- Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622070917
作品紹介・あらすじ
戦争は「テレビ番組」の一つと化したのか。この違和感の実体と淵源を、朝鮮・ヴェトナム・湾岸戦争に即して分析。ドキュメンタリー制作体験記(北朝鮮)を併録。
感想・レビュー・書評
-
著者のブルース・カミングスは東アジア政治経済や朝鮮史を専門とするシカゴ大学の歴史学者である。本書はテレビのもつ「客観性」という性質について、歴史学者の目線で書かれた本だ。本書は二部構成である。前半ではテレビというメディアそのものの性質を述べ、「テレビ戦争」と言われたヴェトナム戦争と湾岸戦争をとりあげながら「客観性の基準」について論じている。後半は『朝鮮・知られざる戦争』というドキュメンタリー映画の制作にまつわるエピソードを紹介しながら、客観性を考えるための「ケーススタディ」を提供している。
著者によれば、何をおいてもまず、テレビとは「現実のコピー」であるイメージを番組として売るビジネスである(1章)。そのため、制作者は「世間的にみて当然とされる視点」(57頁)を気にかけながら番組を作ることになる。つまり、テレビ番組には制作者の主観がバイアスとして入っているのである。他方でテレビの制作者は、「偏向の監視者」(57頁)を雇うことで(あるいはテレビキャスターが公正中立さを演じて)、視聴者に対して「客観性の基準」を提供する。しかし、この客観性はあくまで幻影にすぎないと著者は論じる。なぜなら、視聴者にとっての暗黙な共通認識となっているような「支配的な観念」(60頁)によってテレビは作られるのであり、そうしたイメージがたえまなく繰り返されることで、視聴者はますますその内容を「世間的にみて当然」と考えるからである。
2章ではテレビの客観性が写真との関係で論じられている。写真についてカメラは噓をつかない、というのは正しくない。すべての写真は写真家が明確な意図をもって撮影したものであり、コンテクストから引き離されているからだ。それらは「バイアスを動員した結果」(66頁)なのである。しかし一方で、写真にはそれを撮影した瞬間におけるリアリティが存在している。そして、時間をかけながら鑑賞者が写真を解釈することもできる。その意味で、写真は歴史家にとっての情報資料と同じであり、透明性と客観性を備えているのである。テレビの映像は「動き回るカメラ」によって撮影されたものであり、そのリアリティが「テレビの透明性と客観性への幻想」(64頁)を生み出している。しかし映像は視聴者に考える時間を与えないので、テレビによる主観性の度合いが大きい、と著者は論じる。「事実」を伝える「ドキュメンタリー」はテレビの正統で模範的な形態だと言えるが、「フィクション」を描いている「再現ドラマ」は視聴者に事実を信じ込ませるという点で弊害がある。
3章と4章が論じているのは、そうしたテレビというメディアと戦争との関係である。ヴェトナム戦争と湾岸戦争はどちらもテレビを通じて政争の映像が家庭にそのまま伝えられたという点で共通している。しかしヴェトナム戦争では検閲がなかったのに対し、湾岸戦争についての番組はアメリカ政府によって管理されていたという。視聴者に考える暇を与えずに番組が繰り返し放送され、視聴者は受け身のままイメージを受容することになったのである。
第二部(5~8章)では『朝鮮・知られざる戦争』という英国のテレビ・ドキュメンタリーの制作に著者が歴史監修者としてかかわったときのエピソードが紹介されながら、客観性が論じられる。著者たちは、朝鮮戦争が生み出される過程の背景に注目して、西洋の記憶とは異なる「知られざる戦争」について、ドキュメンタリーを制作したかったという。米国や英国(西欧)の視点ではなく、世界的な視点からみてバランスのとれたドキュメンタリーである。著者によれば、ある程度満足のいく番組を作ることができ、そのドキュメンタリーは英国で放送された。しかしその同じ番組を、米国では放送できなかったのである。なぜなら、著者たちの視点が米国における「世間的にみて当然とされる視点」とは異なっていたからだ。米国において「バランス」とは視聴者の共通認識と合致することであり、ドキュメンタリーとはそういった「バランス」のとれたものなのである。米国では「知られざる戦争」を放送することはできず、視聴者には「よく知られた戦争」(297頁)でなければならない。結局、英国ではドキュメンタリーを作ることができたが、米国では再現ドラマ(=フィクション)になってしまったのである。
本書(特に最初の2つの章)はまず、テレビ研究についてのメディア論として読むことができる。客観性の基準(幻影なのだけれど)を作り上げるテレビというメディアそのものが、視聴者に対して絶対的な影響力をもつ。「メディアはメッセージである」「社会に催眠術を施してしまうテクノロジーの力は理解しなければならない」と言ったマクルーハンに通じるところがあるように思う(ところでカミングスは本書の中で一か所だけ、「テレビ学者」であるマクルーハンに批判的に言及している(106頁))。他方で「テレビ戦争」とのかねあいでは、本書の内容はジャーナリズム論とも関係があると言えよう。メディア論やジャーナリズム論に関心がある読者にとってはその意味で興味深いのではないだろうか。またすでに述べたように、第二部はそれだけで独立した「ドキュメンタリー制作奮闘記」となっている。これがドキュメンタリー制作の一般的なプロセスなのかはまったく分からないが、そういった読み物として楽しめるかもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示