イルカ漁は残酷か (平凡社新書)

著者 :
  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582857856

感想・レビュー・書評

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  • 本書の内容からは反れるが、反捕鯨外国人活動家は再来日禁止措置やコロナ禍での渡航制限で尻すぼみに。
    しかし日本人のヴィーガンや自然保護活動家によって反捕鯨、反イルカ漁、反動物園(野生動物の捕獲・飼育)が叫ばれている現状。
    イデオロギーの対立構造のようになっている。現状を取材した続編にも期待したい。

  • SDGs|目標14 海の豊かさを守ろう|

    【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/689844

  • イルカの追い込み漁がもともとは伊豆の富戸発祥だったこと、近年は水族館へのイルカ供給ビジネス的な側面もあったことは知らなかった。反捕鯨活動もある意味ビジネスなのか?

  • イルカ漁は伊豆の川奈・富戸や壱岐でも行われていたこと、現在でも捕獲数は岩手の方が多いこと、太地町のイルカ追い込み漁はクジラ博物館のために1969年から始まったことなど、歴史が幅広くまとめられている。著者も反捕鯨活動に批判的であることを隠していないが、イルカの屠殺が残酷であることも認めている。どちらに偏ることもなく、まとめられている印象だった。

    小型鯨類の捕獲頭数は岩手県が最も多いが、すべて船に並走して近寄ってくるイルカを手銛で突き捕る突き棒漁。和歌山県は大きく離された万年の2位。

    太地町では古くから古式捕鯨が行われており、1606年に突き捕りの捕鯨が行われたのが発祥とされている。1675年には、船の間に張った網に別の船がクジラを追い込み、銛を投げつけてからクジラに乗り移って止めを刺す網取り式捕鯨法が行われるようになった。1900年に地元資本の捕鯨会社が設立されて、アメリカ式のボンブランス破裂銛を用いた捕鯨を開始。1905年には東洋漁業株式会社、1906年には帝国水産株式会社が太地を基地として捕鯨を開始した。両社は1909年に合併したが(後の日本水産のルーツのひとつになる)、同年に大東漁業株式会社が操業を開始し、両社は船首に捕鯨砲を装備するノルウェー式捕鯨を始めた。

    太地町ではゴンドウなどの小型鯨類の漁が盛んで、港内に追い込んで捕獲することもあった。1933年にミンククジラの捕獲に成功すると、全国各地で操業するようになる。終戦直後には資源量が増えていたためによく捕れたが、やがてゴンドウの捕獲量が急激に落ち、1948年には小型捕鯨船によるミンククジラ以外のヒゲクジラとマッコウクジラの捕獲が禁じられた。南極海捕鯨は1934年に始まり、1946年に再開されると、太地町出身者が乗り込むようになった。

    捕鯨船を下りて町に戻る漁師が目立ち始めた1964年、町長の庄司五郎は太地を観光の町に変える計画を立て、クジラの飼育展示と捕鯨資料館をその目玉に据えた。すでにアメリカの各地、国内でも江の島でイルカショーが行われていた。プールで飼育するためのイルカとゴンドウの追い込み捕獲は1969年に始まった。木造船にディーゼル発動機を積んでも時速20kmだが、バンドウイルカは時速40km以上で泳ぐ。1970年からFRP船を使い始め、同じ頃からイルカショーを見せる水族館が全国的に増えて、バンドウイルカの需要が増えた。1970年に串本沖でバンドウイルカの網取りに成功し、1975年には追い込み捕獲に成功した。

    壱岐島沖の七里が曽根と呼ばれる天然礁では、1930年からサンマなどを餌にしたブリ漁が行われていたが、かかったブリをイルカに食われる被害を受けていた。1956年から様々な方法でイルカの駆除を始めるが、成果を上げられなかった。1976年に太地町の支援を受けて初めて追い込みに成功したが、翌年には、放血処理によって入江が真っ赤に染まった様子が報道され、海外まで配信されたため、世界中から抗議の声が上がった。

    東日本の水族館にイルカを供給していた川奈・富戸では、1978年を最後に1頭も捕れない年が続いていた。一方、太地では水族館への販路が拡大したことを背景に、バンドウイルカの捕獲数は1980年に412頭に達した。1983年に追い込み漁は県知事許可漁業となり、1993年には、それまで自主規制だった捕獲頭数が捕獲枠となって規制されるようになった。1988年に商業捕鯨がモラトリアムに入ると、イルカやゴンドウの肉が急騰したが、長くは続かなかった。

    2009年、アメリカでザ・コーヴが上映されると世界から非難を浴びるようになり、反捕鯨団体やイルカ活動家が太地に押し寄せるようになった。2011年には、NHKスペシャル「鯨と生きる」で、鯨漁師の苦悩と活動家のハラスメントの実態を放映している。和歌山県警も、2011年から追い込み漁が行われる畠尻湾近くに臨時交番を設置し、活動家を監視するようになった。

    動物園では野生動物を捕獲して飼育展示することはなくなってきている。2005年から2013年までの生体イルカの捕獲頭数は1108頭だった。2014-15年期より、WAZAの提案に応じて生体捕獲と漁を分離するようになった。バンドウイルカを生体として販売すると1頭40万から70万円になるが、食肉としては1万円前後(2013-14年期)。屠殺は止めて水族館への生体販売だけにする議論も起きているが、それでも反対運動は止まらないと予想され、水産庁も水産業でなくなるとの理由で、生体捕獲のみの操業は認可しない方針。バンドウイルカとコビレゴンドウの個体数の減少は激しく、このままでは熊野灘から姿を消す恐れがある。

    <考察>
    太地では捕鯨の歴史は長いものの、バンドウイルカの追い込みは1969年に始まったに過ぎず、地元住民の生活に必要な食肉としてではなく、観光目的だったことを考えると、これを古来の伝統と主張するのは無理があると思う。西洋の価値観の押しつけに対して、感情的に反発しているだけではないだろうか。日本人でも、湾が血で染まる景色に惨悽な感情を抱く人や、イルカを人間と心が通じる動物であると考える人は少なくないだろう。水族館については、長期的な計画で人工繁殖の努力を進めることを期待するしかないだろう。一方で、あらゆる捕鯨に反対する西洋的な考え方にも、どのような動物を捕獲の対象外とするかの国際的な合意がないという意味でも、独善的であるとの感想を抱かざるを得ない。ただ、少なくともバンドウイルカとコビレゴンドウの個体数の減少が激しい現状からは、種の保全や持続可能な利用の観点の厳しい規制が必要だと思う。それこそ、持続可能でなければ「伝統」であるはずがないし、伊豆のように捕獲できなくなれば、収奪的なものだったことを明らかにすることになる。

  • イルカ漁は残酷である。この本はハッキリと断言している。
    太地町で行われているのは言い訳のしようのない残虐行為で、これほど長く苦しむ殺し方は世界のどこにもない。ザ・コーヴで描かれていたそれはまぎれもない事実だ。安倍晋三首相は、漁は相当の工夫がなされている、そして厳格に管理されていると述べたが、いまだに世界の屠殺の中で突出して残酷である。そして資源管理は全くなされず、このままでは太地町沖から鯨類は姿を消すだろう。パンドラの箱は開いて、残ったのは希望ではなく枯渇だった。
    これまで日本はことごとく鯨類の資源管理に失敗してきた。伊豆のスジイルカが激減してしまったのも一例である。水産庁は既存の漁業を守ることを第一として、規制には消極的である。もう手遅れになるまで何もしようとしないのだ。
    外国人運動家にはアメリカ的覇権主義や人種差別的感情が根底にあると決めつけ、動物福祉的・道徳的な問題を一切認めない日本側。今日まで30年以上にわたって続いてきた不毛な論争には些少な島国根性がある。ザ・コーヴに描かれているほど捕鯨に関わってきた人たちが残虐な人間だとは思わないが、伝統や生活にあぐらをかいて思考停止状態にあるのは間違いない。ザ・コーヴには事実と異なること、大袈裟な表現もあるが、この映画の意図は国際的な反対世論を巻き起こして太地町のイルカ追い込み漁を中止に追い込むことなのだ。その大きな意図以外のところに抗議しても仕方がない。ザ・コーヴに主演しているリック・オバリーはもとイルカやシャチの調教師で、その愛情の深さゆえイルカの飼育やスタントショーに絶対反対の立場を取り、捕らわれのイルカを一頭でも多く野生に戻すために、その生涯を捧げている。リック・オバリーは特に太地町を狙い撃ちしているわけではなく、残虐なイルカ漁を目撃したからだった。C.W.ニコルはもとは勇壮な古式捕鯨にロマンを感じていたが、イルカ漁のあまりの残酷さに次のように書いている。
    捕鯨やイルカ漁の歴史は資源の枯渇の歴史であった。イルカ漁のメッカは伊豆半島であり、16世紀ころからの記録が残る。伊豆半島での近代イルカ漁は1900年ごろライバルである隣村を集団リンチしたり殺しあったりするほどであった。リンチする姿を村の娘たちは手を叩いて喜んでいたという。明治時代に本格的に始まった近代イルカ追い込み漁は、戦後しばらくの間は隆盛を極めていたが、長くは続かず2004年を最後にイルカ漁は行っていない。
    日本の古式捕鯨は縄文時代の遺跡からクジラの骨が出土されもし、古事記にも捕鯨に関する記述が見られるが、組織化された事業としては1606年に太地浦で突き捕りによる捕鯨を始めたのが発祥とされる。その後300年、連綿と引き継がれていたが、不漁が続いていた1878年、不漁の焦りから悪天候をついて出漁したことにより135名死亡という大水難事故に見舞われる。その後1904年の日露戦争勃発で古式捕鯨の伝統は完全に終焉した。
    太地町でのイルカ漁は江戸時代末期から行われてきたが、本業の片手間にやる程度だったらしい。しかし大水難事故によって捕鯨からイルカ漁に力を入れるようになり、前田式連発銃などの開発でゴンドウ漁が盛んに行われるようになった。終戦直後の漁の好景気は短く、1960年にはイルカ漁船は一隻になってしまった。
    日本の南極捕鯨は1934年に始まっている。戦後すぐに食料難にあえぐ日本を見かねたGHQが、他国の反対を押し切って許可して稼ぎまくっていたのだが、すでに1959年には時の太地中学校長が南極捕鯨ブームは10年ともたないと警鐘を鳴らしていた。そして程なく南極海でもクジラが捕れなくなり、太地町は観光立町を目指し、くじらの博物館を建てる。イルカの追い込み漁や解体ショーも賑わったが、即売会では誰一人としてイルカの肉を買わなかった。
    太地町ではイルカも食べられてきたが、食肉としてはコビレゴンドウとスジイルカが好まれて、地元漁師がクロと呼ぶバンドウイルカは食べられてこなかった。
    JAZAには加入することでほかの園館で生まれた動物を融通し合えるというメリットがある。すでに日本の動物園では野生動物を捕獲して展示することはなくなってきており、それが世界の動物園の趨勢である。園内繁殖によって絶滅危惧種の個体数拡大にも貢献しているが、水族館はいまだに海洋資源を消費している。アクリル水槽と人工海水というブレークスルーによって、山奥や高層ビルのてっぺんのカジノにも水族館が作れるので、儲かるビジネスという考え方である。
    イルカ漁反対運動に対する国内の反論として最もよく聞くのが、牛豚鶏は平気で殺して食べるのに、どうしてイルカは問題視するのか、という理屈である。和歌山県知事も本多勝一も言っているが、どちらも見落としているのが、イルカ追い込み漁が牛豚とは比べものにならないほど残酷に屠殺されているということである。いのちの食べ方に出てくるように、牛は頭をノックガンで撃たれて一瞬で意識を失い、その後系動脈を切られて失血死させられるので、最初の一撃以外は苦痛はない。豚の場合はそれさえもない。また、屠殺する人も苦痛を与えないように最大限の配慮をしている。太地町のイルカ追い込み漁の場合、入江に追い込まれてひしめき合っているイルカやゴンドウは、2007年漁期までは長いモリでめった刺しにされて殺されていた。それは死ぬまでに何十分もかかる恐怖と苦痛に満ちた残酷な死である。ザ・コーヴのおかげで翌年から改められて、デンマーク領フェロー諸島のゴンドウ漁で使われている刃先がダイヤ型の特殊なナイフが用いられるようになった。浅瀬でイルカを押さえつけておいて、噴気孔の後ろをグサリと刺すと延髄が切断されて即死するという。だが、それでもイルカの屠殺方法が苦痛と恐怖が長続きする残酷な死であると断言する理由がある。追い込まれたイルカたちは屠殺されるために一頭一頭ロープで吊るされて浅瀬に運ばれてビニールシートの中に引きずられる。イルカは殺されることを悟って死にものぐるいで暴れ回る。ロープが尻尾に食い込んだり身体を岩に打ちつけたりして、傷だらけになったイルカの血でピンク色になる。まだロープをかけられていないイルカも自分たちが殺されることを知り、なんとか逃れようと暴れ、時には岸辺にも乗り上げる。そうして絶望的な逃走の努力をしている際に、身体を岩に打ちつける。イルカは霊長類と同じく自己認識のできる生物で、鏡を見せると自分だとわかる。知能が高いか低いかはわからないが、そのイルカを牛豚よりも残酷な方法で苦しめて殺しているという事実は知らなければならない。ただ、魚類はイルカと同じく長く苦しむ窒息死をさせている。漁師にとって海の生き物は魚もイルカも同じなのだ。だからといって漁師が海産物をどうとってもいいということにはならない。
    魚も一部だが人道的な扱いを受けるべきだという例もある。生物全般により高度な福祉を与えようという動きは、グローバルな潮流なのだ。スペインの闘牛が中止に追い込まれているように、イルカのスタントショーももはや許されなくなってきている。そうした大きな流れの極北にあるのが太地町のイルカ漁なのだ。
    イルカを殺さず生体捕獲して水族館に販売することだけをすればいいようにも思えるが、太地町の警察は生体捕獲だけに絞っても反対運動は無くならないとの見解で、水産庁も食肉としての捕獲がなくなれば水産業ではなくなってしまうとの理由で、生体捕獲のみの操業は認可しない方針だという。イルカの屠殺が続いているのは、硬直的な行政の体質にも理由があるのだ。
    水産業としての近代イルカ追い込み漁は、1972〜5年の間に始まったので、歴史でも伝統でもないともいえる。しかしゴンドウの追い込み漁が偶発的にはかなり以前から行われていたのは事実で、そうなると長い歴史や伝統があるともいえる。どちらにせよその成立過程には努力と奮闘があったが、庄司五郎町長の逝去以来、太地町は方向性を失ったように見える。
    個人的には、縄文時代の遺跡から出土したクジラの骨格は、捕鯨したのではなく浜辺に打ち上げられたものを利用したと考える。明確に捕鯨をした証拠がなければ、こちらの方が可能性が高いだろう。死肉や腐肉を食べないのは、長い動物の歴史の中で現代人だけなのだから。

  • シーシェパードに代表されるイルカ漁反対運動に対して、「牛や豚は殺しているのに、なぜイルカだけに目くじらを立てるのか?」。多くの日本人が疑問に思っている。筆者はイルカ漁を続ける和歌山県太地町関係者、内外のイルカ漁反対運動関係者、そしてWAZA(世界動物園水族館協会)残留のため太地町からのイルカ入手を中止したJAZA(日本動物園水族館協会)関係者に綿密な取材を行い、それぞれの主張にフェアに関わろうとしている。筆者の指摘は、イルカ漁反対運動関係者にも手厳しい。一部の反対派の目的達成のために手段を選ばない方法には、憤りも感じている。それでも今世界で人間と動物との関係を見直す動きを冷静に見極めようとしている。
    多くの日本人が見落としていることがある。それは「イルカ追い込み漁におけるイルカの屠殺方法は、牛豚を屠殺する場合とは異なっているという点である。動物として牛豚がイルカと違うのではなく、イルカと牛豚とでは屠殺方法が違う」。牛を屠殺するには、牛の額をノックガンを撃つ。牛は即死である。豚の場合は炭酸ガスで失神させたあと、出血死させる。ともに痛みを感じる時間は最小限に抑えられている。太地町のイルカ追い込み漁の場合、当初は銛を投げて刺し殺していた。2008年12月からはデンマーク領フェロー諸島で行われている捕殺方法に切り替え、延髄を一刺しにすることで痛みを最小限にしているが。しかし長時間の追い込みをかけたあと、浅瀬にあげるために尾びれにロープをかける。そのためイルカは暴れ、岩などにあたり出血する。鏡を見せれば、自分だと分かるくらい認識能力の高いイルカにとっては、死の恐怖の時間があまりにも長い。
    漁師たちもイルカの屠殺が残酷なことは分かっている。しかし彼らは漁をして生業を立てている。その矜持もある。筆者はそのことを確認した上で、なお捕獲方法の再考を求めている。それは今グローバルな潮流として動いている動物福祉的な価値観はますます大きくなっていくと予想されるからだ。「活け締め」が人道的な屠殺方法として見直され始めているのも、この流れの一つだ。
    2016年秋に太地町は大規模なイルカ繁殖研究に乗り出すことを発表した。今後の動きも気になるところである。

  • このところイルカの追い込み漁で非難の的になっている和歌山県太地町だが、果たして本当にイルカ漁は残酷で非人道的なのだろうか。

    もしくはこれに対しての日本での反論によくあるように、イルカ漁は日本での伝統だから批判は的外れなのだろうか。



    本書はイルカ漁に関わる歴史やそれに関わる人々への丁寧な取材を通してイルカ漁の事実関係を明らかにし、容認する立場でも批判する立場でもない極めて客観的な本である。



    イルカ漁を批判するシー・シェパードなどの保護団体の主張は、事実を歪曲したり太地町の例のみを取り上げるなど極めて身勝手なものだが、日本側の反論も決定的なものはない。

  • 水族館の人気者である「イルカ」を巡り、国際的な問題が起きています。日本の伝統として和歌山県太地町を中心に行われている「イルカ追い込み漁」は、
    「残酷」だとして、反捕鯨団体による批判や「世界動物園水族館協会(WAZA)」による非難決議の採択など国際的な非難が高まっています。
    ノンフィクション作家でもある著者による詳細な歴史調査と関係者へのインタビューから、この問題の新しい側面が見えてきます。
    (664 漁労.漁業各論)

  • 2015年11月8日読売新聞朝刊、書籍紹介欄で紹介されており購入。
    捕鯨問題の中でもイルカ漁に特化した新書。
    (未読の捕鯨問題系の本を溜め込んでいるので、早く消化しなければ……(/Д`;)

  • 私の持論としては、イルカ漁に対して他の動物も殺して食べているんだからイルカも食べる分には同じだろうと、そのような考えであったが本書を読んで少し変わった。根本は変わらなかったが。

    まず私自身知らなすぎた。イルカ漁に対して無知だったのにも関わらず偉そうなことを言っていたなと感じた。イルカの屠殺方法は他の動物に比べてより苦痛を伴い、残酷であることは知らなかったし、食べる以外にも多くを殺していた(見せ物として殺してたこともあった)ことは知らなかった。

    したがって私たちはもっと認識を深めてから議論・反論を行うべきだし、少なからず反イルカ漁の人の意見に反発しているだけに過ぎないという点も考えなければならない。
    伝統は大事ではあるが、それをその時代の価値観に合わせて変化させていくことも大事である。今後のイルカ漁や動物の猟に対しても考えていかなければならないことは多くあると思う。

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著者プロフィール

1961年東京生まれ。筑波大学卒業。IT業界でテクニカル・ライター、コピー・ライター、広告・宣伝、インターネット・マーケティングなどに従事した後、ノンフィクション・ライターとして幅広い分野で活動中。著書に『全学連と全共闘』(平凡社新書)、『スコット・ジョプリン──真実のラグタイム』(春秋社)などがある。

「2015年 『イルカ漁は残酷か』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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