自由学校の設計: きのくに子どもの村の生活と学習

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  • 黎明書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784654015993

感想・レビュー・書評

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  • 途中までしか読めなかったけど示唆深い。また読みたい

  • 1992年、和歌山県橋本市に開校した「きのくに子どもの村学園」学園長がその教育理念・実践等を叙述したもの。管理教育のアンチテーゼたる同学園は、ニール(スコットランド)のサマーヒルスクールを参照しつつ、デューイの教育思想をふんだんに取り入れた自由学校だ。著者の教育方針・思想を体現化したのが、基礎学習を最低限とする一方、「プロジェクト」と呼ばれる体験学習を中心に添えた点だ。個人的には著者の見解と異なる点も多くあるが、かかる自由学校を、学校法人として設立させて存続させてきた点には素直に敬意を表したい。

  • きんちゃんから頂いた本。

    きのくにの土台となったニイルのサマーヒルスクールには、非常に興味を持っていて、すごく好きだったのだけれど、きのくにについてはそこまで学んだことがなかったので、非常に勉強になりました。

    きのくにを紹介する人が必ずといっていいほど、『ニイルとディーイ』という理由がよくわかりました。

    つまり、きのくにはプロジェクトで成り立ってるってことです。
    (本の構成上、そういう構成になってしまったという面もあるのだろうとは思いますが)

    学園長の堀さんも、「自由な学校とは、子どもが選ぶことのできるプロジェクトが、無数にある学校だ」と本書の中で述べています。

    もちろん、子どもがプロジェクトに参加しない権利も認められているようですが、ちょっとやりすぎのような気がしています。

    僕は、実際にきのくにの子どもたちに会ったことがない(先生には会ったことがありますが)ので、何ともいえませんが。



    まぁ、それでも、『既存の学校はおかしい』、『もっと違った教育があっていい』って趣旨には大いに賛同しているわけで、きのくににはこれからも、がんばっていってもらいたいと思っています。




    まとまりませんが、以下、メモです。


    「頭の筋がピンと張ってしまうぐらい」悩んで自分で進路をきめ、そのための準備をしてもらいたい。
    ほとんどの子どもが、自分で決め自分でやっていく力を秘めていると確信している。


    きのくににないもの
    1、学年がない。クラスは完全に縦割り編成。
    2、時間割に普通の教科の名前がない。「プロジェクト」という名の体験学習ばかり。
    3、宿題がない。チャイムがない。試験がない。普通の通知簿もない。
    4、「先生」と呼ばれる大人がいない。
    5、大人の給料に差がない。
    6、廊下がない。
    7、学校と地域社会との壁がない。
    8、堅苦しい儀式がない。
    9、校長室がない。


    学校は楽しくなければならない。
    楽しくなければ学校ではない。
    幸福な子どもは成長する。
    そして、成長している子どもは幸福である。


    「自分のことは自分で、自分たちのことは自分たちで」がモットー


    大人は気長に子どもたちの話し合いに付き合う。


    教育も学校も変わらなければならないし、変わることができる。
    現代の子どもたちの心の奥深くから、自分を卑下したり、憎んだりする気持ちを取り去り、生きる喜びを存分に味わえるような学校にしなくてはいけない。


    授業は1コマ90分。


    20分の休憩。


    毎日、授業が終わるとおやつが出る。


    自由学校とは言うのは、子どもがいろいろなことを決める学校。
    つまり、ミーティングの多い学校。


    小学校での寮生活は、親に問題がなければ大丈夫。
    子どもを放すことに不安を感じていたり、子どもへの支配欲が強かったりすると、子どものほうが寮生活への適応に時間がかかることが多い。


    どんなに美辞麗句を尽くして「おまえを愛している」というメッセージを送っても、子どもは親の無意識の不安や疑いを肌で感じ取っているもの。

    通学の子より、寮の子の方が人間関係での成長は早い。


    大切なのは、大人が結論を押し付けたり、罰則を作ったりすることではない。
    子どもたちが、問題について深く意識するようになることだ。

    自由学校での話し合いは、時間をかけるところに値打ちがある。


    食生活は住生活や衣生活と並んで、いや、それ以上に、体験学習のテーマとしてふさわしい。
    多様な学習への展開の可能性をもっとも多く秘めている。


    「教科書の内容の記憶量」という尺度で計るなら、「よそより高い」とはいえないかもしれない。
    しかし、学ぶことへの好奇心や学び方では負けていない。


    サマーヒルの特徴
    ・授業はあるが、出る出ないの自由は完全に子どもの意思に任せられている。
    ・校則の改廃やもめごとの処理は、全校集会で決められる。
    集会には大人と子どもが対等の一票を持って参加する。
    ・職員の間にも上下関係がなく、全員が同一給料である。


    サマーヒルの大人は子どもの側に立っている。


    活動が充実し子どもたちが満足した時ほど、後片付けが早く終わる。


    通学25%、週末帰宅60%、長期滞在15%

    長期滞在の子も一ヶ月に一度は帰宅する。


    集会で落ち着いていられない子どもがあっても、「落ち着きがない」とは書かない。
    「以前よりも落ち着きが出てきた」と書く。

    九九の応用問題で四苦八苦している子がいたら、「九九の応用でつまずいている」とは書かない。
    「九九の応用問題に熱心に取り組んでいる」と書く。

    子どもの否定的な面について親に報告しても、良い結果が生まれることはめったにないからだ。


    伝統的な意味での自由教育とは、理性と徳性を備えた「自由人」を育てる教養教育である。


    ニイルは「自由な子ども」という明確な理想を抱いていた。


    子どもの自由が多ければ多いほど、教師の側には周到な準備が要求される。


    現代的な意味おける自由学校の姿
    子どもが規制の価値観に拘束されずに、自分自身の生き方やものの見方をきずくのを援助しようとする学校である。
    大人による直接的な統制をできるだけ減らし、子ども自身の決定や選択や実験を何より大切にする学校。


    不自由な子どもとは、まず感情面、とくに無意識の領域に不安、緊張、罪の意識、自己嫌悪などを秘めた子ども。
    自己の肯定感が弱く、つねに外部からの評価を気にして生きている。


    日本の先生は、勉強を教えれば、子どもは頭がよくなると思っている。


    「協力」
    「力を合わせる方が互いに快適で、しかも得だ」という実感が大切。
    そのような実感も体験もなく、ただ協力という徳目を押し付けられても、民主主義で求められるような実際的な社会性は育ちにくい。
    しかも、子どもたちは受験戦争という名の孤独な競争に追い立てられている。


    過酷な受験戦争を勝ち抜くには、周りの人へのこまやかな関心などはむしろ障害になるのかもしれない。


    不自由な子どもとは、内面に不安や自己憎悪を抱えた子ども、知識の量は多くても自分で考えられない子ども、そして、大人から道徳を押し付けられ、思いやりや実際的な共に生きるための知恵の乏しい子どもである。
    自由な子どもとは、感情的に解放され、自分で考える態度を持ち、共同生活の中で民主的な行動の術を学ぶ子どもである。


    自由学校とは、感情的にも知的にも、人間関係でも自由な子どもを目指す学校である。


    いちばん大切なのは、子どもたちの内心の「本当はこうありたい」という願いに耳を傾けることだ。
    子どもたちは、抑圧しないと生きていけない。
    大人たちは、「このままの君ではだめ」という言葉やまなざしをつつしみ、「今の君でいいのだよ」というメッセージを与え続けなければならない。


    子どもたちの心に「自分が好き」という感情を取り戻すことこそ、現代教育の様々な問題を解決するための共通目標でなければならない。

    今いちばん急がれるのは、子どもたちが、「僕は自分が好きだ」とか「生きるというのは、こんなすばらしいことだ」という実感を持って自発的に生きる場としての学校を作ることだ。


    今日の学校では、主人公は子どもではない。教師である。
    子どもが興味を持って自ら学ぶというより、あらかじめ教師によって用意された内容を、全員が一斉に学ばせられる。


    子どもたちは、教科書の中身の記憶量というひとつの尺度で評価され、序列化され、選別される。


    漢字や熟語の暗記、あるいは名作の鑑賞よりも、もっと大事にしないといけないのは、ことば(文字とは限らない)を使って表現したり交流したりする喜び。


    すべての子どもに同じ教材を与え、教師の話が理解できなくても、じっと静かに座っていることを強制する施設。それは、学びの場というよりは、むしろ、「昼間子ども強制収容所」とでも呼んだ方がよい。


    たいていの学校の三原則
    1、教師中心主義
    2、画一主義
    3、書物中心主義


    学校に関して広く受け入れられている常識を検討することから始めた。

    <常識その1>教育とは学校へ行くこと
    人格の完成は学校でしかできないなどと考える人はいないだろう。少なくとも、今ある姿のままの学校でなければならない、ということはないはずだ。
    もっと違った形のさまざまな人格形成の場があってもいい。

    <常識その2>学校では先生と児童・生徒がいる。先生は教え、児童と生徒は教わる。
    <常識その3>学習とは、教科書の中身を習得することである。そして、国語、算数、理科、社会、(中学校ではさらに英語)が主要教科である。
    主要教科という言葉自体が、どこかおかしい。そのことに気付かないと、いつまでたっても、「よい学校とは、よい上級学校に多くの生徒を入学させる学校である」という暗黙の了解が幅を利かせるだろう。
    <常識その4>子どもは、年齢によってグルーピングされる。
    <常識その5>すべての子どもに同じことを教えるのが民主教育である。
    <常識その6>1つのクラスに一人の担任が配置される。クラスの大きさは、ほぼ同じでなければならない。
    <常識その7>学校教育は教師が行う。そして、教師は教員免許を持たなければならない。
    子どももまた、すばらしい教師になりうる。
    <常識その8>年長の教師は高い給料をもらう。
    <常識その9>校舎は主として、同じ大きさの複数の教室と長い廊下でできている。
    <常識その10>教師の権威は、教師という地位に付託されている。
    「教師は教師であるがゆえに偉い」という固定観念は、今も広くゆきわたっている。
    本当の教師の権威は、子どもをより幸福にし、成長させる力を持つ人に対して、子どものほうで実感するもの。




    サマーヒルの実態

    好調が生徒を誘って隣家へ泥棒へ入る。
    破壊癖のある子と共に窓ガラスを割る。
    盗癖のある子に褒美を与える。

    これらは、内面に問題のある子への心理治療として試みられた。

    「人がすべての因習と迷信と偽善から解放されたとき、そのとき初めて教育のある人間になったといえる」ニイル

    「サマーヒルを模倣してはならない」ニイル




    生活そのものが学習。




    「今日の教育は、過去のものを蓄積することである。これは教育ではない。学習である。今日の教育はそもそも知的である。創造するというよりも、獲得することである」ニイル


    不自由な教育を受ければ、人生を存分に生き抜くことはできない。





    新しいタイプの学校

    自己決定・・・子どもの意思を尊重

    個性尊重・・・体系化された教材よりも、一人一人の子どもの心理面に目を向け、これを尊重する。



    「自分自身の生き方をする自由」
    「そのためには、まず第一に、幼少期から蓄積された権威に対する恐怖から子どもを自由にしなくてはいけない」ニイル




    子ども自身の選択、発想、判断などを尊重するからといって、教師の指導性を放棄するわけではない。
    教師は、子どもの現在の姿をよく理解した上で、彼の知的興味を刺激し、熱中して取り組ませ、結果として確かな力を伸ばす活動や環境を豊富に、そして周到に準備しなければならない。


    子どもを伸ばすのは、様々な活動や環境である。

    教師の指導性は間接的に発揮される。


    知的興味や意欲をそそる活動の用意されていない環境で、「何でも好きなことをしてよい」といわれた子どもは、かえって不自由を感じる。


    真の自由学校とは、魅力ある活動がふんだんにある学校である。


    教師は、子どもたちに成長の実感と喜びを味わわせる活動を豊富に用意する。
    子どもたちは、相手が教師だから従うのではない。彼が、自分たち子どもの生活を充実させる力を持ち、また実際に充実させてくれると知っているから彼を信頼し、彼が出す必要最低限の要求や助言を受け入れるのである。


    「自由には責任が伴う」と多くの大人は言う。
    「自由にしていいよ。だけど責任は自分で取るんだよ」と。
    しかし、「自由には責任が伴う」という言葉は、自発性を育てるどころか、むしろ脅しになっている。
    「子どもを自由にするのは大事だ、しかし、そこには責任が・・・」といいたくなる人は、早めに自由な学校にあこがれるのは諦めたほうがよい」

    「自由にしていいよ。責任は大人が取ってあげるから」といわなくてはならない。


    人と違うというのは、本当は誇りにしてよいこと。


    「一人一人がみんなと自由に」

    「多様化の保障された個別化」


    「自由とは自分に必要なだけの時間をとることだ」パーカスト


    「人生について究極的な回答が見出せない私に、子どもを教育するなどということが許されるだろうか。
    私にできるのは、子どもの傍らに立ち、子どもが内から発達する自由を与えることだけである。
    私には、子どもたちがどこに向かって進んで行くのかわからない。
    だからこそ、子どもたちの歩みを導こうとすべきではないと考える。
    権威を捨てよ、という私の持論の究極的な理由もそこにある」ニイル



    「自由になるというのは、孤独が増すことでもある」E・フロム


    現代は、子どもたちにとって、自由な人間へと育ちにくい時代。


    「為すことによって学ぶ」とは、「問題の感知→観察→仮説の設定→仮説の遂行→行動による検証」といった手順を踏んだ科学的な体験。



    自己決定、個性尊重、体験学習の三原則

    自由学校とは、子どもにとって、したいことがあり過ぎて困るような学校。

    自己決定には自己評価が伴わなくてはいけない。



    公文式の教室は、「個別化された大人中心主義の画一主義教育」



    「外界に結び付けられているへその緒を完全に断ち切っていない人に自由はない」E・フロム


    「子どもの心から自主性を奪い取るいちばん有効な方法は、罪の意識を持たせること」E・フロム

    罪の意識とは、自責の念、自己否定感、あせりなど。


    「親や大人に反抗する子どもほど、自発性が順調に発達している『良い子』である」平井信義さん


    私たちの考える教育の目標を、子どもの感情面に即して言えば、子どもの心から自己否定感や自己憎悪を取り除き、彼らがたくましく自由への道を歩むのを見守り、援助すると同時に、心理的に受容する用意ができていることである。


    どんなに多くの知識を暗記したところで、知的に自由とはいえない。
    既成のものの見方をいったん離れることができない限り、あるいは時には距離を置いて批判的に見ようとしないうちは、たんなる「不自由な物知り」の域を出ない。


    自立を妨げる知的なへその緒の一つに、世論や常識がある。
    激しく変化し、情報が溢れ、世界観も多様化するこれからの社会において、いちばん大事なのはなんだろうか。
    それは、世論や常識にあやつられて右往左往しないで、自分自身をしっかりと維持し、みずからの判断を大切にする生き方ではないだろうか。
    そしてもう1つ、私たちは、自分自身のものの見方からも自由でなくてはいけない。
    それまでのものの見方に縛られていては、自由に考えることはできないのだ。


    「一週間分の教科学習よりも、週1回の自治集会のほうが価値がある」

    自治集会の特徴
    1、子どもたちが、自分の意見をはっきりと言い合う。
    2、意見をたたかわせた後、具体的で有効と思われる合意に到達する。


    <自由な子ども>
    1、感情の自由
      ?無意識面・・・緊張、不安、自己嫌悪などから解放され、活き活きとしていて屈託がない。
      ?意識面(主体性)・・・自己を意識し、自己肯定感を持って生きる。
    2、知性の自由
      ?思考態度の面(創造性)・・・繊細な感覚と旺盛な好奇心を持ち、小さな科学者として考えようとする。
      ?情報の面(知的技術)・・・基礎技術(3R’s)などを持ち合わせ、情報を収集する方法を身につけている。
    3、社会的な自由
      ?個人生活の面(自己主張)・・・自分自身であることに喜びを感じ、自己主張ができる。
      ?社会生活の面(共同生活)・・・ほかの人々と触れ合う喜びを味わい、共に生きるための知恵を身につけている。




    プロジェクトについて
    テーマは子どもたち自身が選ぶ。
    プロジェクト活動は、それ自体が目的。
    自分の頭と手と体を使って、自らの生活を豊かにする喜びと、成長する実感と、その過程での学ぶ楽しさと、仲間と触れ合う喜びを存分に味わう。



    特に修学旅行では、小学校でも中学校でも、行き先も旅程も費用も子どもたちが決め、自分たちで予約も取る。


    食事はしつけの場ではない。
    楽しみと社交の場である。


    夜寝るのが遅くて、成長が妨げられたり疲れたりしても、それは厳密にはその個人の問題。
    しかし、他人の眠りを妨げるのは迷惑行為である。
    その上、寮母さんの「安心して自室に戻る権利」を奪うのもよくない。


    問題のある子を叱る時、その子を呼びつけて叱るのではなく、全校集会でみんなに話をする。それも注意するというよりも、村の人たちがこの学園にどれだけ力を貸してくれたか、といったことを話すようにしている。


    「きのくにではすべてが生活科」


    失敗するのは、子どもにとって基本的人権の1つ。



    少しむずかしめの仕事のほうが、子どもの心を捉える。

    「しんどいけれど、おもしろい」あるいは、「しんどいからおもしろい」と子どもたちが感じる活動にしたい。

    いちばん大事にしたいのは、大きな仕事を成し遂げたという満足感。


    大事なのは九九の仕組みが感覚的にわかること。
    丸暗記できることではない。


    「英語は頭で覚えてもダメ。舌と唇で覚えよう」


    学園が少ない子どもの数でやっていけるいちばん大きな要因は、ミキハウスからの援助。
    「偏差値教育で育った子は、これからの社会には要らない。個性のきらりと光った子を育てて欲しい」というのが、木村社長の口癖。


    子どもが自分で学べる教材さえきちんと用意されていれば、必要な学力はつけられる。
    ただし、それには1つの条件が要る。
    それは、子どもが、「勉強しなければならない」という強迫観念から解放されていることだ。

    特に、学力が心配でたまらない親が、土曜や日曜に塾へ行かせたり、ドリルをさせたりすると、学校では基礎学習や強化学習を極端に嫌がることになる。


    オールグラウンドな受験学力で選別する今のシステムは、子どもの成長を妨げている。

    これから世界で求められるのは、平均45点の人間ではない。
    ほかは30点でも、1つは100点に近いものを持つ人材なのだ。


    学校に対する親の不満と、学校での子どもの調子は反比例する。


    親が子どもの面前で、あるいは陰で学校の悪口を言っているのに、どうして子どもが学校で幸せに、そして活発に過ごすことができるだろうか。


    「親の内心の自己憎悪と不満は、学校に対する不満と比例する。そして、学校での子どもの調子は、学校に対する親の不満と反比例する」ニイル


    「“自由”という漢字は読めても、それを理解するのに2年もかかってしまうなんて、想像もしていませんでした。・・・でも、今は何が真実なのか、はっきり見えるようになり、すっかり楽になりました。・・・きのくにほど、我慢強くて、愛情深くて、信念を持っている人たちがいるところはないと思います」あるお母さんからの手紙


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