敵の顔: 憎悪と戦争の心理学 (パルマケイア叢書 2)

  • 柏書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784760111190

作品紹介・あらすじ

敵意の幻想に楔を打ち込む、戦争心理の図像学。古今東西の《敵の顔》に隠されたレトリックを読み解くことからはじまる、無類のヴィジュアル・サイコロジー。恒久平和への意味に支えられた柔軟な構想が満載。

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  • まさに”敵の顔”。
    前半は戦争時、もしくは戦争に向かう時か、敵をどう描き、戦争(殺戮)の対象としてきたかがさまざまなプロパガンダポスターとともに、描かれている。西洋的な宗教や神々に絡めた例え話が多いが、訳者の解説によると著者は宗教学を修めていたのか。。ただそこでは日本のプロパガンダでは、敵の顔を描いたものが見つからなかったともあり。まあビジュアルは手段の一つでしかないので、敵の概念をどう報道し、一般市民の中で敵をイメージさせていたかという観点で見れば通じるものが多いかもしれない。

    中盤以降は、憎悪の正体を探ろうとするが、宗教的な例え話が多く出てくることもあり、あまりすっと内容が入ってこなかった。最後に憎悪をどう起こさせないかといった趣旨で著者なりの見解が述べられているが、多かれ少なかれ現代においてはなんらかの形で実践されている内容の模様。

    しかしかなり辛辣に人間を観察し、帰結としては各々、個々人の中の悪魔をどう処理するかということになっている。

    P.13
    初めに敵ありき。武器がくる前にイメージがある。われわれは人を殺したいと「思い」、それからいざ実際に相手を殺すことのできる闘斧や弾道ミサイルを発明するものだ。プロパガンダはテクノロジーに専攻する。
    左右どちらの政治家たちも肝心の問題は背後に置きざりにしたままだ。なんとか武器を違うように都合しさえすれば、敵は消滅するものと彼らは思っている。保守派は、こちらがより大きくよりよい武器をもてば敵は恐れをなして襟を正すと信じているし、リベラル派は、武器をより小さく少なくすれば敵は友好的になると信じている。

    P.20
    戦争が一万三〇〇〇年以上は昔のものではないという絶好の証明がある。スー・マンスフィールドによれば、旧石器時代以降の人類最古の遺物から狩猟、芸術、神話、儀式があったことは証明されているが、戦闘している人間の絵は存在しない。
    戦争は、ひとたび発明されるや、ほぼ万国共通の慣例となった。しかし、敵をつくることと戦争は生物学的必然というおyりむしろ社会的創造であるという一種の望みに十分決定的な論拠を与える〇倍もある。ホビ族、タサダイ族、ムブティ・ピグミー、カラハリのクン・ブッシュマン、コッパー・エスキモー、アマン族などのように温和な人々は、組織的暴力も、同族を敵から守るための心理的機構も戦士階級もなしに、人間が洗練された文化を創造しえるものだということを示してくれる。ジェフリー・ゴーラーによれば、
    こうした平和社会に共通の最も重要な特徴は、彼らが皆、飲み食いしたりせっくすしたり、笑ったりといった具体的な肉体的快楽を高らかに謳歌しており、男女の性格の理念的区別をほとんどつけず、特に勇敢さとか攻撃的男らしらの理想などもってはいない、ということである。彼らには見習うべき英雄も殉職者もなければ、軽蔑すべき卑怯者も裏切り者もいない。彼らの宗教的生活には意味ある擬人化された神も悪魔も存在しない。幸福で勤勉で生産的な日々の暮らしは、誰もが手の届く範囲にある。

    P.21
    悲しいことに、部族や国民の大多数は、ある程度、計画的に敵をつくることによって、社会的連帯感と集団への帰属意識を得ている。多くの民族の共同体アイデンティティは、世界を基本的な敵対関係に分割することによっている。つまり、
    われら 対 やつら
    仲間  対 よそ者
    同族  対 敵

    P.31
    戦争行為の目的は敵を撃破または殺傷することだ。しかし、この敵とは誰か。戦争に関する研究のほとんどすべてが、敵については遠回しにのみ言及する。この件に関しては奇妙な沈黙が、政治的軍事的考察、また一般的考察を支配している。われわれが敵について明確に考えたがらないことは、無意識の陰謀なのである。われわれは故意に特徴をぼやかし、いまだもって敵に顔はないと力説する。なぜなら、われわれは自分がしていることに目をつぶってのみ、戦争の恐怖を永続化させ、創造もできない惨事の張本人となることができるからである。伝統的にわれわれは、こうした思考停止の練習を続けてきている。それはわれわれが暴力をふるう相手の非人間化したステレオタイプを創り上げ、「やつら」を打ちのめすに用いる武器、戦略、戦術を決定するわれわれの合法的思考を保持することによって、行われる。

    P.32
    原則として、人間は他の人間を殺さないもんだ。そこで戦争行為や大量虐殺に入る前に、まず「排除」したい相手を非人間化する。(中略)敵意に満ちた想像力は、他者がわれわれと同類であると認識する自然な傾向を組織的に破壊する。敵対人(ホモ・ホステイリス)が憎しみやプロパガンダという限定された目的で想像力を無理に使うことで、想像力は損なわれる。(中略)プロパガンダの目的は、思考を麻痺させること、つまり識別力を妨げることであり、また個々人が大衆として振る舞うように条件づけることである。

    P.34
    西欧の国々がアジアに対して戦争に乗りだす場合、たいていアジア人を顔のない群れとして描写する。第二次世界大戦中に制作されたあるアメリカ陸軍の映画では、日本兵は「同じ一個のネガから起こされた写真印刷のように」表現されている。欧米人はアジア人を、自分たちとは似ても似つかぬものとして描写するのが常であったため、その命の価値も低いものとされてきた。

    P.40(アヤトラ・ホメニイの演説:一九八三年十二月十二日ー預言者モハメッド生誕祝賀会において)
    「もし、異教徒に地球を堕落させる役割を続けることを許しておくなら、彼の道徳的苦痛はいや増すばかりにろう。もしこの異教徒を殺し、彼が誤った行為を起こすことを止めさせるならば、彼の死は彼自身にとっても天恵となろう。というのは、もし一教徒が生き長らえば、ますます堕落するばかりだからだ。これは全能の神が命ずる、一種の外科手術なのである。

    P.46
    敵対人(ホモ・ホステイリス)が権力を掌握している戦争国家では、戦士たちは新たな祭司階級となる。近代におちては、シャーマンー神に関する深遠な知識で徴候を読み解き、神の側の正義につくのに必要な行動について部族に助言する聖なる人ーの役割は、CIA、KGBなどの情報機関によって奪われている。

    P.55
    今日、国民が戦争に突入する場合、プロパガンダは通常、敵対国の政府や指導者とその国民を区別する。

    P.63
    アムネスティ・インターナショナルは、ありあまるほどの近代サディズムの恐ろしい歴史を詳細に報道している。それによれば、戦時もしくは政治的危機において、ほとんどの国民は残忍にも好き勝手をおっぱじめる。拷問や残虐行為と無縁な国民国家はないのだ。
    敵を拷問者とみなすプロパガンダの戦術は、一連の公けにされない仮定に基づいている。それは自分の暴力行為を是認し、他人の場合は非合法化するための仮定である。
    1.敵は拷問し、残虐行為を犯し、殺人をする。なぜなら彼は殺人を楽しむサディストだからである。
    2.われわれは、敵によって強いられた場合にのみ、局地的あるいは戦略的な暴力を用いる。
    3.殺人は、それを楽しまない限りにおいて、また清潔になされた場合においては、正当化される。ー都合のよいことに、爆撃手や大砲の照準距離からは相手も見えないし、戦闘員と非戦闘員との道徳的区別などできない。たとえば、ヴェトナムの無差別砲撃地帯の小村落への集中爆撃は合法であったが、ミライの住民を面と向かって虐殺したのは「戦争犯罪」だった。

    P.70
    非人間化の尺度は、劣等人間の野蛮人という中間点から非人間まで、つまり未開人から動物に至るまである。「資本主義の走狗」「ナチの豚」「ジャップ鼠」「共産クマ」は明らかに危険で、非理性的動物で、ずるいことをしかねない、容赦無く殺すことが道徳的に正当とされる連中だ。イメージされる動物の種族がより低く下がれば下がるほど、有害生物を根絶する、より大きい認可が兵士に与えられる。

    P.99
    責任転嫁をやめた時、つまり戦争責任を外国の謎に包まれた期間に押しつけるのをやめて、自らの暴力性にあえて目を向けた時から、解決は始まる。(中略)自由主義者や声高な平和論者、それに善良な人々のさまざまなグループは、しきりに戦争責任をペンタゴンや軍産複合体、その他の悪魔の手先などに追わせようとするが、それとて責任回避という意味では外敵のせいにるのと変わらない。また「国民は戦争など望んでいない。望んでいるのは指導者だけだ」といった使い古された感傷的な言いまわしも、問題を真剣に受けとめるのを避ける欺瞞である。

    P.120
    敵に魅入られた時から専制政治は始まる。初めは侮辱、攻撃、侵害も些細なものだ。傷も浅い。しかしわれわれはそれに反応して、侵略者を罰し、仕返しをして、秩序を立て直そうとする。すると敵は、またそれに対してやり返してくる。かくして敵意の連鎖反応が始まる。
    しだいにわれわれは焦点を絞り、選別を厳しくし、ついに世界中を闘争の色眼鏡で見るようになる。すべての人が敵か味方かに色分けされてしまう。敵の敵は、皆味方だ。自分たちの仲間なら皆、自分の敵を敵にまわしてもらわねば困る。万華鏡のような現実は、AかBか、敵か味方か、白か黒かという一元的な図式に書き換えられてしまう。

    P.123
    最近では、悪魔はたいていグレーのフラノのスーツを着て、官僚になっている。現代世界の悪のほとんどをなしているのは、官僚組織や大衆的軍隊のために何の疑問もなく奉仕する名もない男女である。「権威」に唯唯として従うこと、上司の言いつけ通りにすること、上からの命令に疑問を挟まないこと、個人の良心を集団の目的に従わせること、これらはみな職務規定の一部だ。悪は業務の副産物、つまり忠誠心の不幸な結末となる。(中略)現代では、企業も政府も軍隊もあまりに巨大なため、大量生産の方式を人間に応用せざるをえないのだ。個人は歯車の一つとなり、優秀な機械の部品のように交換がきかなければならない。存在することは、適応することである。このような官僚組織の中では、一般市民も兵士となり、制服を着せられ、自律性を捨てて上位者に従うことを余儀なくされる。
    こうした自己抑制は、自分が道徳的に判断することを放棄し、外敵な力の支配に身をゆだねることに他ならない。そしてゆだねた相手が何であれ、われわれはその者に神の大権を与える。それは中心、「地軸」となり、最大の関心事となり、人生の行動原理となる。偶像が神となってしまうのだ。悪魔が神の衣をまとって現れることも稀ではない。(中略)悪魔の力を弱めるには、悪魔が人間の奥深くの普遍的な体験を象徴していることを理解し、それが自分自身から生じたものだと認めなければならない。中世の神学はこの真理を認識し、サタンを元来は神とともに住まっていた堕天使として描いた。悪魔という象徴には、人が時として常軌を逸した「善」にとりつかれる、という洞察が込められている。

    P.128
    文明は、野蛮なる力を制圧しようとする不断の努力である。多大な犠牲と試練を乗り越えて、自我はかろうじて法と秩序の定めを作り上げ、ジャングルを切り開く。だが、いまだ抑制されていない力は、常にわれわれを混乱に陥れようと脅かす、というのも、心の底で、われわれは文明の成果についてきわめて大きな葛藤を感じているからだ。
    フロイトが述べたように、文明には不満感がつきまとう。われわれの中に潜む何者かは今でも、野放図になりたい、何事も衝動の赴くままに心ゆくまで行いたい、性と暴力と怠惰の海に溺れたいと望んでいる。(中略)フロイトがリビドーと名づけたのも、すなわち道徳律をもたない衝動である。

    P.151
    戦争は、死を最小限度に抑えると見せかけのもとに死を最大限に拡大し、悪を破壊するふりをして過剰な悪をつくりだす手段である。

    P.177
    現状において、われわれが気をつけなくてはならないことは、汝の敵を愛せよという聖書の戒律ではなく、むしろ自分の敵を知るという戦略的要請である。パラノイアとプロパガンダが知覚を曇らせているので、合衆国もソ連も互いに相手の動機や国民心理を理解できない。ソ連人と一度も会ったことのないアメリカ人が、その民衆全体を抹殺できる兵器体系の管理を任されている。

    P.187
    新しい解決策を見出そうとする以上に、われわれが過去に創りだしたものに責任を負わねばならない。犠牲者ごっこ(「戦争はたまたまわれわれに降りかかったにすぎない」)、告発合戦(「敵がわれわれを戦争にしむけた」)、あるいは、神前試合(「われらは神のために戦争をしている」)を演じる限り、われわれは現状を変革する展望も能力も欠いていると言えよう。

    P.197
    敵の元型的イメージの毒々しさと頑固さは、奇妙なことに希望があることを示す隠れた証拠である。まさしくわれわれが生来のサディストでないがゆえに、しきりに敵の品位を下げて視覚化している。いずれにせよ、自分と同じ種族を殺さないという自然の性向をわれわれはもっているので、本能的な同情心を克服し敵を殺せるようになる前に、敵を自分たちとは似ても似つかぬおぞましいものにしなくてはならない。「敵対人」(ホモ・ホステイリス)は、メディアと制度によって作り上げられねばならない。それは武勇談、イデオロギー、合理化、部族神話、通過儀礼、敵のイコンといったかたちで絶え間ない教化の下に「敵対人」(ホモ・ホステイリス)を支配している。共感性パラノイアを保持し、敵との対抗に支配された精神を創りだすためには、全面的に制度化されたシンボリックな社会装置が必要である。(中略)著書『砲火と戦う人々』でS・L・A・マーシャル将軍が指摘した注目すべき研究によれば、軍事心理学者は以下の事実を発見した。第二次世界大戦中の戦闘状況において目撃した敵に一度でも発砲したアメリカ兵は、二五%を超えておらず、その数字は通常の場合なら一五%である。(中略)訓練あされた戦闘部隊の七五-八〇%が、敵を進んで殺そうとしないのである。マーシャル将軍は、この研究から次の結論を引き出した。軍隊は兵士が抱く戦士の恐怖をうまく処理することはできたが、彼らが殺人をためらうことに十分な対応はできなかった。
    われわれを殺人者にすることがそれほど難しいのならば、われわれは、自分の内にある敵意と戦うという希望に道が英雄的な課題に向けて教育的な努力を始めてもよいだろう。

  • スマホ版のブクログではヒットしない本である。
    このシリーズは本は大きいわりに、文字のサイズは新書並みで余白が多いので、老眼にはつらい。
     図が非常に多いが、本文では図に言及していない(翻訳で削除されたのかもしれない)。図は戦争中のマンガを集めたもので、日本へ言及したものも少しある。
     心理学については、ミルグラムについて少し言及しているが他の文献はあまり説明していないので、卒論で取り上げるのは難しいと思われる。

  • e

  • 帯文:”敵意の幻想に楔を打ちこむ 戦争心理の図像学” ”古今東西の《敵の顔》に隠されたレトリックを読み解くことからはじまる、無類のヴィジュアル・サイコロジー。恒久平和への意志に支えられた柔軟な構想が満載。”

    目次:序章 敵対人(ホモ・ホスティリス), 第一章 敵の元型, 第二章 敵意の心理学, 第三章 敵意の未来, 第四章 現況, あとがき ……etc

  • 第一次大戦、第二次大戦を中心に、戦意高揚のためのプロパガンダとして、敵国をどのように描いてきたかという点を、ポスターや風刺画などをもとに分析している。
    そこには敵を悪く描くことは勿論だが、非人間的なもの(モンスターや醜い虫や獰猛な獣、もしくは無機質なただの黒塗りの影)として描くことで、敵がやっている事と同じ残虐行為(戦闘の中で人を殺す事)を殺人ではない別のものとして認識させるための欺瞞が含まれている事を指摘している事が興味深い。

  • 確認先:府中市立中央図書館

    今読み直してもその価値は十分。そして、「敵」とはどうやって構築してきたのかということを再度問い直す絶好の名著かもしれない。そして読んだ人にうならせながら悶えさせる。

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著者プロフィール

ニューヨークタイムズのベストセラー『The Bastard Brigade』『空気と人類:いかに〈気体〉を発見し、手なずけてきたか(白揚社)』(ガーディアン誌のサイエンスブック・オブ・ザ・イヤー)『The Tale of the Dueling Neurosurgeons』『にわかには信じられない遺伝子の不思議な物語(朝日新聞出版)』『スプーンと元素周期表(早川書房)』の著者。また、PEN / E. O. Wilson Literary Science Writing Awardの最終候補に2度選ばれている。著作はThe Best American Science and Nature Writing、ニューヨーカー、アトランティック、ニューヨーク・タイムズ・マガジンなどに掲載され、NPRのRadiolab、All Things Considered、Fresh Airでも紹介されている。彼のポッドキャスト「The Disappearing Spoon」は、iTunesのサイエンスチャートで1位を獲得した。ワシントンD.C.に在住。

「2023年 『アイスピックを握る外科医』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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