ナラティヴ・セラピストになる: 人生の物語を語る権利をもつのは誰か?

  • 北大路書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784762829017

作品紹介・あらすじ

本書は,ナラティヴ・セラピーの個人的な歴史と,理論と実践の歴史の知的散策に読者を誘うことで,ナラティヴ・セラピーの理論と実践の謎を明らかにすることを目的としています。・・・
 ・・・本書では,理論を日常的なナラティヴ・セラピー実践例と一緒に紹介しながら,知的な厳しさやポスト構造主義理論とナラティヴ・セラピーの関係性の体系を読み解き,読者の戸惑いをできる限り取り除けるよう最大限の努力をしています。・・・
 本書では,ナラティヴ・セラピー実践をつくり上げていく上で,核心にふれるいくつかの重要な質問を強調しています。それは,(a)心理療法において何が語られるのか(たとえば,人や問題について,そして医療・司法・精神科病棟・学校システム・家族・メディアといった制度内において),(b)心理療法において,人や問題についてだれが発言する権利をもっているのか,(c)どのような専門的な影響を受けて語っているのか,という問いかけなのです。質問の形成過程と,治療的質問そのものの検討が,ポスト構造理論によって終始形づくられているのです。
 ・・・私が本書の中で提起しようと試みている主要な問いかけは,以下の非常に単純な問いに基づいています。「語られるストーリーを語る権利はだれにあるのでしょうか?」
(本書「第1章 はじめに」より引用)

◇主な目次
第1章 はじめに
第2章 歴史
問題の神秘性を取り除く/トムとの旅
第3章 理論
多様に語られうる人生/再著述する会話/描写の2つの様式/テクストとしての人々のアイデンティティ/ミシェル・フーコー/分割の実践/科学に基づく分類法/主体化/権力と知の不可分性/ディスコース・コミュニティ/テクストとしてのディスコース/なぜ言語ではなく,ディスコースなのか?/認識論ではなくイデオロギー/ナラティヴにおける「私」の位置付け/虹のようなディスコース/「現実」を構成すること/ディスコースによるアイデンティティ
第4章 セラピーの経過
ジェシーの物語/再著述する会話/影響相対化質問法/ユニークな結果の質問/ユニークな説明の質問/ユニークな再描写の質問/ユニークな可能性の質問/ユニークな流布の質問/好みの質問/「自分」という相談相手に相談する質問/対抗的視点/対抗的視点とナラティヴ・セラピー:敬意という課題/対抗的視点とナラティヴ・セラピー:批判という課題/内在化された会話の問題が持つ習性/命名する実践と,記述する実践/記述や命名への新しい形態:心理療法的な手紙を書くキャンペーン/オスカーとの旅/手紙を書くキャンペーンの構造/手紙を書くキャンペーンの貢献者/ピーターとの旅/当事者リーグと共同研究/アンチ拒食症/過食症リーグ/アンチ拒食症の共同研究
第5章 評価
第6章 将来の展望
将来の考慮点/ナラティヴ・セラピーのアイデアを発展させる
第7章 まとめ

感想・レビュー・書評

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  • 日本語タイトルは、「ナラティヴ・セラピストになる」だけど、原題は単純に"narative therapy”ですね。さまざまな心理療法の大学院レベルの概論をまとめたシリーズの1冊という位置付けかな?

    だが、これをよむとナラティヴ・セラピーはそもそも心理療法ではないのではないかという感じがしてくる。

    心理療法というよりミクロレベルで行われる社会変革活動?

    なのでその理論的な根拠は、心理学のなんらかの流れからくるものではなく(それらは結局のところ近代的に構成された主体を前提とした本質主義なのだ)、フーコーなどのポスト構造主義の議論からきている。

    これまで読んだナラティヴ関係の本では、ポスト構造主義との関係がなんだか中途半端にしか書いてないものが多い気がしていたのだが、この本でその辺がしっかりとつながった感じ。

    わたしは心理学に興味を持ち始めたのは比較的最近なんだが、フーコーとかはわからないなりに結構前から読んでいる。

    多分、フーコーとかの議論が頭のどこかにあるので、心理学は面白いと思っても完全にそのとおりだという気持ちになれなかったんだなと今になって思う。

    つまり、これまでの心理学や心理療法は、何らかの意味で自立した個人、主体を実在論的に設定して、そのなかで意識か、無意識かはわからないが、本質的ななにかが外にむけて表現されたり、されなかったりする、という仮定のもとになりたっていたというわけ。

    ここの仮定が、人を独立したものというより、関係性のなかにあって、変わりゆくものという仏教的な人間観、そしてポスト構造主義的な人間観とあわなかったわけだ。

    この本は、ナラティヴとフーコーの関係がわかりやすく、そしてある程度の分量をもって議論されていて、よかったな〜。

    実をいうと、他のナラティヴの本では、ポスト構造主義と構造主義の比較がちょっと雑な議論になっていることが多い。つまりこの2つは対立的な概念として整理してあることが多いのだが、実際には、構造主義があったから「ポスト」構造主義があったわけで、この2つの差はそこまで大きくない。実際、フーコーは構造主義に整理されることも多かった。

    いずれにしてもフーコーがこういうかたちで「役に立つ」のは驚きである。

    フーコーを読むと知的な楽しさはあるものの、基本、現代社会への批判ということで、なにをやっていいのかわからなくなってしまう感じがしていた。

    それが、ナラティヴという形をとることで、フーコーが問題にするミクロ権力のなかで、具体的に関係性に働きかけていくことができるのはすごいな〜、と感無量だ。

    というわけで、これは哲学の実践であって、心理学の実践ではないんだな、と思った次第。

    徹底した反個人主義、反本質主義でありながら、ナラティヴ・アプローチの一人一人の人間に対する眼差しは限りなくやさしく、敬意にみちている。

    マイケル・ホワイトは、「僕たちの仕事の相手になる人たちは、いつだって自分で認めるよりずっと面白い人たちなんだよ」といっていたそうだ。

    ナラティブ・セラピーとは何よりもまずアプリシエーション(好意的理解)のセラピーであるということなんですね!

    おお、ここでやっぱりアプリシエイティブ・インクワイアリーとつながるんだ。

    そう、わたしが求めているのは、反本質主義、反個人主義でありながら、アプリシエーションにもとづくものなんですね。

    ここんところが、どうつながっているのかが、もう少し知りたい!

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