが3万八8000人であったことからもうかがえる。
    当時の年代記によれば、コルドバには700のモスクと、70の図書館があり、また街灯がヨーロッパでは初めて灯されて、900の公衆浴場があるなど、まさに世界の先進都市だった。

    イスラム世界の医学研究の知識は、11世紀末にイタリアのサレルノ医学校での医学研究が隆盛を誇ると、アラブ・イスラム医学とキリスト教医学が融合するようになった。こうして蓄積された医学的業績がヨーロッパに伝わるようになり、ヨーロッパの人口増加にも貢献することになったのだ

    アラブ・イスラム医学は「ユナニ医学」と呼ばれたが、インドのアーユルヴェーダ、中国の中医学(漢方) とともに世界の三大伝統医学と呼ばれている。ユナニ医学は古代ギリシアから伝えられて、さらにエジプト医学やアーユルヴェーダの影響を受けながらペルシアで発展した。アラビア語で「ユナン」がギリシアを意味するように、「ユナニ医学」はアラビア医学が古代ギリシアから影響を受けていることを表している。

    アッバース朝などイスラム世界が東西のスパイス交易を支配したことで、莫大な富と繁栄がもたらされることになり、その富は医学、科学、文学などイスラムの学問分野の発展を促す背景にもなった

    医師にザフラーウィー(西洋ではアブルカシスの名で知られる) がいる。『解剖の書』を著し、その内容は病人や負傷者の取り扱い、外科手術の道具に関する情報や、手術方法、心臓病に関する薬剤など実に多岐にわたっている。『解剖の書』もクレモナのジェラルドによって12世紀にラテン語に訳されて、ヨーロッパ・ルネッサンス期の医学のテキストとなった。

    コルドバは、スペインやヨーロッパの文明の中心となり、医学をはじめ多くの学校が創設された。また病院、天文台なども建設され、コルドバ大学は科学研究の中心となり、医学、薬学、化学、天文学、数学、植物学研究の学者たちがヨーロッパ各地から集まるようになった。

    十字軍によって、東方の物品や奢侈品がヨーロッパに流入することになり、ジェノヴァやヴェネツィアなどの都市国家が地中海交易に乗り出し、イスラム地域との商業活動によって多くの利益を上げるようになったが、ヨーロッパの商業活動は十字軍が始まる11世紀以前はムスリム商人の活動とは比較のしようがないほど小規模なものだった。

    ムスリム商業は厳格な国家という垣根がなかった時代に、束西の文化や文明を結びつけ、世界史の発展に貢献する貴重で、重要な媒体ともなっていた。
    なかでもスパイスは、 それを取り扱う商人にとっては理想的な商品だった。軽量で、かさ張らず、需要が高く、調達先が限られ、「スパイス(香辛料) 諸島」と形容される現在のインドネシア・モルッカ諸島で主に採れた。

    ヨーロッパでは十世紀から十五世紀にかけてヴェネツィアがスパイスの流通に中心的役割を果たすことで、その経済的繁栄を現出した。

    オスマン帝国の第七代スルタンのメフメトⅡ世は、21歳の時であるー1453年にビザンツ帝国のコンスタンティノープルを占領し、コンスタンティノープルを「イスタンブール 」に改称し、帝国の首都としての機能を整備していった。スパイスは、やはりイスタンブールで盛んに取引された。オスマン帝国のイスタンブール支配によってスパイスなど東西交易はさらに活発になった。

    ヨーロッパ諸国は東方に達する新たなルートを開拓せざるをえなかった。これがコロンブスやマゼラン、フランシス・ドレイクなどの大航海時代が始まる背景の一つともなった。また、繁栄したイスラム商業は、東南アジアの例のように、ムスリム商人に接触することによってイスラムの普及に大いに貢献することになった。

    アラブ人たちは多くのヘレニズムの技術を継承した。平衡の法則の数学的研究、正力の嘅念、流体静力学の研究から物質を揚げたり、物を動かしたりすることを考案するようになる。この分野でアラブ・ムスリムが多大な影響を受けたのはアルキメデスだった。アラブ世界では、統計学が発達し、実際的な用途をもつ機械類も発展した。水を汲み上げる機械、水時計、噴水などが発明された。

    オレンジやオリーブの生産など新しい農産品や農業技術の世界的な拡散にはイスラム・スペイン(アンダルス) の貢献が大きい。これは「ムスリムの農業革命」とも呼ばれて、収入や人口の増加、都市の発展、大類の衣料品や食事のあり方などに大きな変化をもたらした。

    コーヒーショップ(カフェ) は一四七五年にオスマン帝国のイスタンブールで最初に開店したが、ヨーロッパに輸出されるコーヒーによって、エジプトのアレクサンドリアなどの港湾都市は経済的に大いに潤うことになった。

    3章 中世・近世のヨーロッパ・キリスト教世界の人口動態

    いわゆる「ヨーロッパ暗黒時代」は、時代的にはローマ帝国の前壊からルネサンスの開花までのヨーロッパ中世の文化、経済、人口動態で停滞した時期を指している。「暗黒時代」などなかったという主張もあるが、客観的に見ても、当時はヨーロッパ・キリスト教世界よりもイスラム世界のほうが先進的な文化・文明を享受していた。

    ヨーロッパでは精神が宗教に束縛されて自由な学術研究が十分に発展することがないままであった。そのため、ヨーロッパの研究者、学僧などはスペインのコルドバ、トレド、シチリア岛のパレルモなど、イスラム王朝のヨ護の下、ギリシア、ラテン誥の古典の翻訳や研究が活発で、その務秋の上に様々な学術や科学を発展させたイスラ厶世界の綺郡市を
    訪れ、それらの吸収に躍起となっていく。それがヨーロッパではルネサンスとして花開くことになった。「暗黒時代」とは実はキリスト教世界が 一生懸命にイスラム世界の学術, 文化遺産を摂取し、ルネサンスへの準備段階としていた時期とも言えるだろう。

    ルネサンスをもたらした地理的経路は大きく分けて二つあり、一つはイスラム・スペイン(アンダルス) 、そしてもう一つが、地中海のシチリア島だった。

    中世ヨーロッパの人口は、 1100年頃が6100万人ぐらい、それが1500年ぐらいまでには9000万人にまで増加した。その背景には気候変動でヨーロッパの気温が上がり、より多くの農産物が生産できるようになったことがあり、また医療の発達で病気により容易に対応できるようになったこと、さらにこの時代には戦争も減り、暴力による死者の数も減少した。産業別の人口構成では農民が全体の八五%を占めていた。しかし、黒死病はヨ—ロッパの人口を三〇%から六〇%減少させることになり、その回復には二〇〇年を要することになった。

    キリスト教の王、貴族、兵士、騎士は、1096年に始まる十字軍でエルサレムなどムスリムの都市を軍事的に攻撃し、大義の上ではキリスト教を擁護する戦争に従事し、それは200年継続した。

    イスラムの人口はスペイン、ポルトガル、さらにシチリア島など南欧で定着していき、十世紀までにイベリア半島の人口の半分がムスリムになったと推定されている。現在はカトリック人口が九〇%余りを占めるポルトガルでも、イスラム支配は五世紀にわたって継続した。

    シチリア島のイスラム支配はおよそ二〇〇年続いたが、1072年、ノルマン朝の都となると、さらに諸文明の融合が進み、 トニ世紀ルネサンスの一つの中心地となった。現在、パレルモにはアラブ風の建築物が見られるが、それはアラブ人たちによるものではなく、イスラム文化の強い影響を受けたノルマン人たちによってつくられたものだ。

    パレルモは、スペイン・トレドと並んでギリシア・ヘレニズム文化を、イスラム文化を介してヨーロッパに伝える中継地点ともなり、アラビア語・ギリシア語文献の翻訳活動が盛んに行われ、十二世紀ルネサンスの誕生に大きく貢献した。

    ヤマザキマリさんは、「国や郷土は誰にとっても大切なものです。しかし、その場所に対する排他的な執着心や、変化というものを嫌う鎖国的な日本の精神性を、私はどうも好意的に捉えることができません」と書いている。

    ヤマザキマリさんが評価したのは神聖ロ—マ帝国の皇帝フリードリッヒⅡ世だった。「ルネサンスの精神をいち早く体現した神聖ローマ帝国の皇帝フリードリッヒⅡ世は、13世紀のシチリアで育った個人的な経験から、当時の誰よりも多様性と寛容さの重要性を知っていました。彼自身はまぎれもなくキリスト教徒ですが、異教徒であるイスラム教徒の宗教や文化を、自分の王国や宮廷の中で尊重しました。ルネサンスを考えるうえで、イスラム世界の存在はとても重要です」

    シチリアは様々な民族や国に支配されてきた。ギリシア人、フェニキア人、ロ—マ帝国、イスラム教徒、北欧バイキングの血を引くノルマン人。まさに文明の十字路であり、人々は長い歴史を通して共存の大切さを実感していた。市場にはノルマン人が北の海からもってきたニシンやアラブ人がもたらしたサボテンの実を食べる文化が残るなど、今でもいろいろな人種のいろいろな食材があふれている。

    1347年から1350年にかけて流行した「黒死病(ペスト) 」は、ヨーロッパの人口の四〇% から五〇% を奪ったとも見られるほど深刻なものだった。ボッカチオは、『デカメロン』で、人間の他者への責任を間い、広範にわたる疫病の咸心染禍にある中で、疫病と貧富の格差の問題、生命の価値とは何かを考えさせた。

    東西交易の中心であったコンスタンティノープルは黒死病と言われた疫病の中心となった。ビザンツ帝国は、この疫病によって弱体化して立ち直ることができずに、一世紀後にオスマン帝国によって滅ぼされた。このオスマン帝国でも1812年に疫病が流行すると、この影響もあって帝国は衰退していった。

    ペストによる人口減によって、従来の封建制度を支えていた階級の影響力が低下し、能力による人材の登用も見られるようになり、封建制が崩壊し、ヨーロッパではルネサンスという文化的復興期を迎える。ルネサンスは十四世紀のイタリアに始まりアルプス以北のヨーロッパで新たな展開があり、十八世紀のフランス革命、産業革命などの近代を準備していった。「ルネサンスの本質は封建専制に対する民衆の自由独立の実現の希望であった」

    十五世紀終わりになると、ビジネスでの交流以外にユダヤ人とクリスチャンが接する機会は極めて少なくなった。国によっては高い壁によって隔離されたゲットーに閉じ込められるケースもあった。
    中世後期になるとヨーロツパで商業が盛んになり、 ユダヤ人の中には貿易、金融、金貸しなどで成功を収める者も現れ始めた。しかし、そのことがキリスト教徒からのさらなる反発を招いた。ユダヤ人の経済的成功に対する妬みと従来の宗教的偏見が結びついて憎悪が増幅されたのだ。

    その後もドイツでは1350年代、ポルトガルでは1496年、プロヴァンスでは1512年、そして1596年にはローマ教皇の国々で、ユダヤ人商人や金融業者に対する追放が行われた。そうしたユダヤ人の排除は、一四九二年のスペインでのユダヤ人に対する徹底的な放逐によって頂点に達したと言ってよいだろう。スペインでは、キリスト教に改宗したユダヤ人は追放を免れたが、改宗後もユダヤ教の宗教的儀礼を維持する者は宗教裁判で罰せられた。

    ナザレのイエス( キリスト、紀元前七年頃〜紀元後三〇年頃) とその弟子たちはユダヤ教の信仰をもち、キリスト教はユダヤ教の一神教に影響を受けるものだった。ユダヤ教とキリス卜教の競合は、当初宗教学的なものであったが、次第に政治的なものへと変質していく。

    4章 イスラム世界を逆転したキリスト教徒の人口増加

    一七五〇年から一八五〇年は、ヨーロッパが飛躍的な発展を遂げた時代だった。ーヒ五〇年から一八〇〇年までの間、ヨーロッパの主要国は人口を五〇% からー〇〇% 増加させた。この人口増加の背景には、ジャガイモなどの新しい農作物の移入など農業の改良や改善があったことと、大規模な疫病の流行もなかったことによる。人口の飛躍的増加によって、農家や職人の家庭の子弟たちは相続ができず、新たな形態の労働を探すことになった。

    啓蒙主義には人々を無知から有知に、つまり知識ある人々に変えようとする性格があった。西ヨーロッパの封建社会の下で、キリスト教会の権威の中に押し止められていた人々に人問や社会、世界、自然の真実を教え、真理に目覚めさせる運動が啓蒙主義だった。
    啓蒙思想はフランス・ブルボン朝の旧体制(アンシャンレジー厶) の中に値かれた人々がいかに人間の解放からほど遠い存在であることを強調し、旧体制を批判、否定する運動でもあった。

    カントは『啓蒙とは何か』の中で、啓蒙とは人問が、自ら招いた未成年の状態から抜け出ることだと述べている。未成年の状態とは、他人の指示がなければ、自分の理性を発揮できないことを言う。人間が未成年の状態にあるのは、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからだ。カントは「知る勇^ 」や「自分の理性を使う勇気」をもつべきことを説いた。

    科学の発展の影舞を受けて、神を絶対視した世界観は大きく動揺し、人間や社会、国家のあり方を根底から見直そうとする啓蒙主義の思想的潮流が生まれることになる。十七世紀が「科学の時代」と呼ばれたのに対して十八世紀は「啓蒙の時代」と呼ばれている。「科学の時代」には自然科学が著しく発展し、その後のフランスでは、モンテスキューの三権分立論などの国家論、ヴォルテールの宗教的寛容論、ルソーの社会契約説など代表的な啓蒙思想が唱えられるようになった。

    十八世紀の西ヨーロッパは主権国家が形成され、各国は絶対王政の支配^の卞にあった。絶対主義国家は領土争いに夢中で、七年戦争が勃発した。七年戦争は、 プロイセン壬国とオ—ストリアの対立を軸に1756年から1763年まで戦われたもので、 戦争は、 プロイセンがイギリスと、オ—ストリアはフランス、ロシアと同盟して全ヨーロッパに及んだ。

    18世紀はイギリスでは産業革命が始まりつつあり、封建社会の崩壊、貴族族社会の崩壊とそれに代わる近代市民社会が始まる時代でもあった。人間が平等な権利を受け取ることを主張するルソーや、人間本来の幸福を欲望の充足に求めるディドロの思想はやがてフランス革命を生み出すことになる。同時に絶対王政を維持したい君主たちも、「上からの改革」の必要を察知し、啓蒙思想に学びながら支配を合理化するという「啓蒙専制君主」が現れた。プロイセンのフリードリヒ二世、オ—ストリアのヨーゼフ二世などがその典型であった。

    1800年代の半ばまでにイングランド人口の半分は都市で生活するようになっていった。生産性が上がると、十八世紀の終わりには消費主義の波がやって来るようになり、地方出身の賃金労働者たちは、商業生産化された衣服を買うようになっていった。また、都市の中産階級は飛び出す絵本や学習おもちゃなどに夢中になり始めるなど、従来にはなかった文化も生まれることになつた

    産業革命が進展するにつれて、運輸のネットワークである、鉄道や運河も整備されていった。蒸気船は1800年直後に主要な水路を,定期運航するようになり、1840年までに海上輸送に蒸気船が用いられた。鉱山から石炭を運び出すための鉄道システムは1820年代に都市間の輸送手段として用いられるようになり、1830年にはリバプールとマンチェス夕—の間に線路が敷設された。

    ロスチャイルド家は、産業革命やヨーロッパの経済発展、また戦争から多くの利益を得て、鉄道、石炭、鉄鋼、治金への投資を行っていった。銀行部門は一八五〇年後も拡大を続け、世界の石油や非鉄金属の貿易で重要な地位を占めるに至る。しかし、十九世紀後半に世界の銀行としての独占的地位は崩れていった。

    十九世紀にロスチャイルド家は、四億ポンド( いまの日本円にして三兆円前後) の利益を上げげたという推定がある。その成功は、それぞれの国や土地の銀行家たちからの妬みをかった。ロスチャイルド家の婚姻は、いとこ同士のものもあったり、あるいはユダヤ人との間で行われたりした。血縁的な結束も各国、各時代の異文化や逆境の中でロスチャイルド家の経済活動を継続できた背景となっている。

    他方で、ロスチャイルド家の成功は、ユダヤの国際支配などの陰謀諭によって、匕トラーを頂点とするナチスの反ユダヤ主義キャンペーンのシンボルとされて、ユダヤ人を嫌悪する人々の恰好の攻撃対象ともなった。

    オスマン帝国の伝統的産業やギルドは、安価で近代的なヨーロッパ製品の流入によって壊滅的状態になる。近代的な産業を興そうという試みもまた技術や知識、資本が欠如していたこともあって成功しなかった。東西の通商路もイランからロシアを経由するルートの開拓や、スエズ運河の開通によって、オスマン帝国の中心を通ることがなくなった。外国人がオスマン帝国の国内貿易を担うようになり、ヨーロッパの資本が大量に流入した。また様々な利権をヨーロッパ諸国が獲得することになって、帝国はヨーロッパの植民地と化していった。

    このように産業革命は、ヨーロッパ・キリスト教世界とイスラム世界の力関係を逆板させることになり、イスラムの世界帝国であったオスマン帝国は没落して、第1次世界大戦で敗北した結果、 イギリス・フランスによって分割支配されることになった。十九世紀以降、 欧米の世界支配の構造は現在に至るまでも変わらぬままである。

    5章 ヨーロッパ・ナショナリズムと宗教

    現代の紛争を起こすイデオロギーともなるナショナリズムは、このフランス革命によって生まれた。フランス革命を契機に共和政への道が開かれたが、国民には兵役の義務が課せられて国民軍が形成され、フランスという国家的枠組みに住む人々は「フランス国民(ネーション)」という自覚をもつようになった。

    ヨーロッパ・ナショナリズムは言語やキリスト教の宗派の相違こそあれ、共通項はキリスト教の信仰だった。
    為政者たちは国内の経済的矛盾、強権的政仏の、腐敗などの矛眉から国民の日をそらすために国民のナショナリズムの感情に訴えた。ヨーロッパで発展したナショナリズ厶は愛国心とか、国家への忠誠をいっそう強めた感情だった。また、自国の利益を他国のそれよりも高いところに置く思想、イデオロギーである。

    ローマ帝国がキリスト教を国教として、それ以外の宗教を禁じてからヨーロッパではユダヤ教が差別や迫害の対象となった。ユダヤ人たちはキリスト教が禁じる金貸し業にも従事し、その成功はキリスト教徒たちからのやっかみを買うことになった。ユダヤ人たちは、250年にパレスチナから追放され、1948年にイスラエルが建国されるまで、ヨーロッパにおいて80回以上の追放を受けた。

    ユダヤ人たちがヨーロッパ社会で嫌われた理由は多々あり、ロスチャイルド家のように、経済的に成功したことへのやっかみや、また「選民思想」に訴えたことが傲慢と見られ、さらにヨーロツパで困難なことが発生すると、差別や偏見から容易にその責任がユダヤ人に転嫁されるようになっていたことなどが挙げられる。また、ユダヤ人はキリス卜の処刑に関わった民であると見なされ、ヨーロッパ・キリスト教世界にある人種主義的な発想もユダヤ人差別を助長した。

    ユダヤ人で、ナチスの迫害を逃れて米国に移住した政治哲学者ハンナ・アーレントは、ユダヤ人が自分たちを排除した国民国家の原理で国家を建設すれば、今度は自分たちが他民族を排除する側に回ってしまうと説いた。

    エジプトの思想家サイイド・クトゥブは、欧米社会のように、個人主義が社会への貢献よりも優越され、また名誉よりも社会的地位が、さらに宗教への忠節よりも世俗的な政治が成功することが重視される「利己的社会」を否定し このような社会は、精神的な指針をすでに喪失していると主張した。

    十九世紀、ヨーロッパの植民地主義がイスラム世界に進出するにしたがって、ヨーロッパのキリスト教宣教師たちは、イスラム世界に対するヨーロッパの「勝利」はキリスト教の教義によるものと考え、イスラム世界の後進性を「イスラム」によるものと断定した。
    彼らは、ヨーロッパの近代的発展は、宗教や文化としてキリスト教に本来備わっている優越性によるものと考えていた。

    6章 宗教がせめぎ合うアメリカ大陸

    コロンブスのアメリカ大陸発見以前、現在のアメリカ大陸には6000万人の先住民が生活していたが、それから約一世紀後には600万人に減っていた。虐殺や、ヨーロッパの人間がもたらした天然痘などの病気が原因であった。

    サンクスギビング・デーは、ネイティブ・アメリカンの虐殺、土地の略奪や自然環境の破壊などをヨーロッパからの移民が行う契機となったと先住民は語るようになっている。ヨーロッパの移住者たちが西漸運動によって広大な西部に広がるにつれて先住民の虐殺をともないながら土地を奪っていった。

    十九世紀後半から二十世紀初頭のユダヤ系移民は、我かなイーディツシュ文化を米国にもち込み、それはジャーナリズム、 小説、詩作、芝居など芸術分野に多く見られた。

    ユダヤ人が白人至上主義に警戒するのは、ドイツのナチズムで600万人とも言われるユダヤ人が大虐殺の犠牲になったことでも明らかだ。これまで見てきたように、米国のユダヤ人たちは様々な分野で社会を牽引してきたが、彼らの成功もまた人種主我と相まってやっかみの対象となってきたことは間違いない。

    十七世紀から十九世紀にかけてのムスリム人口の増加は、アフリカからの奴隸貿易によるもので、アフリカ奴隸のおよそ五分のーがムスリムであったと推定されている。しかし、奴隸としてアメリカ大陸に移住したムスリムはたいていがキリスト教への改宗を強制され、アフリカ奴隸のムスリムは米国社会から事実上消失していった

    米国のクリスチャンの人口は70.6%、そのうち福音派プロテスタントが25.4%、主流プロテスタントが14.7%だから米国では福音派人口は抜きんでて多いことがわかる。福音主主の考えや主張は極端に原理的、復古的なものであり、人工中絶の禁止を唱え、たとえレイプされて妊娠したとしても中絶は許されないと考える。「伝統的な家庭の価値」を標榜し、家族同士の結びつきを重んずる。

    福音派は、公共の場での信仰活動を行うこと、たとえば学校で礼拝することを提唱する。また、公教育の場で、聖書の記述に反する進化論や地質学を教えない代わりに聖に基づく創造科学を教育科目にすることを訴える。

    福音派は、共和党の政策や方針に影響を与えることが多い。共和党から大統領選挙に出馬する候補者は、福音派の支持を獲得することが特に予備選挙の段階で重要であるが、一方で福音派の主張を政策にあまりに反映させることは本選挙における無党派層の取り込みに不利となる。そのため共和党の政治家は福音主義者の主張をどこまで受け入れたらよいかというジレンマや課題に遭遇せざるをえない。

    この米国の福音主義者たちは米国の外交政策に特筆すべき影響を及ぼし、その独特の世界観で米国の戦争を唱道する勢力となっている。福音派は、米国の新保守主義(ネオコン) にも強い影響を及ぼす。

    7章 増加する世界のムスリム人口

    イスラム人口の拡大に大きく貢献してきたのはイスラムのスーフィズムの信仰だ。スーフ
    イズムは、世事への関心を断ち、真の神を求める思想や活動から出発した。それはまた預言者ムハンマドの時代の敬虔で、淸貧な生活に回帰する運動でもあり、預言者ムハンマドは粗末な「スーフ(アラビア語で羊毛) 」をまとった禁欲主義者(スーフィ) であったと解釈するところからスーフィズムの名前がついた。

    イスラム圏では、特に人間が神に近づく実践を求めるスーフィズム(日本語では「イスラム神秘主義」とも訳される) ではズイクル(神を想起する修行法) とサマーウ(音楽や舞踏をともなう修行) が重視され、特にサマーウでは、楽器の伴奏が付けられて、イスラム神秘主義者たちの社会的絆は強化されていった。

    スーフィズムは、愛と知恵と、また神と人間が一つになれるという恍惚の境地を説く。神秘主義教団によって提供される社会的結合力は、とりわけ重要であり、教団内部では他者との相互扶助、相互尊重が説かれる。神秘主義の相互扶助は特に孤児や察婦など社会的弱者に対して顕著に現れ、信徒から集められた上納金は、義捐金としてうえられてきた

    スーフィズムのルーツはイスラム世界が拡大するにつれて現れた俗物性に対する禁欲主義
    にあったと見られている。スーフィズムは大衆を教化し、イスラム教徒の精神的関心を高めることによってイスラム社会の形成において重要な役割を果たしてきた。その大規模な宣教活動はユーラシア、アフリカなど世界各地で現在も続いている。

    十三世紀はスーフィズムの黄金期とも言われている。スペイン・ムルシアで生まれたスーフィズムの思想家イブン・アラビーは、 人間本来の姿は「完全人間」であると主張し、「完全人間」とは、対立を超越できる人間の理想的姿であり、アッラ—の代理、 似姿とされる。それは、 宇宙のあらゆる存在に神を見て、様々な形態で現れる神を賛美する、心をもつ人間である。アラビーは、 異教徒や罪人までにも神の顕現を見る寛容な心をもった人間こそが「完全人間」であると考えた。

    スーフィ教団は信仰する人々に結束する力を与え、イスラム本来の教義とは異なって教団の創始者の墓が聖地になったり、音楽や祭礼などの行事も催されるようになり、また民間信仰とも結びついたりした。

    8章 現代世界の宗教人口の検討

    ヨーロッパでは1900年に人口の95%がクリスチャンだったが、二〇二〇年には76%と減少した。最も増えたのは神の存在を信じない「エイシイスト」や、神がいるかわからない「アクノースティック」」(不可知論者)で、1900年には0.4%だったが、二〇二〇年には15%となった。ムスリム人口はー九〇〇年には九〇〇万人だったが、二〇二〇年には五三〇〇万人になった。その背景には北アフリカや西アジアからの移民人口の増加がある。

    ヨーロッパのキリスト教人口の減少を表す一つの例として二〇ニ二年サッカー・ワールドカップ・カタール大会でヨーロッパのチームの中にイスラム系移民の選手たちの活躍が目立ったことがあつた。

    「イスラム左翼」という言葉は、 哲学者のピエール=アンドレ・タギエフがその著書の中で左翼とイスラム主義者はイスラエルの占領に反対するという共通の目標をもっていると主張した中で生まれた。
    ヴィダル氏の発言はフランス極右国民連合のマリーヌ・ルペン党首によっても絶賛されたように、「イスラム左翼」という言葉は国内のムスリム移民を排除し、また左翼とも対抗したい極右によって都合よく使われるようになった言葉だ。

    フランスのイスラムに対する差別や偏見はかつてイスラムを奉ずるアルジェリアの直轄支配者であったという歪んだプライドにも起因しているということも考えられる。

    フランスには五七〇万人のムスリムが住んでいて、 酉ヨーロッパでは一帝多いムスリム人口だ。しかし、フランス社会のムスリムに対する差別や偏見、人種主義的な暴力などによって、フランスを離れるムスリムが少なからずいる。イスラム嫌悪の感情がフランスでは他のヨーロッパ諸国に比べてはるかに強いことが指摘されている。

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著者プロフィール

現代イスラム研究センター理事長。1955年生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科史学専攻修了。UCLA大学院(歴史学)修了。専門は現代イスラム政治、イラン政治史。著書『現代イスラムの潮流』(集英社新書)『中東イスラーム民族史』(中公新書)『アメリカはイスラム国に勝てない』(PHP新書)ほか

「年 『集団的自衛権とイスラム・テロの報復』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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