- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784753102860
作品紹介・あらすじ
〈利益〉を絶対視して市場の覇権を招いた「経済的モデル」に異を唱え、話題書『経済成長なき社会発展は可能か』で「脱成長」を主張したS・ラトゥーシュら気鋭の社会科学者たちが〈贈与論〉のモースの名の下に終結した。この新しい科学と政治への道を開いた革新運動の主幹をつとめるアラン・カイエによる画期的宣言書。
感想・レビュー・書評
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友人から薦められて読み始めましたが、自分も関心のある内容でした。
本書は、「反功利主義」を掲げる雑誌『MAUSS紀要』の思想の中核を、簡潔にまとめた一冊です。前半で彼らが批判する「功利主義」の歴史的変遷が描かれ、中盤でその限界が指摘され、後半で「反功利主義」の方向性が検討されるという形式になっています。
本書では、功利主義を「人間主体は快と苦の計算と言う利己的な論理によって、さらには自らの利益によって統御され、またそうなっているのは良いことである」と考える思想として定義しています。ここで、一般的な功利主義批判とは異なり、功利主義をかなり広範囲に渡って見られた思考様式として捉えている点に本書の特徴があります。
そして、功利主義と不可分のものとして「利益」を中心に据える経済学が置かれ、その影響力が他分野にまで及んでいった経緯が記されていきます。この辺りは、政治学で言えば、合理的選択論への信頼の高まりとして実感できる部分ではないでしょうか。
続いて、功利的理性の限界が考察される段においては、「理性」の前提が「1次元的な計算する主体」に置かれていることに対する批判的考察が展開されていきます。
ここで示される理性の限界は、「合理的な主体の『計算』が及ぶ範囲の不明確さ」として要約できるように思います。例えば、「完全に合理的な主体は合理的であることを選ぶだろうか」という問いかけが、ゲーム理論で見られるようなナッシュ均衡の実現に道徳性が必要となる状況の例示などを用いて、完全に合理的な主体が非合理な決定を行うような逆説として指摘されていきます。そして、利己性も利他性も「利己的な利益」を基準に選択されるものとして捉える「一次元的な主体」の前提に対して、利益に還元不可能な複数の中心を持つ主体の様相が筆者によって描かれていきます。
一方で、功利主義が以上のようなメタレベルの議論を展開すること自体が否定されているわけではなく、筆者の批判の矛先は他の回路が事実上存在していないことに向けられています。この点は本書でも繰り返し言及されているように、重要な留保です。
最後に、終章では「反功利主義」が展開されていきます。
ここではまず、脱権力という共通目標を持っているように見える「民主主義」と「功利的理性」が必ずしも結びつくものではないことが、非西洋的な民主主義の考察によって示されます。そして、民主主義に不可欠な要素として、「贈与」を中心とした社会的関係の上に成り立つ「共同体」の存在が掘り起こされ、経済的なものに先行するべきものとして対置されていきます。
更に、本書の考察はここから、私企業等への「道徳的機関」の設置、個人のライフスタイルにおける「余暇」の拡張、それを実現する「市民所得」の支給などの解決策の提案にまで及んでいきます。
以上が本書の内容になりますが、自分でも理解できなかった部分や説得されなかった部分が多々あるので、また思い出したときに読み進めたいと思います。
知的好奇心旺盛な人や暇な人にお薦めです。詳細をみるコメント0件をすべて表示