- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622004639
感想・レビュー・書評
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1966年原書、1970年日本語訳出版。
当時の文化や日本の理解など、んーー?と思う部分はあれども、テーマ自体は、半世紀以上過ぎた今読んでも、充分興味深い。
動物たちの過密ストレスと内分泌の関係、遠距離感覚受容器(視覚・聴覚)の発達に伴い人間が文化として発達させてきた空間認知、それぞれの文化の違いetc.
うん、私もいろんなストレスで実は変な匂いを撒き散らしてるかも、とか考えてしまう。空間だけの問題ではないかも、だけど(苦笑)。
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『パブリック空間の本』で紹介されていた1冊。
空間利用の視点から、人間と文化の隠れた構造を捉えています。生物学的アプローチも、文化的アプローチも非常に興味深いものがありました。
概念的で古い本なのですが、なかなか面白かったです。
訳が日高敏隆さんというのが、少し意外というか驚きでした。
日本に対してはとても好意的に書かれていて嬉しいのですが、ベイルートの「いじわるの家」、これはヒドイ!ホントいじわる(^^;; 今でもあるのかな? -
我々の暮らす”空間”が生物と人間にどのような影響を及ぼすかを文化人類学の観点から考察している。
正直結論がもの足りない気もしたが、それは岡本吏郎さんの講演会を聴いて後々明らかになって行く。
生物学的なアプローチからねずみを使った実験で、ねずみに多様な居住空間を与えることにより、人口の自動調整、ストレス、性行動の異常化などは、読んでいて退屈しなかった。
文化的アプローチとして、民族間における空間への認知の違いの考察も新しい発見。
著者は最後に当時の建築学、都市設計の在り方、人間の精神性に警鐘を鳴らすとともに、人間は文化の上に延長物を創り出し、それとともに生きていかなければならないということ。この辺りの解釈は難しいが・・・
岡本吏郎さん曰く、
・人間は自分よりも延長物を先に行かせるのではなく、家畜化しなくてはならない。
・読書も延長物の一つ
・「攻殻機動隊」と脱同一化
よく分からない・・・が、読んでみて決して無駄ではない一冊。 -
「文化」というかくれた次元を、「空間」とその知覚という観点から分析する。その対象は、生物学、行動学、文化人類学、都市工学に分類されるような幅広い現象であり、示唆に富む。
コミュニケーションの課題に接すると、「人種の違い」「環境の違い」といったように、複雑であるがゆえに、文化というかくれた次元を現象の原因として思考停止に陥ってしまいがちだ。「ちがう感覚世界に住んでいる」という本書の根底にある前提とその分析は、異文化を理解する上での大きな礎石となるように思える。
集団、文化、都市といった複雑な派生物を考えるうえで、その対象が人間を基に構成されていることや、同じ体験から異なる知覚が生じること、こうした差異に無自覚であることが、結果として漠然とした歪みの感覚を生じるのだろう。派生物へのフィードバックの組み込みは、いまだに大きな課題として残されている。 -
椎名誠さんが勧めていたという珍しい本
内容全く古くなく素晴らしい
次に時間のある時にまた読みたい
アジアと欧州のパーソナルスペースやメテオ…じゃなかったヘテロ…でもやいわデモグラフィックの違いなど。実に興味深い。 -
著者はアメリカの人類学者。
人間という集団において、権力者らが、それ以外の人間の人口調節をしているのは、自然の摂理なのか?
直接的な事はなにも書かれていないだろうが、なにかヒントが得られるかも。
カニの個体数調節には、少し驚いた。 -
並行して読んでたフィリップ・ボールの「流れ」と重なる部分があったり、読んだばかりのギブソンの理論(ただし、読んでない視覚ワールドの世界)が多く引用されてたり、と、読みながら混乱してしまう。
読書の順番の前後関係は、意識をしたりしなかったりまちまちだ。かくれた次元を読むことになったのは、そもそもはジャコモ・リゾラッティの「ミラーニューロン」で脳の機能を説明するのに思わずアフォーダンスが出てきて、おぉ!と思い、ずーっと先送りにしてもはや忘れかけてた、J.J.ギブソンに挑戦せねば、となったことから始まった。「ミラーニューロン」を読み終わったときにたまたま父の家にいて、その蔵書から「生態学的視覚論」を譲り受けて読み始めるも、違和感を拭えず、一冊遡って「生態学的知覚システム」から読み直した。アフォーダンスというか、今更ながらむしろギブソンの言うのは生態学的な知覚のシステムのことであることを理解しつつ、そこには、「ミラーニューロン」でも触れてあった、「近さ」「遠さ」の感覚が抜けてるな、というところが気になった。そして同じ頃、たまたまジュンク堂池袋店のエスカレータを登ってたときに目に入った本書「かくれた次元」がそういう距離の本だったと思って手にした、という顛末で、だから、ギブソンがたくさん引用されていることには、我が意を得たり、というところだった。
本書は、難しいものではないけども、今、東京とかの大都市で生きてて、無意識に通奏低音のように感じてるストレス(よく晴れた日に地方の広い空の下の駅に降り立つと感じる、ふぅ、というような開放感が、この日常のストレスを示してる)とその原因に気付く良い本である。「近さ」についての文化間での相違への理解や近過ぎることの孕む本質的な不安定さへの重要性を教える。
同時に、あまり触れられていないが、僕にはむしろ遠さの重要性が忘れられていると感じた。電話、メール、SNSで関係の「遠さ」が弱まっている。孤独が減っている。それはどういうことか。
不安を感じるほどの遠さ、つながりを辿れないほどの距離、そういうものがある。生物はそれほど群衆からは離れない。仲間を失うことは生命の危機につながるし、何より、繁殖の機会を逃す。
しかし、人間には、こういう遠さというのが重要性をもつ場合がある。ジョーゼフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」にあるように、多くの非文明的社会で、大人になる段階での通過儀礼があってそれを模したものが神話構造の「旅立」「通過儀礼」「帰還」というものになる。この「旅立」というものが、まさに遠さになる。ここに近さを離れ彼岸へ渡る、ということがある。そしてそこで挫折があり、助けがあり、超克があって、通過儀礼を経た大人として帰還に至る。バンジージャンプの死を賭したジャンプも、人の手の助けが届かない領域への旅立ちであり、紐による救いであり、それを乗り越えての帰還になっているのだろう。
現代では、本書にあるように近さの過剰による問題が起こっている、が、同時に、遠さの希薄にも繋がっていることで、通過儀礼の機会を失っている。大人になる、というタイミングを得ないまま、大人になる。
ギブソンからの流れで、近さを課題に読んでたが、遠さに気づかされた読書だった。
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類型的・断定的なところが少々気になるが、45年前に出版されたとは思えない程、いまでも面白く読むことができる。古典とはそういうものだろう。近年の書籍はジャンルが細分化されすぎる点が気になるが、本書はジャンルの縦割りを軽々と超えていてそこが魅力であろう。
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180428 中央図書館
古い写真図版がたくさん載っているが、シカゴのとうもろこしタワー?はだいぶ前から立っていたのだ。その他にも、フランス人は身体テリトリーが他国よりも小さく、公共の場で密集するのをあまり気にしないとか。ドイツ人とはそりゃ合わないな。 -
本書P51の「混み合いの生化学」の記述を読んだ際、鳥肌立つ思い出あった。