- Amazon.co.jp ・本 (380ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582761504
感想・レビュー・書評
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一般に戦後日本における歴史学の来し方を整理した場合、1970年代半ばまでをマルクス主義歴史学の時代、70年代後半から現在に至るまでを現代歴史学の時代として分けることが多い。マルクス主義歴史学においては、いわゆる世界史の基本法則に基づき、政治・法・宗教といった社会一般の在り方はすべて経済活動、わけても生産力により決定されるのであり、生産力の発展史こそが最も重要であると信じられていた。
こうしたマルクス主義歴史学では、とらえきれない史実があまりにも多く、多様な人々の来し方を反映した歴史叙述は到底不可能であった。マルクス主義歴史学から現代歴史学へと転換する道筋をつけ、70年代後半から80年代にかけての「社会史の時代」を創出し牽引した歴史家が、中世史家の網野善彦(1928-2004)である。網野は海民・商人・職人といった農民以外の存在が、中世日本において重要な役割を果たしていたことに注目し、天皇・貴族といった存在にも注目しなおして、豊かな日本像を描きだした。
『無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』は、網野の代表作として知られている。縁切寺、自治都市、一揆、湊町、山林、市場、僧侶、女性、多種多様な存在に、網野は「無縁」の原理を見出す。それは主従関係・親族関係などの世俗の縁と切れていることを意味し、そうであるがゆえに不入権、地子・諸役免除、自由通行権、平和領域、私的隷属からの解放、貸借関係の消滅、連座制の否定、老若の組織といった特徴を持ったと説く。
網野は中世史を終わりから初めまで遡る中で、「無縁」の原理が果たした重大な役割、そのこし方と起源を明らかにする。そして人類の歴史を、「無縁」の自覚されない「原無縁」の段階、「無縁」「無主」と「有縁」「有主」の分離と自覚、「有縁」「有主」による「無縁」「無主」の取り込み、といった段階としてとらえ直す、壮大な歴史観を提示する。そしてそこでもなお、「無縁」「無主」は消え去りはしないと主張する。
本書は1978年に刊行された。社会史の時代が今まさに始まろうとしていた時であり、そのはじめを告げる記念碑的な著作であった。本書はベストセラーとなったが、いや、なったので、同時に学術界からは強く批判されることにもなった。マルクス主義歴史学が未だに強い影響力を持っていたということも、背景にあったのだろう。
本書『増補版 無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』は、網野の原著(1978年刊)に、寄せられた批判にこたえた丁寧な補注といくつかの論考を加えた増補版(1987年刊)を、あとになって文庫化(1996年刊)したものである。きわめて膨大な補注からは、多岐にわたる批判に真摯に答える、網野の学問的誠実さが伝わってくる。
本書は原著の刊行から40年以上が経過したが、その価値は決して色褪せることがない。本書の内容はやや難しく、私のような浅学菲才の者に、その内容が十分に理解できたかと問われれば甚だ疑問であるが、広く読まれるべき一冊であるということは間違いない。
(文科三類・2年)(1)
【学内URL】
https://elib.maruzen.co.jp/elib/html/BookDetail/Id/3000015731
【学外からの利用方法】
https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/ja/library/literacy/user-guide/campus/offcampus詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
従来の、天皇と幕府の二重権力と農本主義に貫かれている日本史観を覆したというだけで、網野史観はスリリングだし、それだけで面白い。
その上、それぞれの時代のアウトローな存在たちに光を当てているのだから、学術書でありながらエンターテイメントの要素をはらんでいて、活劇を読むようにわくわくして読み進めた。
それが学術であれ、エンタメであれ、人の魂を揺さぶるものには、いつも無縁の原理が働いているという。
「無縁」というのは、現代的な意味での無縁とはちょっとちがう。
現代では「無縁仏」とか「無縁社会」とか、個人が社会の中で孤立している状態を指すのだが、網野史観による「無縁」の概念とは、「有縁」「有主」の対立物として浮かび上がる。
定住に対して移動。
国家に対して宗教。
…といった具合に。
しかもそれらは対立ばかりしているわけではなく、常に背中合わせで、密着しながら拮抗している。
具体的な無縁の原理というのは、
場としての市場、境界、社寺、山林、自治都市、関渡津泊、橋、河原、中洲などなど。
人々しての、供御人、職人、手工業人、海民、遊女、聖、山伏、巫女、勝負師、芸能民などなど。
それらは異界と異界の境界に発生し、異界と異界を行き来する人々によってもたらされる。
大阪に現れた最大の自治都市「堺」はまぎれもなく「境」だったのだ。
異界と異界の境とは、この世とあの世の境でもあった。
市には必ず死者が現れる。河原も中洲も浜も山野も、それらは神々と関わる聖域であり、交易芸能の広場であり、平和領域であり、葬送の地であり、刑場でもあった。
「無縁」の原理は階級社会に対しての自由・平和・平等の理想への本源的な希求が貫かれている。これはなにも日本に限ったことではない。
寺院に飛び込むと娑婆世界での縁が断ち切られる。
祭では日常社会の階級が解消される。
でも、このような無縁の原理は、国家(有縁の原理)の台頭によって衰弱してしまう。江戸時代の身分政策や寺請制度、明治以降の近代化によって人々はより権力の管理下に置かれ、無縁の原理は有縁の原理に取り込まれる。
60年代の学生運動などはこうした無縁の原理の希求がその根底に流れているのだろうし、この本が1978年に初出でベストセラーになったというのも興味深い。左翼やリベラルたちの支持を得たのは想像に容易い。
そしてインターネットの登場。
誰もが発信できる双方向のコミュニケーション空間は、それこそ有縁の原理がすみずみまで立ち入ることが困難な、無縁の世界の登場だったのだが、これもまたいつか有縁に取り込まれることになるのだろうか…。
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文学・芸能・美術・宗教等々、人々の魂を揺るがす文化は、みな、この「無縁」の場に生まれ、「無縁」に人々によって担われていると言ってもよかろう。
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80年代頃の著作ということもあり、多少唯物史観的な観点はありつつも、一次史料を丹念に読み込み、中世世界の容貌を描き出している点で非常に素晴らしい。
特に面白いところは、無縁的な世界を為政者が取り込み自身の統治メカニズムに利用しようとしてきた経緯 -
初めての網野本
知らなかった分野なので割にためになる
結論への飛び付き方は留保
とりあえず他にもいろんな作品よんでから -
網野善彦は、間違いなく歴史学の天才でした。
この本は寺院と俗世、僧侶とその他の人々などの「縁切り状態」、つまり無縁を中心に、それが権力に取り込まれながらも形を変えて生き延びていく姿を文献資料を使って明らかにしています。
寺院に寄進された荘園もまた公権力の手の及ばないものになり、遍歴の芸能民も、一方では差別されながら、もう一方では力強く自由を持って生きていたことが分かります。
そして「無縁」は仏教的に肯定された語であることも網野氏によって証明されていく、歴史学の様々な前提を覆した名著です。 -
読みやすさ ★★
面白さ ★★
ためになった度 ★★★
網野善彦の代表作。なかなかむずい。 -
歴史書というよりも、思想、文化論。
西洋の自由、平等、平和に対して、日本文化としての「無縁、公界、楽」を対置しているわけで、生物学で言えばドーキンスに対するグールドの論を読んでいるような感覚を覚えた。
読みどころは本文よりも補注である。 -
網野氏の本を読むと必ずと言っていいほど地元が出てくる。そんな世間的に注目を浴びてる訳でも、現在社会においてにでも何かの中心とか重要とも思えないのだが。