- Amazon.co.jp ・本 (332ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622022176
感想・レビュー・書評
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ザクっと言えば、死=停止を覆いを外して見たときに生じる共時的まなざし、俯瞰、それこそ構造把握によって、個別性、通時性における特異性が、前面化するということが、19世紀前半で生じたということがポイントである。
フーコーの方法の根源には、切り取った時代の断面、何度も再現可能な死がある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
臨床医学の誕生 (始まりの本)
(和書)2012年06月20日 14:35
ミシェル・フーコー みすず書房 2011年11月10日
フーコーさんの面白さが解りかけてきた。いろいろ読んでみたい。
この本も図書館で借りた。講義集成など興味深い。
楽しみが一つ増えたと思う。 -
ただの医学史というよりは、医学の根底にある考え方、哲学の変遷についての本です。
ここで要約するにはあまりに難しく、一読しただけでは自分自身理解できてない部分も多い(ほとんど..?)ので、あたりさわりのないコメントをしようと思います。:D
まず、全体を読んでちんぷんかんぷんになりながらも印象に残ったのは、
何気なく、当然のように受け入れているもの(語の定義しかり、考え方しかり)でも、そこに至る思索の流れがあるということ。
でしょうか。
「病について」「死について」などについて、どのように考えられてきたのか、という流れの一部を知ることができる著作だと思います。
(漠然としすぎているきらいもありますが、各論的な部分について書くには自分の理解は不足している気がするので。。。><)
あともう1つ、これはこの本のトピックとはそれるのですが、
病気や診断について考察されている割に、「治すこと」への言及が少ないのが興味深いなと思いました。
(もちろん、これをもってこの本を批判するつもりはありません。)
西洋の哲学や科学って、「◯◯とは何か?」という問いに答えようとする作業を重視しているイメージがあるのですが、それはこの本からも垣間見えていて、
いまの西洋医学の、診断をつけることを大事にしている感じ(僕自身のイメージなのですが...)にも通じる部分があるのかなと思うと、またさらに突っ込んで調べてみたくなりました。
とりあえず一周したので、いったん寝かせて、また読んでみようと思います。多分新しい発見があるでしょう。;D -
第二著書
・・・病いは生命そのものとして連絡しているもので、生命を養いとし、「すべてが互いに連続しあい、つながりあい、むすびつきあう相互的な関係」に参与する。病いはもはや一つの出来事ではなく、また外から移入された自然でもない。それは、ある屈折した機能において変化してゆく生命なのだ。・・・・・・病いは生命の内的逸脱である。そのうえ、各疾病単位は一つの生きた個性をモデルとして構成される。たとえば結節の生命があり、癌の生命がある。炎症の生命がある。・・・・・・したがって、生命を攻撃する病いという観念を廃止して、そのかわりに病理的生命という、ずっと密度の高い概念を採用すべきなのだ。病的現象は生命のテクストそのものから理解すべきであって一つの疾病分類学的単位から理解すべきではない。・・・・・・死は、その存在自体において、病いの源泉としてあらわれる。つまり生命に内在する可能性としてあらわれる。死とは、生命において可能になった病いだ。・・・・・・
・・・・・・現実の持続をもった生と、逸脱の可能性としての病いとは、死の深く隠された地点に、その起源を発見する。死は下から、それらの存在を支配する。死は病いの線にそって、病いを切りぬくのだ。・・・・・・病いの空間とは、何の余すところなく、何のずれもなく、生体の空間そのものなのだ。病的なものを知覚するとは、身体を知覚すること以外の何ものでもない。・・・・・・個人というものは、生命が最初にとる形でもなければ、そのもっとも鋭い形でもない。個が認識の対象となるのは、長いあいだにわたる空間化の動きのあげくのことである。・・・・・・個人が単調な生活や、その平均化からのがれて、じぶん自身にふたたびむすびつくのは、まさに死においてのことなのだ。死のゆっくりとした近づきは、なかば地下のものであるが、すでに可視的なものであって、その近づきのなかで、共同の、音もなき生は、ついに個性になるのだ。・・・・・・(人間は)死によって交換不能の顔をあたえられる生なのである。死はすなわち、人間の不可視的な事実であり、可視的な秘密なのだ。・・・・・・
フーコーは一九八四年、まだその治療法がまったくわかっていない病いに倒れて、急死した。-『読書のデモクラシー/長田弘』