教育現場を「臨床」する:学校のリアルと幻想

著者 :
  • 慶應義塾大学出版会
4.00
  • (1)
  • (1)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 41
感想 : 7
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784766429053

作品紹介・あらすじ

疲弊する教師、ブラック校則、部活動、感染症……子どもをめぐる不合理を可視化する。学校における喫緊の課題である「部活動」「校則」「虐待といじめ」などの問題を、著者独自の観点から多角的に分析する。学校の虐待といじめは増えているのか。部活動はだれにとって問題なのか。校則は変わるのか。データを丁寧に分析し、結果から見える「真実」、そして子どもたちや教師たちの「苦悩」がどこにあるのかを明らかにする。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 「嫌なら辞めれば良い」は「なぜ辞めないのか」と相手を問い詰め、論点を加害者側ではなく、被害者当人の選択の問題に落とし込んでしまう。
    社会問題は最初からあるのではなく、何らかの異議申し立てを通して、社会問題として認識される。併せて、解決できるという認識が人々の不満を自覚させ、公的な問題を作り出していく。
    イリイチは脱学校の社会を説いたが、現実にはどんどん学校が影響を与える側で市民は影響を受ける側と二分される「学校化社会」となっている。これにより、保護者や地域住民が暗黙のうちに多大な教育効果を期待する「教育万能主義」へ転化している。

  • 【配架場所、貸出状況はこちらから確認できます】
    https://libipu.iwate-pu.ac.jp/opac/volume/570976

  • 教育社会学の領域で学校の問題について入っていた論考である。教育と医学の雑誌への連載記事であるのでよみやすい。クラブ活動での教員の負担、虐待、校則など学校での様々な問題点をあげている。
     教員となる学生が読めてこれから役立つ本である。

  • 教育現場を「臨床」する:学校のリアルと幻想

    思い起こせば、学校の厳格な校則が維持されるべき理由にも、「あるべき規範」がつきまとってきた。「中学生らしさ」「高校生らしさ」である。黒色の靴下は中学生らしくない、ツーブロックは高校生らしくない— よくよく考えると謎理論なのだが、それが堂々と通用してきたのが校則である。既存の「中学生らしさ」「高校生らしさ」も、一度放棄したほうがよさそうだ。

    時代は移りゆく。私たちの価値規範も、移り変わっていく。そして、人の苦悩を目の当たりにしたときには、価値規範が移り変わっていくのを待つことなく、積極的に変えていくことも必要だろう。自分がもつ常識を疑ってみるときが、いまここに来ているように思う。

    第—部 学校と「臨床」

    エビデンス・ベースドによる研究の原点にある「科学的根拠にもとづく医療」の初期の論考には、現場とエビデンスとの関係性について興味深い指針が一記されている。すなわち、これからの医療は、診療で困ったときには、権威(教科書や先盜) ではなくパソコンのほうに振り旳くべきである。指針は、目の前の医療現場にではなく、論文データベースのなかにあるというのだ。

    デュルケーム の『自殺論』を読んだときのことを思い出す。個々人の苦悩(として処理されがちなこと) が、社会を「もの」のように見ることから検討に付されるということに驚きを禁じえなかった。デュルケームの関心は、過剰な自殺数の抑制にあった。その際に自殺の問題を、当事者に会ってそこから拾い上げていくのではなく、「もの」としての社会という、すぐれてフィールドから遠い地点において把握したのであった。

    学校の実情や肌感覚もわからないままに、象牙の塔に閉じこもって教斉を脸じることの弊害は、もちろんある。だが「臨床」研究の遂行にあたっては、 必ずしも物理的なフィールドに入らなくてもよい。いま「臨床」は、物理的空間を超えて、ネット空間に際限なく拡がっている。

    ポストモダンあるいはハイ・モダニティ、第二の近代と複数の呼称があるものの、いずれにおいても近代社会の行く末を示す概念の一つの「個人化」がある。近代社会においては、潴業化が進むなかで、まず伝統的な共同体から個人が解放される。だが正確には、個人は丸裸で解き放たれたのではなく、家族、 学校、企業、組合、国家といった中間集団に所狷することになる。

    近代以前、人びとは家業として自給的な農業によって生計を立てていた。人の生から死に至るまでのあらゆる場面において、共同体の成員との協働なしには、人びとの生活は成り立たなかった。
    両親と子どもから成る家族とのつながり以上に、共同体のなかでの血縁を超えた人間関係に支えられて、人びとの生命や生活が維持されていた。

    近代に入ると共同体を基盤とした生活は、産業化によって大きな変貌を遂げる。これまで家族は生産労働の場であったが、産業化は、工場という生産労働の場を生み出した。その結果、家族は、生産労働とは対比的な場、すなわち消費, 生活の場へと変質する。新たな生席労働の場が確立されることで、新しく消費・生活の埸としての家族が、一つの自立した単位として誕生した。

    この歴史的変動は、公的領域と私的領域の分断とみることができる。公的な領域において人びとは生産労働に携わり、私的な領域において、 限られた成員が生活を共にし、 情緒的に親密な関係を築きあげる。近代社会は、公的領域(工場, 企業、学校、病院など) を発達させ、 その一方で、私的領域としての家族を生み出した。近代社会において誕生したこのような家族は、「近代家旅」とよばれる。

    近代社会では、伝統的共同体から個人が抽出されて、その個人は新たな近代型の居場所にを身を置くことになった。ギデンズの言葉を用いれば、伝統的共同体から「脱埋め込み化」されて、近代の中間集団に「再埋め込み化」されることになった。そして、グローバル化が進んだポストモダン/ ハイ・モダニティ/ 第二の近代において個人は、 中間集団から抽出(脱埋め込み化) され、ついに所属なき丸裸の個人として世界に向き合うことになる

    中間集団は集合的な力によって、個々人の自由を制約してきたけれども、個々人はそこに安住することができた。ポストモダンの時代は、それらが解体される。丸裸の個々の教員は、学校という束縛から解き放たれて、無限に拡がる匿名空間で「学校がシンドイ」と情報発信できるようになった。

    多元的無知は、「裸の王様」を例にして説明されることが多い。「多元的無知」において重要なことは、(裸であるはずの) 上様の姿を褒め称える民衆の内心である。自分自身は「おかしい」と感じても、周りのみんなはそう感じているように見えない。こうして「おかしい」という感覚にフタをしてしまう。

    第Ⅱ部 部活動はだれのためか

    社会学者のライト・ミルズは、「動機の語衆」に関する説明のなかで、 人びとが状況を識別する際には、特定の語彙が作用すると述べた。「動機は、個人の『内部に』固若した要素ではなく、社会的行為者によるその行動の解釈をおしすすめる条件なのである」。本質的な原因がその状況に内在しているわけではない。特定のお決まりの語彙が、状況の原因と結果の関係性を説明する。特定の原因から結果へのプロセスを見出すこと自体が、言語実践の効果なのだ。

    動機の語彙のはたらきは、予測された帰結と個々の行為とを結びつけ、そこに大罪名分を付与することである。その大義名分のもとで、さまざまな型の社会的統制がはたらく。したがって、行為に付与される「動機の帰属づけと言語的表現とは、社会現象として説明されなければならない」。

    適切な動機とは、状況に集う人びとを納得させ、満足させる動機のことである。動機は、「ひとつの合言葉として、社会的・語的行為にかんする問いへの、疑問の余地のない解答」であり、その「状況を正当化する」作用をもっている。

    「社会問題の構築主義」で知られる社会学者のスペクターとキツセは、「社会問題」を「なんらかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動である」と定義した。社会問題とは最初からあるのではなく、何らかの界議申し立てがなされることをとおして、社会問題として認識される。だれも異議巾し立てをしなければ、 そこで起きていることは「仕方のないこと」として放置されつづけることになる。

    スペクターとキツセは、問題の解決について、次のような視点を提起した。すなわち、「制度的な配置と解決法についての想定とがあるからこそ、社会問題は成立し、 知覚され、名づけられ、 運動の対象となることができる」。私たちは通常、「問題があるから解決しよう」と考える。いっぽうで前述の主張は、そもそも何らかの解決の展望がなければ社会間.題は成り立たないとの見方を示している。

    不満の原点には、ほんの少しでもそれが改善・解決できるという期待がある。このとき、 問題と解決の関係は反転される。すなわち、問題があるから解決するのではなく、解決できるという認識が人びとの現状において不満を自覚させ、公的な問題をつくりだしていく。

    輪郭のあいまいなトラブルを、解決したり管理したりしょうとさまざまな手段がとられるなかで、トラブルは次第にその輪郭を明確にしていく。ある困った出来事はあちこちで起きている。そこに「解決」の視点が導入されることによって、その困った出来事の輪郭が明確化され、それが重大な問題として認知されていくのである。

    「具体的な解決策を出さない限りは、間題を見える化してはならない」といういわば「解決策論法」とよぶべきリアクションは、教育関連の課題に限らず、さまざまな議論の場面で見聞きされる。
    非難の道具としての解決策論法は、問題の指摘に対してすぐさま「具体的な解決策を出せ」と問い詰め、その指摘自体を反故にしようとする。そもそも解決されることさえも望まれていない。そこに明るい未来は、まったく展望できない。

    外部指導者は、教員の助けにもなるし、生徒の助けにもなる。いわば万能薬のようなもので、だからこそ徐々に需要が高まってきていた。そしてその先には、より構造的な外部化として、部活動そのものを学校から切り離し、地域の活動に移行する動きにつながっていく。

    第Ⅲ部 コロナ禍の学校

    新型ウィルスについて、雄弁に語ることを許されているのが、 感染症の専門家である。新型コロナウィルス感染症そのものが主題とされるテレビ番組で、仮に感染症の専門家が不在だとしたら、少なくとも私は気持ちが落ち着かない。そうした視聴者のリアクションを予期してのことだろう、番組では毎回必ず感染症の専門家が最新の見解を提供してくれた。

    こうした傾向は、社会学の世界では長らく「医療化」という概念で記述されてきた。早くにこの言葉を使用したのは、イヴァン・イリイチである。イリイチは、医療が人びとの生活に入り込み、人びとが医療に依存してしまう態度を問題視し、さらには医療にかかわることによって健康が害されるという意味の「医原病」という概念を創出した。また、逸脱現象が医療化されていく歴史的過程を描いたことで知られるピーター・コンラッド は、 医療化を「ある問題が、医療の用語で定義され、医療の言葉を用いて記述され、医療的枠組みの採用によって理解され、あるいは医療の介入によって『治療される』こと」と包括的に定義している

    ウルリッヒ・ベックが指摘したように、リスク認知の営みが高度に発達した科学知に依拠しなければならない状態である。ペックのリスク社会論の主眼とされる「新しいタイプ」のリスクは、「人間の知覚能力では直接には全く認識できない。それらは、しばしば被告者には見ることもできなければ感じることもできない危険である。 危険を危険として『視党化』し認識するためには、理論、実験、 測定器具などの科学的な知覚器官が必要である。

    社会学者のル— マンは、「リスク」と「危険」を区别し、未来の損害の可能性が自分の「決定」に帰されない(他者や外部環境に帰される) ときそれを「危険」とよび、自分の「決定」に帰属されるものを「リスク」とよぶ。つまり、自分の関心事にならずに放置されつづけるものが「危険」であり、関心をよんで何らかの対応が決定されるものが「リスク」である。

    ここで重要なのは、努力によってリスクをゼロにすることはできないということだ。これは単に、絶対的な安全の達成が不可能であることを意味しているのではない。何らかの決定を下したとき、その決定が新たなリスクを生み出すことを意味している。

    ルーマンの考えに倣えば、リスク・マネジメントとは、リスクをマネジメントするという意味以前の状況として、マネジメントしようとするからリスクが生まれると考えられる。インフルエンザ、新型コロナウィルス、児童虐待、いずれもマネジメント(イコール解決や改善をめぐる決定) に着手した途端に、膨大なリスクが次々と浮かび上がってくる。

    グラハムとウィーナーは、「特定のリスクを減らそうとよく考えてした努力が逆に他のリスクを増やしてしまうことになる」現象を「リスク・トレードオフ」と呼んだ。低減すべきリスクに対処したところ、別のリスクが「副作用」のようなかたちで生じる。たとえば頭痛を減らすためにアスピリンを服用したとき、胃痛や潰瘍が引き起こされるような事態である。「あちら立てれば、こちらが立たぬ」ということだ。

    メディア研究の代表的論者として知られるマーシャル・マクルーハンは、「メディアはメッセージである)」とのテーゼを残している。私たちはたとえばあるテレビ局のニュース沿組が用意したコンテンツの影響を読み解くことに関心を向けるが、じつはテレビという種類のメディアそのものが人間の生活に与える影響こそが重要だと、マクルーハンは主張する。メディアはメッセージを伝えるためのただの仲介役ではなく、メディアそれ自体がメッセージとして私たちの経験や人間関係に多大な作用を及ぼすのだ。

    ヨーロッパ文学を専門とする山口裕乏は、壮大なマクルーハンの議論を整理し、メディアの史的展開を、① 音声言語、②文字、③電子メディア、の三段階、あるいは文字の段階をさらに二つにわけて、①音声言語、②文字(手書き) 、③文字(活字) 、④電子メディア、 の四段階に区分する。

    メディア史の専門家である有山輝雄は、さまざまなメディア研究者の巨視的な時代区分を整理しその展開を、①口頭メディア、②手書き文字メディア、③印刷メディア、④電子的映像メデイア、⑤インターネット、とまとめている。

    マクルーハンとほぼ同時代に活躍したメディア研究者で、とくに原初的な「声の文化」に着目したのが、ウォルター・オングである。オングは、
    ①声、②文字を書くこと、 ③ 文字を印刷すること、 ④ エレクトロニクス、の四区分を示し、そのうえでオングは徹底して①の「一次的な声の文化」を分析する。
    オングは、「書くことは、 人間の意識をつくりかえてしまった」と主張する。声は、発した瞬間に消えてしまう。だからこそ、 そこには今日とはまるで異なるコミュニケーション、ひいては人間関係が存在するのだ。

    新たな見取り図を示してくれるのが、ニール・ポストマンである。ポストマンの名著『子どもはもういない』は、 文字が誕生しそれが印刷機をとおして広範に社会に行き渡った時代から、テレビなどの電気を用いた映像メディアの時代への移り変わりを照射する。
    文字の読み書きには、訓練が必要である。テレビという新たなメディアの登埸により、「情報のヒエラルキーの基盤は崩壊する」。テレビは、その人の置かれた立場に関係なく、平等に情報へのアクセスを保障してくれる。テレビを前にすれば、大大と子ども、あるいは教師と子どもは対等になりうる。

    もはや、テレビを前にして対等になった大人と子どもの関係は、インタ—ネットの時代には、子どものほうこそがヒエラルキーの上層にやってくる。このような時代において、 大人は情賴の規制に熱心である。
    私たちが気づかぬうちに、マクルーハンが指摘したように、メディアそのものが私たちの人間関係を左右していることには自覚的であるべきだ。

    いまや私が、あらかじめ用意する授業の具体的なコンテンツは、 コロナ禍前の三分のーにまで減った。全体として伝えたい内容はさほど変わらないとしても、 私から提供すべき準備物は大幅に減少し、学生の意見で授業が展開していく。
    学生はけっして死んでいなかった。私が殺していたのだ。私は、学生からの意欲的な発言の可能性を早々とあきらめ、何らあらたなメディアを模索することもなかった。

    第Ⅳ部 校則は変わるのか

    旧態依然とも言える規則の強化を目の当たりにすると、 気分が何とも暗くなってしまう。今日の学校教育をめぐる状況は、過去の遺物と、最新の社会変動との間に检かれている。

    こうした動きを私は、一つのハイ・モダニティ( あるいはボストモダン) における現象として説明した。学校というモダンの中間集団の庇護/束縛を超えて、丸裸の個人がインターネット空間でゆるやかに連帯して、苦悩の声が広く拡散された。

    教育社会学者の山田浩之は、「情報革命は教育を大きく変えると言われ、さまざまな夢の教育が語られた。誰もが教育にも第三の波が押し寄せると信じていた。しかし、実際には教育にもたらされた変化は決して革新的なものではなかった。むしろ、教育の領域では根本的な変化は生じていないと言えるかもしれない」と述べている。

    モダンの学校空間は、フーコーが描いた規律訓練型のパノプティコンに喩えられる。パノプティコンにおいては、囚人は中央の監視塔から監視されつづける。囚人は、日常の細部に至るまで行動が規制され拘束される。厳格な校則とはまさに、監視塔にいる教師の力によって運用されている。生徒の服装や行動は教師による監視のもとで日々チェックされ、改善を迫られている。

    そして監視されつづけた結果、 囚人は監視塔からのまなざしを自分の内面に取り込むことになる。規律訓練型の世界では、自発的に服従する主体が、自身の行為を自ら作することで、身体が營理される。桎梏が「内面化」されるのだ。

    ー般論としてルールの遵守は、大切なことだ。しかしながら、理不尽な校則が今日も通用しているー方で、生徒らはそれらの校則を守るべきと考えているのだとすれば、危機はかなり根深いように思える。

    コロナ禍は、学校に根を張ってきた校則を、一時的に揺り動かすこととなった。風紀が乱れるからと抑制されてきた身なりや行動が、 解除された。そして解除された結果、何も起きなかった。これが、壮大な社会実験の結果である。

    厳格なルールにより「正しさ」が定義されるからこそ、同時にその裏返しとして「乱れ」が定義される。ただの「多様性」だとすれば、「正しさ」も「乱れ」もなく、さまざまな個人が存在しているだけだ。

    唯一の「正しさ」を設けるから、「違反」が生じる。その「正しさ」の判断を生徒にゆだねて、多様性を尊重すればよい。校則の緩和とは、けっして市民社会の各種法令を一切無効にしようとするものではない。学校が固有に定めている細かくまた厳しいルールの緩和を求めているにすぎない。

    社会科学の領域には、「学校化社会」という言葉がある。かつて1971年にイヴァン・イリイチは、『脱学校の社会』という著書で、学校的な価値が制度に組み込まれた社会(学校を卒業すれば一人前とみなされる社会) を「学校化社会」と呼び、学校制度にしばられない教肯のあり方を展望
    した。

    スコット・デービスとネイル・グッピーは、カナダで過去.100年の間に学校教育が社会生活の中心に位置づくようになった状況を「学校化社会」と呼び、もはやイリイチの「脱学校」などだれも求めなくなり、イリイチの悪夢が現実化したと論じた。いずれも、学校の制度や価値観が、社会で支配的な位置を占めていることに対する危機感を表明している。

    「学校化社会」に類する用語に「教脊万能主義」がある。これは2000年代前後の 「キレる少年」の議論から生まれた語で、 学校や家庭が孑どもを「教育できる」(イコール管理できる、コントロールできる) という暗黙の理解の拡がりを問題視する

    「学校依存社会」とは、「学校化社会」のなかで学校と保護者や地域住民が同じ価値を共有しながら、とりわけ学校に対して保護者や地域住民が幣黙のうちに多大な教斉期待を寄せる「教存万能主義」(より限定的に「学校万能上義」と表現できる) が発動した状態である。学校による生徒の私生活への越権的な介入は、学校依存社会のメンタリティによって支えられている。

    第Ⅴ部 家庭は安全か

    「児童虐待」とは保護者がその監護する子どもに対しておこなう暴行等の行為を指す。殴る・蹴るなどの「身体的虐待」にくわえて、食事を与えないなど養仃や保護を怠る「ネグレクト」、 性的な行為に及んだりポルノグラフィの被写体にしたりするなどの「性的虐待」、言葉による脅しや無視、さらには子どもの目前で家族に対して暴力を振るうなどの「心理的虐待」から成る。

    虐待相談の対応件数は「過去最多」だが、それはけっして「過去最・悪」ではない。子どもの福祉や権利への関心が高まることで、それまでは間題視されなかった子どもに対する扱いが、 不適切な扱いとしてとりあげられ、子ども虐待の「見える化」が進んできた。虐待相談の対応件数は、子どもの虐待に対する社会的まなざしの敏感さを示す一つの代理指標とみなすことができる。

    個々のケースでは、信じがたい凄惨な事件がいまも起きている。しかし闩本社会全休としては、虐待防止活動の成果が一つひとつ実っている。虐待間題を論じるときにいま必要なのは、虐待が実際に減っているとしてもそれでも「減らしたい」という主張が認められることである。私たちはつい、「悪くなっているから、改善しましょう」という論を立てたがる。しかし大小なのは、「悪くなっていないとしても、改善しましょう」と主張できることである

    「リテラシー」に似た言葉で、「ニューメラシー 」という造語を耳にすることが増えた。字義としては数字の読み書き能力を指し、 狭くは「計算 能力」から広くは「日常生活で数字を正しく理解し使いこなす能力」といった窟味に翻訳される。ニューメラシ— の概念が1950年代にはじめて登場した際、それは「数量的に思老する能力だけでなく, 科学的な手法を理解すること」と定められた。数値はただそれだけで正光性をもつものではなく、つねに科学的な観点から読解されるべきである

    数虽的データとは、ただそれだけで説得力をもってしまってはならない。発信する側も受信する側も、それを慎重かつ丁寧に取り扱うなかでこそ、数値は意味をもつ。

    スペクターとキツセによる社会間題の構築主義とは、 たとえばいじめ、飲酒運転、セクハラ、 新型コロナウィルス感染症など、 この社会に広く知れ渡っている社会問題の語られ方が、関係者らの活動によっていかにつくりあげられていったのか(構築されていったのか)を明らかにする。

    ゴッフマンによる演劇論とは、私たちが集う日常の場面を一つの舞台に読み样えて、私たちがその状況にふさわしい自己をいかに呈示しているのか(演じているのか) を明らかにする。

    スペクターとキツセは、集団や組織の活動に着目し、世論の形成過程を描き出す。ゴッフマンは、個人の意識に着目し、個々人が集う埸面における自己の表出戦略を描き出す。位相は異なっているのだが、しかしながら私のなかで両者は、同じような意味を有している。すなわち大雑把な言い方を許してもらえるならば、人びとはいかにウソをつくのか、いかに事実らしきものがつくられていくのか、ということだ。

    「オントロジカル・ゲリマンダリング」とは、研究者がある部分についてはそれを「構築されたもの」とみなし、ある部分についてはそれを「客観的実在」とみなして、恣意的な線引きをおこなっている状況を指す。

    社会問題の構築主義は、「客観的実在を問わない」という命題を掲げながら、その多くは、ある客観的な状態を想定している。そして客観的実在が変化していないのにその状態に関する定義や見方が変化したと主張している、 というのだ。

    学ぶべきは、構築的な観点に依拠するとき、「客観的実在を問わない」としながらも暗黙裡にそれをとりこんでしまうことの危険性である。自身が客観的実在に対して、どのようなポジションをとっているのか。この点を自覚するのであれば、少なくとも欺漏的な主張に陥ることは避けられる。
    けてこそ科学であり、だからこそ学者はデータ分析やその考察に慎重を期さなければならない。

    むしろ私は、その客観的実在を積極的に参照する姿勢の重要性を強調したい。客観的実在を表立って活用しながら、当の教育問題の現状を評価する方法である。

    真実とは、けっして揺れ動くことのない、なにかである。一方で科学とは、 つねに批判され、反
    証される可能性を有してこそ科学たりうる。「もしかしてウソかもしれない」— そう疑われつづ

全7件中 1 - 7件を表示

著者プロフィール

名古屋大学教授

「2023年 『これからの教育社会学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

内田良の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×