赦すこと: 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの (ポイエーシス叢書 63)
- 未来社 (2015年7月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (140ページ)
- / ISBN・EAN: 9784624932633
作品紹介・あらすじ
現代最高の哲学者ジャック・デリダの晩年の問題系のひとつでもあった〈赦し〉の可能性 = 不可能性のアポリアを緻密に展開した論考。現代世界のユダヤ教・キリスト教・イスラーム教をめぐる錯綜する紛争やイデオロギーの争いのなかで、ジャンケレヴィッチの議論やハイデガーのナチズム加担の問題を軸に、赦し得ない罪をそれでも赦し得るのかという究極の問いを論じ抜く。訳者の力作解説付き。
感想・レビュー・書評
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哲学
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アーレントは『人間の条件』の中で、赦しの限界について次のように書いている。
“極端な犯罪と意図的な悪には、これ〔=赦しの義務〕は適用されない”(p375)
最初にこれを読んだときに違和感を覚えたのは、「では“極端な犯罪”の被害者(とその遺族)はどのように救いを求めればよいのか?」という疑問からだった。
アーレントは
“……赦しは復讐の対極に立つ。……復讐を続けた場合、行為者と受難者は共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ、この活動過程は、赦しがなければけっして終わることはない……”(pp376-377)
とも書いているが、 “極端な犯罪” の “行為者と受難者” が、復讐の無限の連鎖から自由になるにはどうすればよいのか/どうすべきか、その解決策を示していない。
デリダを読めば、その答えが見つかるかもしれないと思って本書を手に取った。
結果、自分の甘さを思い知らされた。「赦し」とは、そんなに簡単なものではなかった。「赦し」に安易に救いを求めてはいけなかった。
本書の読み解くに当たっては、「憎しみの連鎖を断ち切るため」とか「被害者や遺族の心の救いのため」などという目的論的思考から脱却しなければならない。そういう合目的的=打算的=エコノミー的な「赦し」は、政治的言明としてはアリかもしれないが、デリダに言わせれば本当の意味での赦しではない。
本書でデリダが吟味するのは、ジャンケレヴィッチというフランスの哲学者の赦し論である。ジャンケレヴィッチは、ナチスドイツの犯罪を非難し、それが赦しえないものであるとして、その理由を次のように述べている。
・赦しが授けられるのは、それが乞われるときのみである。
・赦しは人間的な尺度にとどまるべきものであり、一線を越えた根源悪を許すことはできない。
後者はアーレントと同じことを言っている。デリダは上記2命題を “ジャンケレヴィッチの公理” と呼び、これに異を唱えている。つまり、通常の感覚では決して赦すことができないような最悪の犯罪を行った者に対しても、またその者が赦しを乞う姿勢を見せないときでさえも、授けられる赦しこそが真の赦しなのだ、と。
「赦しを授けよ」という命令は、“誇張法的な倫理学の論理”、つまり、一つの例外もなく適用することを命じる正義の法、ベンヤミン的に言うなら「神的暴力」である。真の赦しは、無条件に、無目的的に、なされなければならない、と。重大な犯罪の被害者やその遺族は、絶対に赦さない!と決意したとしても、「赦しを授けよ」という命令から逃れることはできない。
なんと無慈悲なことか。真の「赦し」に救済など求めてはいけなかったのである。デリダは次のようにも書いている。
“赦しがあるのはただ、……非-赦し得るものによってのみ……赦しは、可能なるものとしては存在しない”(p83)
では、デリダ的な「赦し」はいまだかつて地上に到来したことはなかったか?
……そうとは思わない。かのシャルリ・エブド誌の “Tout est pardonné” は、デリダが意味するところの、真の “赦し” ――無条件の、非-エコノミー的な赦しだったのではないかと思い至り、あのイラストを描いたLuz氏の決意に、改めて尊敬の念を覚える次第である。 -
貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784624932633 -
本文読了。
解説p102まで読んで、図書館貸し出し延長ができず返却。20150905