- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622077046
作品紹介・あらすじ
与太郎、若旦那、粗忽者…落語の国の主人公たちは、なぜこんなにも生き生きとして懐かしいのか?登場人物たちのキャラクターと病理の分析を軸に、古典落語の人間観と物語の力を解き明かす。ひとり語りのパフォーミングアート・落語が生み出す笑いと共感のダイナミズムに迫り、落語家の孤独を考える。観て、聴いて、演るほどまでに落語に魅せられてきた精神分析家による、渾身の落語評論。巻末には立川談春師匠との対談「落語の国の国境をこえて」を収録。
感想・レビュー・書評
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あまりに透徹で、読んでいて危険を感じた。
自分にはまだ早い。
もう少し年を重ねて色んなことに幻滅してから読もうと思う。
以下の抜粋だけでも威力が知れる。(正確な抜粋ではない、記憶からの大意。)
「先生のやっていることは売春婦と同じですね」
「去勢された後、エディプスを生き延びること」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/717094 -
つくづくツマラナイ本だと思う。落語が好きな人、かつ、心理学やら精神分析やらが好きな人…を除いては。
日本語で論理関係を表現するのは結構難しいので、ポイントを整理しておこう。言いたいのは、「落語が好き」∩「精神分析が好き」という積集合を除く、つまりこの積集合の外側にあるすべてのグループの和集合の人にとっては、間違いなくツマラナイ…ということだ。
では、積集合の内側世界の住人にとってはどうなのか?
面倒くさい本である。
「芝浜」の勝っちゃん(昨日の雑談の本なら、「アル中オヤジ」とあだ名をつけるか?)が、簡単にアル中から立ち直れるはずがない…くらいまではウンウンという感じだが、人間として「死んでいる」状態などと言われると、良い加減、理屈にもうんざりしてくることだろう。
が、後半、水仙花談志が死んだ完成す…の件あたりまで行くと、逆に清々しさが湧いてくる。
好きな人にとっては、たまらない一冊である。ぜひ、手に取っていただきたい。
「#落語の国の精神分析」(みすず書房、藤山直樹著)
Day229
https://amzn.to/3gYCij6 -
社会
精神 -
落語が好きな精神分析家が落語について精神分析家として話す本。
「このことが、「落語とは人間の業の肯定である。」と言ったことの意味である。」彼は50代になろうとする頃、この言葉を書いた。現役の落語家がこれほど落語の本質を射抜く言葉を発したことは空前絶後のような気がする。落語は人間の不毛性、反復性、「どうしようもなさ」をまざまざと具現するものなのである。不毛で反復的な人間存在をいとおしみ、面白おかしく、愛情をこめてらわうパフォーミングアートなのである。」
心理学においてもしばしば課題になるのは、現実の自己と理想の自己が異なるなかでの葛藤だと思う。簡単に理想的な人生をあきらめることはできず、だからといって簡単に理想の自己になれるわけではない。そのため、葛藤してしまうのである。しかしながら、それはそれでつらい。変えられるなら変えたいものであるが、変えることができないので、悶々とする。でも「どうしようもない」のである。
笑うしかない、気にしても仕方がない。それが落語のようにも思う。落語が人間の業をあらわして、かつ、それを皆で笑うなら、笑うしかない物語なのである。落語を聞くことで、自分の人生を重く受け止めず、ただの話と受け止めることができるかもしれない。
「そうした文化的な媒介項を導入することが私たちが何とか「人間の自然」を取り扱い可能にするひとつの方法なのである。そうした文化の枠組みがなければ、「人間の自然」は私たちを圧倒し、その結果として私たちは現実から大きく逸れることで安全を確報するかしない。私たちは気が狂うのである。」
「職業柄経験するのは、知的障害や精神病をもつ人たちが私たちがにもたらす異物感、了解不能性、ある種の不安や困難の感覚は想像以上のものだということである。その今日ごを否認してごまかしていてはいい臨床はできない。嘘になってしまうからである。もちろんそれに圧倒されてもダメである。私たちの仕事はそのあいだで生き続けることである。そこで出会う可能性アあるのは、ほんとうのところ言葉で表すことのできない、むき出しの現実なのであり、「考えられない」ものである。それはビオンという分析家が「名付けようのない恐怖」と読んだものであり、それは私にとって..」
引用がめんどくさい笑
「自然でいること」が自然であるはずである。しかし、例えば精神病の患者に会ったらどのような感情を抱くだろうか。それは、了解不能感とともに、庇護すべき感情を抱くだろうか。同時に蔑みや嘲りもあるのだろうか。私たちはそのような感情とを統合しながら生きていくわけだが、そのような複雑な体験を通して私たちは人を愛しているわけである。それなくして、単に道徳的な考えに基づいて生きていくことは難しい。私たち、蔑みと愛の葛藤の中で生きていく...のかな。
などなどいろいろ話が出てきたわけだけど、この本で最も感心したのは、著者はどこまでいっても精神分析家なんだと感じたことである。落語の話を聞いていても、別に分析したいわけではないが、分析してしまう。そこには「精神分析家」としての性があるように感じる。その道を生きていく以上、彼の眼には世界は基本的に精神分析家としての世界が見えているんじゃないだろうか。
職業を選ぶということは、どんなメガネで社会を見ていくかにつながる。もちろん、その職業を選んだ時点で、その人が見たいメガネで社会を見いるんだろう。
しかしながら、最近人間関係の仕事を選んだからこそ、富に思うことがある。人の人生が自分の仕事で人を見るメガネと完全に無関係に見ることが難しくなっている。映画や小説を見ても、無意識に仕事のメガネが入ってくる。仕事を選ぶということは、やはり社会のメガネを選ぶことでもあるんだと感じる。だからこそ、見たいメガネの仕事を選ぶたい。
これは人間関係の仕事だからこそ、影響がつ要因だと思う。推測だが、商社の人間であれば、ニュースの流れを商社マンとしてみることはあっても、人間関係をそこまで仕事のメガネで見ないだろう。人間関係の仕事につくからこそ、その仕事は、その人の人生に強く影響していくんだろうと思う。そんなことを考えた一冊。 -
精神分析家が語る落語論。久々に面白い本を読んだと言う印象。一気に読み切った。
落語家の孤独と分析家の孤独。どちらも、その「こころを凍らせるような孤独の中で満足な仕事ができるためには、ある文化を内在化して、それに内側からしっかりと抱えられる必要がある」。そのための長い徒弟制度の様な修行が必要なことが共通している。この孤独については巻末での談春師匠との対談で師匠は一旦は否定している。あとで否認に言い換えているが。
「落語家の自己は互いに他者性を帯びた何人もの他者によって占められ、分裂する」「優れた落語家のパフォーマンスには、この他者性の維持による生きた対話の運動の心地よさが不可欠である」そして、「人間が本質的に分裂していることこそ、精神分析の基本的想定」であり、「自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって、それらの対話と交流のなかにひとまとまりの私というある種の錯覚が形成される」
「分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている人間をみることに、何か希望のようなものを体験するのである」と。
以上の基本理解の元、様々な根多を精神分析の観点から人間理解を行い、談志師匠を中心とした落語家の生き方についての論考が進む。 -
落語の登場人物が精神分析的に語られている。談志論がとても面白い。
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精神分析家であり、素人落語家でもある著者による落語の登場人物とネタの精神分析を通して語る落語評論。「らくだ」の屑やの狂気や「よかちょろ」の若旦那のエディプス・コンプレックス等、精神分析による数々の指摘は興味深い。日本に30人程度しかいないという精神分析家の仕事ぶりも窺えてこちらも興味深い。話題の中心に常に談志がいる、立川談春との対談も面白い。
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ずっと読みたかった本でした。読み終えて表紙を改めて、ああいいな、と談春さんの背中を見つめました。柳さんの写真はいいなあ。
精神分析家の人が、落語の国をその視点から解説、解剖していておもしろかったです。「らくだ」はなぜおもしろいのか、死体の恐怖、「明烏」の若旦那のこと、ただ聞いているときに無自覚にこういうことを感じているのかなあと思いました。万能的な母親、の話はもう少しどこかで読んでみたくなりました。
談春さんとの対談も好きです。