観光のまなざし (叢書・ウニベルシタス 1014)

  • 法政大学出版局
3.33
  • (2)
  • (1)
  • (1)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 83
感想 : 5
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (446ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784588010149

作品紹介・あらすじ

観光学の名著が世界状況の変化に合わせ増補改訂。グローバル化、デジタル化、オンライン予約などによる格安旅行・格安航空の成長、遺産の景観破壊、人類の歴史における〈負〉の観光。フーコーの〈まなざし〉の概念を手がかりに、歴史的・経済的・文化的・視覚的レベルにおいて観光をテクストに文化を読み解く。研究者、旅行産業をはじめ現場の政策・施策担当者など、観光に携わるすべての人々に必読の書。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 第5章(特にモダンとポストモダンやらアウラやら)概念難しすぎて理解できないまま読んだ気がするので、次に読み直した時に理解できるほどの体系的な背景知識を得ていてほしい

  • 英語英文学科島田由香教授おすすめの一冊。

    <先生からのコメント>
    アーリーは, 病気という診断が医師に委ねられる フー コーの 「医学的まなざし」 という考えを援用し、人々がまなざしを向ける観光対象がどのようにして作られていくかに注目しています。
    何よりもアーリーは、そもそも観光とはなんぞやという本質的問題に取り組んでいます。
    観光関連に興味があるなら必ず通るべき重要な一冊だと思います。

  • 第一章 観光理論 p.1
    第二章 大衆観光 p.46
    第三章 経済 p.74
    第四章 労働とまなざし p.115
    第五章 観光文化の変容 p.151
    第六章 場と建造物のデザイン p.186
    第七章 見ることと写真 p.240
    第八章 パフォーマンス p.292
    第九章 リスクと未来 p.334

    P.26
    まなざしを向けるということは単に見ることとは違う。まなざしには解釈の認識作業がある。価値を判断し、比較の対象を求め、記号とその指標との間に心的なつながりをつけ、記号を写真にして、捉えるのだ。

    P.27
    観光のまなざしの概念は(略)多様なまなざしの体系的でかつ整合性のある特質についてなのである。

    P.28
    単なる見物をする観光者への批判は、さらに極限にまで至り、原形よりいっそう「本物」の様子をしているまがい物の場である、「ハイパー・リアル」への批判を呼ぶ。
    (視覚の限定的な羅列であり、過激になり、他の刺激を凌駕する。例:ディズニーランド、ショッピングセンター)

    P.40「記号の経済」
    世界的観光地の「イメージ」世界的シンボル、典型的なシンボル、メディア化されたイメージの流布
    同じように世界的ブランドも増加
    「コンセプト」や「ライフスタイル」を製造

    P.51
    急速な都市化
    都市化の典型的パターン
    付き合いの範囲
    →階級の内に広がる
    同じような利害を持つような人たち、同じような趣味や教養持つ人たちと付き合う。

    P.74
    観光者向けサービスは(観光のまなざしを向けられている)生産の現場で同時刻に提供される。

    P.82
    ディズニー化・体験経済
    商品とサービスを個別固有の体験へと変えて、「まほうのように」日常を非日常にすることで、商品・サービスの価値を上げようとする企業の一つの戦略である

    ディズニー化が追及するのは、多様さと変化で、一方、マクドナルド化がもたらすものは類似と相似である。マクドナルド化は、よくおこる変わった体験でも、均一化した月並みの面白みのない消費体験に置き換えていくということだ

    P.126
    観光での演出を伴う労働は、軽く微笑む技、ちょっとした表現能力、演技技、ストレスとか非常事態に対処する能力、そして適切な社会行動についての規範に副えるおおよその暗黙知と心構えが要求されるのだ。

    P.131
    前線従業員の努力はもっと高く評価されるべきだということである。
    この人たちが「真実の瞬間」の供与者であるからには、その動機付けや参加意欲が決定的になるのだ。

    P.149
    動物も観光のまなざし
    「動物園的まなざし」

    P.158
    ホストモダンのある鍵概念、例えば<脱フォーディズム>というのは、じつは大衆が非差異化されたまとまりとして扱われることへの拒絶意識であるということを考察してみよう。

    P.171
    「風景」とは、教養のある目やたくみな手法や表象する技でもって、モノとしての環境を視覚的に構成する”人間的”な方法なのだ。だから、「風景とは、文化が生み出すイメージであり、環境を表象し、構造化し、あるいは抽象化する画像的な方法でもあるのだ。「風景」とは、人間がどのように「自然」を支配し、所有し、そこから愉悦を得るかという事柄にかかわるものだ。
    これは場の外見と洋装についてであり、かつ、場をモノとしてみないようにしてしまう様式でもある。

    P.177
    いまや観光のまなざしはクリック一回で体験できる

    P.181
    そこにまなざしを向けるとき、絶えずテクストとイメージの世界に組み込まれてみている。
    その世界は、書籍、雑誌、絵画、絵葉書、広告、テレビドラマ、映画、ビデオゲーム、音楽ビデオなどだ。観光のまなざしの広範な世界化で、たいていの場所はイメージの回路通じて「動いていて」「つながっている」。

    P.192
    レオン・クリエは「人間尊厳のありどころ」の必要性を語っている。局地性が第一なのだ。

    P.195
    現代建築の二つの得意な様相
    テーマ化とモール化
    テーマ化は観光のまなざしを廻ってのもの

    P.198
    観光地のテーマ化
    演出効果や建築様式で異国情緒たっぷりの外国を感じさせる「テーマ」が採用されている。
    だが、外部に潜んでいる危険とか不快さからは遮断
    観光者は家から離れていても気楽

    P.200
    モール街
    距離や場という地理的な境界を越えた新しい場所の集合体感覚
    可能にしたのは、観光の表象のひろがり、つまり写真や映像の急速な普及
    →イメージがないと集めてもなにかわからない

    P.204
    ポストモダンの究極形態は、何かが打ち立てられようとするいかなる場所のコードも破壊するというコードをしいるものだからである

    P.231
    「文化資本」をもつ観光者にとっては、美術・博物館は観光体験の第一のものとなっていった。(略)現代版巡礼、見るものが有名かどうかに意味があるのだ。

    P.245
    (絵のように、クロード鏡を使い)見るという感覚が距離を置いて対象や環境を所有することを可能にした。
    距離を取ることで、初めて日常の喧騒を取り除いた適切な「眺望」が得られる。

    P.254
    技術上の発明をうみだすものは、科学知識よりむしろ社会の切実な希求なのだ

    P.259
    写真は消費者資本主義と一体化し、流布している
    写真は安価な大量生産品となり、世界は目で見え、美しく、好ましいと思われるようになった。体験は安っぽいイメージ化で「民主化」されていった。
    写真は関係の経済の中でまなざしや場所を作り上げるのだ。

    P.262
    カメラの目は人間の目なら的確に見、ほとんど見えないようなものでも把握している情景を、あえてみすごすのだ。
    (編集という力、権力が及ぶ)

    P.268
    写真は、家族、消費主義、観光というネットワークを作り上げた

    P.270
    商業写真
    消費者資本主義は、きまぐれな消費者の需要と、欲望する身体を作り出してくれる写真に「投資」する。
    (CMや広告の写真)
    観光者は誰でも、写真を撮るかどうかはともかく、写真的な場所を消費する。

    P.177
    「現実」は観光的になり、視覚消費用になっていく。

    P.282
    インターネットでネットワーク上に写真が集積するのは、写真技術のアフォーダンスが劇的に拡大したということだ。

    撮影、対象、消費の近接(生中継の絵葉書)

    P.288
    観光と写真は、まるで「一体」であるかのように相互に原因となりまた強め合ってきた。

    P.294
    パフォーマンス転回
    ①観光が求めているのは単に”見る”だけでなく、そこにいること、何かを行うこと、触れること、そしてみること、これらのことに、より基礎を置いた新しい見方を示すもので」こういう認識に理論の力点が写ってきたことをいう
    観光者は場所を体験するのに、視覚だけでなく、多種多様な感覚を用いているということ、そこには身体的感覚、身体効果、行動力が享受できるようになっている

    ②テーマ化され、舞台化されている観光地の本質、ならびに台本化され、劇場化された観光者の”肉体を備えた”体の動きということを概念化

    P.297
    観光者は受け手であるだけでなく、パフォーマンスする側でもあるかを論じている

    P.303
    しかし、たくさんの観光は視覚中心である
    (カヌーなどの体験も景色があってこそ)

    P.345
    旅や観光が生み出すコストをめぐって、現在と未来の世代の間には利害の不一致があるということだ。
    (限界費用や環境問題、観光公害)

    P.349
    観光地によっては人(別の観光客)を必要とする。まさにこここそ来るべきだという雰囲気を醸し出してくれているのだ。

    P.361
    未来
    1.機械装置の移動などがステータス
    →観光のまなざしはまだ位置財
    電子情報は身体旅行の”代用品”にならない
    2.持続可能社会
    地域回帰
    遠隔地への移動は悪となってしまう

    P.365
    未来
    私たちはいささか「新奇を求めるまなざし」を、それなしで済ませることが必要だ。
    →地域的まなざし
    足元にある宝を探し出し、見付けだす

    P.375(訳者あとがき)
    「まなざし」の二つの側面
    1.「文化」の枠組みのいわゆるまなざしである
    2.「視覚」としてのまなざし
    人が学び取った文化的慣習でしかない

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784588010149

全5件中 1 - 5件を表示

著者プロフィール

(John Urry)1946~2016年。ロンドン生まれ。英国の社会学者。ランカスター大学社会学科教授、英国王立芸術協会のフェローなどを務めた。21世紀における「移動」をめぐる新たな社会科学の中心的人物として、世界的に著名。
日本でも『観光のまなざし』『場所を消費する』『社会を越える社会学』『モビリティーズ』などの邦訳で広く知られ、その著作について、社会学者の北田暁大は「具体性と抽象性を往還するなかで理論が生成していく現場を読者は目撃することになる。……スリリングであると同時に論争的でもある」と評し、作家の髙村薫は「20世紀を生きた者なら誰でも身体感覚としてもっている感覚を初めて言葉にしてもらった驚き」と述べるなど、アカデミズムを超える広い読者層を獲得している。
2003~2015年、ランカスター大学に「モビリティ研究所」を設立し責任者を務めた。2015年、新たに「社会未来研究所」を設立し共同責任者となり、人生の最後の時間を“モビリティーズ・スタディーズ”の集大成としての“未来研究”にかけ、翌年の2016年に亡くなった。本書は、その最後の研究成果として結実したものである。

「2019年 『〈未来像〉の未来』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ジョン・アーリの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×