人を殺してみたかった―愛知県豊川市主婦殺人事件

著者 :
  • 双葉社
3.29
  • (1)
  • (11)
  • (16)
  • (2)
  • (1)
本棚登録 : 71
感想 : 11
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784575293203

作品紹介・あらすじ

二〇〇〇年五月一日、愛知県豊川市の無職男性(六七)の妻(六四)が、自宅に侵入した、当時一七歳の男子高校生に刺殺された事件。翌日の二日、JR名古屋駅交番に出頭した少年は豊川市の私立高校に通う高校三年生で、豊川署捜査本部の取り調べに対し、「人を殺してみたかった」と動機を明かした。浮遊する17歳の殺意。不可解な「経験殺人」という動機。事件の深層に迫る渾身のノンフィクション。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 『人を殺してみたかった』藤井誠二
    (双葉社)

    この本を読んだのは、2014/07/26の佐世保の女子高生が同級生を殺したというニュースを耳にした後だ。この事件をおこした女子高生が発した
    「人を殺してみたかった」と語ったのと全く同じもう一つの事件があったことを思い出したからだ。

    2000年5月1日、愛知県豊川市の無職男性(67)の妻(64)が、自宅に侵入した、当時17歳の男子高校生に刺殺された事件。翌日交番に出頭した少年は豊川署捜査本部の取調べに対し、「人を殺してみたかった」と動機を明かした。
    この反抗を犯した少年の小学校卒業文集に寄せた作文
    「まだ僕は大人の世界を知っていない。でも、いつまでもこどもでいられる、という訳では無い。だから、これからも努力が必要だ。しかし、まだ僕自体が、どの程度が努力を言えるのか知らない。僕はもう色々な言葉を使っているが、言葉の程度や限度を知っていない。そして、物事等、すべてに対して、完全に知らない事が多すぎるほどだ。だからそんな事を、出来るだけ知ってみたい。中にはこれはこうだ。と思う事も少々あるのだが、これと言って、決めつける事はまず無い。とにかく、知らないままでは始まらない。そんなことを考えている。」
    まずは、自分と比較してみた。私が小学校を卒業する頃の記憶をたどると、直接的に見える世界しか話題にできなかった「言葉の程度や限度」などという観念は持ちえなかった。そして、「物事等、すべてに対して、完全に知らない事が多すぎるほどだ。」という”知”に対する探究心の意欲や、その当時の自分の知識量を推し量ろうとすることなど、想像すらできなかったであろう。私の想像の範疇を超えた少年であることはうくがえるが、この様なタイプの少年はいても不思議ではないという思いも多少はある。
    むろん殺人以外に将来的にやりたいのことは山のようにあった。不老不死の研究をするなど他人にはできない業績を残し、人に立派だといわれるような人生を送るという選択肢も持っていた。しかし、「待てない」と思った。今すぐ実現できること。それをしたかった。殺人が反道徳的であることは承知していたし、自分が犯そうとする行為が法律からのいつだつであり、社会で悪とレッテルを貼られるのもわかっていた。
    だが、そもそも道徳とは法律から離れた価値観であり、社会がその個人の人生を善ととるか悪ととるかというもので、その時は避難されたり、バカにされても歴史がそれを覆すことだってある。道徳と法律は必ずしも一致しない。ときとして背反するものだ。
    人を殺すのはいけないことだ、という「考え」がなかったわけではない。しかし、実してしまったわけだから、その考えが「信念」として意識に定着していなかった。もしあったなら、犯した殺人行為は矛盾の産物になってしまう。つまり、信念といえるものはなかった。そもそも、そんな信念なんて誰もが持っているわけじゃない。
    自分にとって、一般社会で言う人道とか常識、価値などはどうでもよかった。人の命はかけがえのないものだという考えもあまり意味がなく、殺す相手に対して気の毒とか、かわいそうだという感情はだかなかった。
    殺人に老人を選んだ理由として、「自分の感情が通じる以外の人で、若者よりは年金問題社会のお荷物になっている老人がいいと思った」と述べている。(つまり、無差別殺人ではない。)
    逮捕後、「退屈だった」という以外で殺人を経験したかった本当の理由は何だったのだろうか、と自問している。「退屈」とは、高校生活があまりにも平和に感じられてしまったことだというこたえを探しあててもいる。
    ぬるま湯のような環境に身をおくのも嫌だし、決められた日常より、予想ができない忙しさに追われていたいということなのだろうか。人生の先を見えなくしたかったということなのだろうか。
    「この体験は将来、役にたてななければいけないと思います」と言ったことがあるという。その前後の言葉を総合すると、もし、自分のなかで殺人経験を「マイナスの体験」として位置づけてしまうと、「やら無い方がまずかった。やっても意味がなかった」と自分をさいなんでしまい、「今度はうまくやろうとして再犯してしまう」可能性がある。だから、「プラスの体験」として位置づけたい、という意味になるのだろう。
    法律や警察、裁判制度といったシステムの存在理由について、犯罪を防止することが目的だとおもっているが、自分にとってそれらはさして重要ではない。なぜならば、それらが防止できる犯罪はそのシステムがカバーできる「社会」の範疇内で生きている人間の手によるものにかぎられ、あらかじめ「社会」から意識的に抜け出ようとする者に対しては効果がない。殺されるのが嫌なら無敵になるか、すべての人が平和に生きられるような社会を作り、犯罪をゼロにするしかない。じふが他者を殺してもいいということは、自分が殺されてもいいということだ。
    (関係者の、人を殺すことをやっても満足しないことはわかっていたはずではないか?)という問いに対して
    「わかってなかったからやった、ということ。何でわからなかったかというと、やはりひとを殺してしまった人がほかにいて、その人がああ、満足したとか、しなかったとかそういうことじゃないか。だから、わからなかった。」(人はすべての事象を体験・経験しなければ「知る」ことができないわけではない。人体の構造を知るために他者を解剖したりはしない。「外部」から伝達される情報を信頼することにより、納得するのだ。それは歴史を、かがの英知を、すなわち、それらを築き上げてきた「人間」を信頼することとつながる)
    (検察側鑑定書の内容を報じた新聞報道(2000年8月23日)によると、鑑定書が、少年の刑事責任能力を認めた理由について、「少年は知的には優秀で、犯行当時は意識障害や幻覚、妄想などの精神病の状態ではなく、善悪を判断して行動する能力は失われていなかった」ことを挙げ、少年の性格については「分裂病質人格障害か高度の分裂気質者」と指摘。「行為障害や反社会性人格障害はない」とし、犯行の動機を「殺人犯になってみたいという願いに基づく『殺人のための殺人』あるいは、『退屈からの殺人』というしかない」と鑑定した。
    事件直後、殺人事件は日常起こり得るごく普通の事柄ととらえ、本件が社会に大きな衝撃を与えたことを奇異に感じていた。
    【審判】
    2000年12月26日家裁最終審判で、医療少年院送致。(保護処分)
    少年の付添人団(弁護士団)が推薦した精神科医グループが、作成した二度目の精神鑑定が大きく影響した。
    ①他者も自分も同じ人間として認識し、その感情を理解したり、相手を思いやったりするという共感性の能力が著しく欠如している。
    ②ことばを文字どおり受け取ってしまったり、仮定のことやこれからのことを理解することができず、抽象概念の形成は不全である。
    ③少年は本件非行がいかに悪質であったかを想起すことができず、具体的なてがかり(例えば、現場写真など)がないとその状況を想像することが困難であり、また、自己の将来を展望し、夢を語ることもよういにおこなえないという想像力の欠如がみられる。
    ④少年には強い「こだわり傾向」が認められ、常に、反復して興味を追求する傾向がある。そして、こだわりはパターンした行動様式となって表れ、このパターン(またはこだわり)
    が崩れるとき大きな不安を覚えることになる。少年は高校在学中、部活に打ち込むことによって生活のパターン化を図ってきたが、この終了が不安を誘い本件非行を敢行する引き金になったとみられる」
    【精神鑑定】
    医学的知見に基づいて考察すると、少年の症状は高機能広汎性発達障害(アスペルガー症候群)によるものであると診断される。本件非行時、前記疾患に特有な症状である共感性の欠如、異様なまでのこだわり、想像力の欠如などによって、理性善悪を区別する能力が著しく減退した心神耗弱の状況にあったと認められる(なお、広汎性発達障害者が犯罪を犯す危険性は極めて低く、それ自体に犯罪を誘発する要因 認められない)」
    【アスペルガー症候群】
    「簡単に言えば『自閉症マイナス言語障害』である。自閉症は(略)社会性の障害と、コミュニケーションの障害と、想像力の障害およびそれに基づく障害の三つを基本症状とする。このうちコミュニケーションの障害の部分が軽微である(ただし全くないわけではない)のが、アスペルガー症候群である。言語障害の遅れは少なく、知的には正常であるものが多い。しかし、自閉症と同様の社会性の障害を生まれつき持っていて、興味の著しい偏りやファンタジーへの没頭があり、時には儀式的行為をもつ者もある。また、非常に不器用な者が多いことも特徴の一つとされる」
    人を殺すという行為が実現できてしまったので、それはすなわち他人にもできてしまうレベルの行為でしかない。そこがもどかしい。なのに、その行為を実現した自分は他人から白い目で見られることはわかっている。つまり、大した努力もなく実現できてしまった行為が、正当化できない結果をまねいてしまったことに対する残念感のようなものなのだろうか。
    (妻を殺されて嘆き苦しんでいる被害者のご主人に対する謝罪の気持ちは?)という質問に対して
    「今、自分が無力感を感じているのは、被害者に手紙をかきたいが、たぶん中途半端になるということだ。自分が殺したようなやり方で殺された人もいないし、自分のようにやった人もまわりにいないのでその気持ちがわからない。まわりにそういう思いやりを持った人がいればわかると思うのだけど」(殺人という行為について心が動じない自分を客観的に見ているということになる。分離した行為と心の両方を冷静に観察している)
    【後書き】
    人を殺してはいけないという理性は、他者と自分がつながっているという共感があって初めて成立するものなのだと。そこがこわれていると、「殺すな」というメッセージは実効性をもたない。その共感を得ることができる教育や援助が少年に行われているのだろうか。自分に無関係な他者は殺してもいいという、人間を「モノ視」するパーソナリティ
    矯正されるのだろうか。
    ひるがえって、自分に問う。私たちが生きて入る時代に人間と人間との共感があるだろうか。少年が帰ってくる社会は、はたして人と人とがつながっているのだと実感できるものなのだろうか。「人を殺してはいけない」とむねを張って言える社会なのか、「命」が大事にされている世の中なのかどうか。

  •  「人を殺してみたかった」という動機で18歳の少年がある日突然老女を刺殺、アスペルガー障害の診断を受け医療少年院送付となった豊川市主婦殺人事件のノンフィクション。

     少年が事件を起こそうと思い立ってから犯行を犯し自首するまでの詳細な動向、少年の家族像と生育歴、裁判から判決、考察と本は進んでいく。
     この本を読むと確かに少年がアスペルガー症候群の特徴を強く持っていると推測できる。しかし、それがこの事件の本質なのだろうか。少年が「野菜を食べてない」を「植物を食べてない」といかにもアスペルガーっぽい独特の言い方をしていた様に、「人を殺してみたかった」という動機にも何らかの翻訳が必要なのではないだろうか。
     少年はアスペルガー症候群の診断ゆえに罪を免れ医療少年院送致となった。後書きの作者の苦悩と混乱に触れて、改めて精神医学と刑法の関係の課題を感じた。

     アスペルガー症候群の名称を日本で広く知らしめた事件を振り返れる一冊。

     ちなみに”アスペルガー障害”は近く改定されるDSMーⅤでは削除される予定であり、”アスペルガー症候群”とここでは記した。

  • 人を殺して見たかった。

    部活引退してやることなくなった。退屈してた。

    的な話をしてたらしい容疑者。家族も普通におり、仲が良く、祖父母がそばにて面倒を見てくれたり気にかけたりしてくれてた。

    家庭に問題はない。

    学校でも、多少の変わり者ではあったが学力は高く言葉の選び方ややり方が独特だったが特にいじめられてるわけでも、暴力的でもなかった

    でも。

    人を殺して見たかったから、殺した

    って聞いたら、あいつならそう言いそう。
    っていう感想を持ったらしい。

    被害者のおばあちゃんに対しても、もしいるなら謝りたいけど、運悪かったなぁと思う。

    っていう自分の気持ちらしくて、特に殺してしまって申し訳ないとかいう気持ちもあまりない様子だった。

    最終的に自閉症に関連する病ということで刑に処されなかったこの青年。

    次はもうしないと思う。

    って。すごくないか。なんか。なんていうか。なんか違うな、、、、って読んでて思ったし。なんだろう、ホントになんとも思っていなくて。読んでてこんな風な人が世の中に何%か混じっているために、殺人はなくならないだろうし、それならまだ、、怨恨だとかそういったことのほうが納得もいくよな、、、、

    だからって殺していい言い訳にはならないけど、こんなふうに殺されたら、、ホントに。なんて言っていいのか、、、、読んでて薄ら寒くなりました。

  • 図書館で借りてきた本

    2000年に起きた「愛知県豊川市主婦殺人事件」についての本。加害者は当時高校3年生で「人を殺してみたかったので殺した」と殺人の動機を述べ、世の中に「どうして人を殺してはいけないのか」を問わすきっかけになった事件。

    この本は「小説推理」という雑誌に連載されたものらしいが。最初少年が人を殺すまでの文章が妙にリアリティーがあるところが却って不自然に感じられた。

    ただ、その後身柄を警察に引き渡されてからの少年の様子などは冷静に分析されていると思うし、この少年は結局「アスペルガー症候群」だったということで、この「アスペルガー症候群」と「犯罪」とについて、海外の論文を含め詳細に検討していることについては好感が持てた。

    わたしはこの本で一番引き付けられたのは、実は「あとがき」だった。この本を出すことに当たって著者が「本当にこのことを書いてよかったのだろうか」という思い、被害者の夫のこと、加害者の父親の話、そのどれも当時の連載についてあまりいい思いを抱いていない、ということが分かるのである。

    「そうか、これだけ冷静に(少なくとも事件後の話は)書かれたものでも『まったくのでたらめ』と感じるんだなあ」と思えたのは皮肉なことにわたしにとっては一つの「収穫」でもあった気がする。

    なお、本文にところどころ挟まれた写真は、わたしにとっては「邪魔」でしかなかった。人が一生懸命文章を読んでいるのに写真のページで中断させられてしまう。写真に付いている文章も情緒的で文章と齟齬しない。余計なものだったと感じる。

  • 368.71
    豊川市でおきた事件、17歳の少年はアスペルガー症候群と診断されたが

  • 「人を殺してみたかった」
    そう供述した犯人の、A(身近でご存知のどなたかが、本名を明らかにされていると思ったのですが見つかりませんでした)としかわからない大馬鹿者の17歳の京大を目指していたというエリート高校3年生。

    この際、いかに未成年擁護が理不尽きわまりないものか、知っている誰かがやはり名前を知らせて下さってはっきり明らかにして、今後どこにいようとこの凶悪犯が生きているうちは後ろ指さされて犯罪者としての十字架を背負うように、悔恨と贖罪の一生を送るように、できれば彼奴の住む家の扉には「この家の住人は17歳のときに罪もない女性を惨殺しました」とかなんとか書いたステッカーを張りつけて、平穏無事に普通には暮らせないようにでもしないと、殺された方の怨念は晴れないと思います。

    10年前の2000年5月1日、愛知県豊川市の筒井さん宅へ侵入して、玄関にいた妻の筒井喜代さん(64歳)をかなづちで殴って、首など40数カ所も包丁でめった刺しにして殺害、夫の弘さん(67歳)にも重傷をおわせた事件。

    またしても「アスペルガー症候群」とかなんとか、あいかわらず、不可解な事件の救世主のようにそれらしい症状との関連性を言及しているようですが、ちょっと知識があれば疑似で装うことでそう診断されて殺人が許されるようでは話になりません。

    3歳児でも殺人を犯した者は死刑にすること、そうでなければ、人を殺しておいて4、5年刑務所で遊んで出てくればまた気楽に生きられるような理不尽な社会で、彼奴以外の被害者になりうる私たちは、どうして安心な暮しができるというのでしょうか!

  • _

  • 21/9/10 60 

  • あまりにも不可解な殺人の動機...。「人を殺してみたかった」普通の人間の心を持ち合わせた人には、まるで理解ができない。少年は、アスペルガー症候群と診断されたが、それだけで事件と結びつけるのは短絡的すぎる。

全11件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

ノンフィクション作家。「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」「沖縄ひとモノガタリ」「誰も書かなかった玉城デニーの青春」など多数。

「2023年 『居場所をください 沖縄・kukuluの学校に行けない子どもたち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

藤井誠二の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×