精神について: ハイデッガーと問い (平凡社ライブラリー て 6-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (331ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582766745

作品紹介・あらすじ

トラークルのでもなく、ヘルダーリンのでもなく、ハイデッガーのGeist。精神の名の下にナチに協力したハイデッガーの両義性を描出する。インタヴュー「自伝的な「言葉」」併録。

感想・レビュー・書評

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  • 誤植がや訂正が多くあったとあとがき。しかしこういう「商品」いつも思うのだが 普通のもの取引では不良品なわけで ある意味変なのってわたしはいつも思う。
    難しいけどクーリング・オフ または最終チェック所を考えて欲しい(笑)

  • ハイデッガー研究者の中でも賛否両論が分かれる本書は、ハイデッガーが稀にしか使用していない幽霊や炎などを通じて表現している「精神」についての考察。デリダならではの文献の読み込み、慎重な言い回しを通じてその「精神」なるものの正体が浮かび上がる。
    中でも、詩作者(トラークル)と思索者(ハイデッガー)の対談を通じて書かれる炎、灰などについての意味合いの強烈さを知ることができる。
    末尾のインタビューは、ハイデッガーではなくサルトルを通じて得たもの、大衆が後景に押しやったもの、サルトルのハイデッガーの誤読、サルトルに近づいたデリダの誤読(かもしれない)と後景に押しやったものの意味が述べられる。チュニジアで生まれたイスラエル人としてのアイデンティティについて自伝的に述べイスラエルをもユダヤ人であるが故に批判する視点は、やはり民主主義的左翼を自任するだけはある。

    デリダ『精神について』を読みはじめるも歯が立ちまへん。ハイデガーの『存在と時間』を読みといていってるようですが、やはり原書を読めるまでの語学力が欲しいと痛感します。

    「問いの経験の内にしか問いかけはない。」p-73

    ハイデガーのギリシャ人とギリシャ語崇拝と我がドイツ(アメリカやロシア、他のヨーロッパの劣等意識を持った)精神の復権、知への意志に対する執着は凄まじい。(p114あたり)

    ベルリンおりんぴっくの時に、総統閣下が黒人選手との握手を拒んだ事件を知らなかった。

    「ドイツ語の内部にある、ギリシア人の言語と彼らの思惟との特別な親類関係です。それは、今日フランス人たちが絶えず私に確証してくれることです。彼らは、思惟し始めるやドイツ語を話す。自分の言葉では思惟に達しない」!(p115)

    ハイデガーの「精神性」について、実はフィヒテも同様に述べている。その自由とその永遠の進歩において思惟し、したがって望む者、それは独人であり、どこで生まれたにせよ何語を話すのであれ、その人は我々の同類である。逆にそのような「精神性」を望まぬ者は、「非独人であり、我々にはよそ者」(p116)

    デリダは、ハイデガーやドイツ人哲学者たちの相対主義との訣別をヨーロッパ‐中心主義ではなく、中央‐ヨーロッパ‐中心主義だと指摘する。(p117)

    ハイデガーのナチス礼賛を一概に非なんできないのは、当時のヨーロッパ知識人たちのナチス理解にある。ベルグソンもナチスを「異教」程度にしか見ておらず、『暴力論』のソレルもボリシェビキとの区別をつけることなく評価していた節がある。

    人々の手の届かない遠い存在 自らの非力に打ちのめされる瞬間に、ハイデガーのような「精神性」やニーチェのような 超人は何度でも歴史に登場するだろう。

    1953年 詩作者と思索者の対話 Geistlich を巡って デリダも「どう翻訳したらよいのか」ととまどう。「精神とは燃え上がらせるものなの…である」「精神は炎である」共‐燃焼…(p138‐)

    炎によって焼尽し、焼尽する運命にある灰は(善)だろうか、それとも(悪)だろうか (p‐162)


    炎上するものは、自己の外に在るものであり、これは明るくし、輝かせるが、しかしまた次々となめ尽くし、すべてを灰の白さに焼き尽くすこともありうる。(p- 163)

    すべてを灰の白さに焼き尽くされる!
    焼尽しない灰はない
    灰によって生まれ変われる

    デリダを読んでいると、ハイデガーやニーチェの中にギリシャ精神を汲んだ哲学を、プラトンを見ようとした感がする。でも、カントで哲学の終焉を感じたニーチェを天までヨイショするハイデガーのニーチェ贔屓を引き算する必要があるような。

    破壊的なものは、自らのげきどうのなかで自己を焼尽しかくしてあくいに満ちたことを推し進める放縦に由来する。悪は常に、ある精神の悪である。 (P- 172)

    悪の根拠はしたがって、第一根底の表明的になった原意志(urwillen)に存する。(p- 173)

    火のエクリチュール

    線は、精神の自己への関係の本質の内に苦痛の刻みを入れ、精神はかくして自己を集め分割する。(p- 177)

    苦痛が精神の「善」である事とその起源としての聖書について (p- 183)

    「精神の本質は自由であり、自己との同一性としての、概念の絶対的否定性なのである」(『精神哲学』ヘーゲル p- 10)デリダはハイデガーにとっての精神について、自由について、悪について本書でふれるためにヘーゲルの引用を注記する。 (P- 196)

    先ほどのデリダの注記とニーチェの「世界は深い、昼が考えたより深い。世界の痛みは‐深い、悦び、‐それは心の悩みよりいっそう深い。痛みは言う、去れ、と。しかし、すべての悦びは永遠を欲する‐深い、深い永遠をす る!」というセリフがシンクロする。

    「言語活動は常に、いかなる問い以前にも、そして問いそのものの内で、幾分かの約束へと帰着する。それはまた、精神の約束でもあることになろう」p- 156 デリダはこの中の「いかなる問い以前にも、」を強調してながい注を記している。

    解釈や翻訳は、他者性の侵害ともとれるが、侵害、侵食なしに他者性なるものが理解できるのか?あるいは理解し得ぬ他者性を媒介とした自己の覚醒を促しているものなのか?

    わたしが言葉を発する時、わたしを借りて他者が見えないかたちで発している わたしが文字を書くとき、ペンとノートという書かれるものの余白に他者も紛れて書いている

  • 読了メモ。G.デリダ『精神について』。F.D.E.シュライエルマッヘル『宗教論』。眺めれば眺めるほどに遠くなるよう超越(者、観念。)という言葉。人間にはそれを言葉で表すことは出来まい。直感するのは自由だが、捉えたというのを隣人にかたる(語る、騙る)時に政治が始まる。

  • デリダの脱構築は
    庄司先生のレポートで毎回引用しています

    便利な著書ですことw

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著者プロフィール

ジャック・デリダ(Jacques Derrida):1930-2004年。仏領アルジェリア生まれ。エコール・ノルマル・シュペリウール卒業。西洋形而上学のロゴス中心主義に対する脱構築を唱え、文学、芸術、言語学、政治哲学、歴史学など多くの分野に多大な影響を与えた。著書に『声と現象』『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』『ヴェール』(シクスーとの共著)『獣と主権者Ⅰ・Ⅱ』ほか多数。

「2023年 『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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