核時代のテクノロジー論: ハイデガー『技術とは何だろうか』を読み直す (いま読む!名著)
- 現代書館 (2020年3月25日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (245ページ)
- / ISBN・EAN: 9784768410196
作品紹介・あらすじ
1927年の『存在と時間』という歴史的名著によって20世紀の哲学・思想における名声を確たるものにしたハイデガーの後期重要作『技術とは何だろうか』は、まさに今日こそ読むに値するものだ。元素を「挑発」して地上に虚無化を現出させる20世紀の人類史的出来事を踏まえたハイデガーの技術論は、本書のタイトル通り、核時代のテクノロジー論の始まりの位置に立つとともに、現代、そして未来にまで届く恐るべき生命力を持っている。本書では、『技術とは何だろうか』を中心に据えて、『存在と時間』はもちろん、そのほかのハイデガーの講演、さらには、同時代の同伴者であったアーレントからアリストテレス、プラトンなど古代ギリシア哲学まで幅広く目配せをしながら現代技術の根本に潜む光と影を考えていく。そして終章において、3・11以後の技術論の展望--何百年何千年も隔たった人びとどうしの相互協働の余地、隔世代倫理の可能性--を試みる。
感想・レビュー・書評
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1.アリストテレス論
ハイデガーは、アリストテレス論を下敷きにして、理論と実践の合一としてフロネーシスに注目し、実存論分析を行った。技術論は、アリストテレスのエネルゲイア活動の二つプラクシス行為に対するテオリア観照の優位、ポイエーシス制作におけるテクネー技術の、単なる成果を求めるキネーシス運動の奴隷的側面に注目した。
活動は三つに分かれ、テオリア観照、プラクシス行為、ポイエーシス制作。さらにその知的能力は、ソフィア知恵、フロネーシス思慮、テクネー技術である。特にソフィアはヌース理性・純粋直感とエピステーメー学問・認識能力に分かれる。テオリアは哲学者、プラクシスは政治家。
2.物
『物』における四方界の議論を、『存在と時間』の内存在に結びつけて、「等根源的」な複数性として解釈する。死すべき存在もまた、死への先駆として接続する読み方。
3.建てること、住むこと、考えること
戦後復興期の建築に関わる存在論。住むとは何か。建てることは、住むことに属するとし、住むことは存在することだという。建てることは、耕すこと、労わること。四方界を、すなわち大地を救い、天空を受け入れ、神的な者を待ち望み、死すべき者として住む。『存在と時間』の気遣いに相当する。違うのは視点が現存在ではなく、物。→実存論ではなく存在者一般の存在論。
存在と時間では、もとでの存在は頽落だが、物たちのもとでの存在に本来性を見出している。
位置→距離→延長→純粋空間という物の虚無化。→数的処理における抽象化。
4.技術への問い1
『技術への問い』は、目的=手段=原因の通俗的理解ではなく、プラトンのポイエーシス(産出)、アリストテレスの真理を暴くテクネー(技術=制作知)から技術の本質を捉えようとした。
"ハイデガーは初期以来、存在を問うに当たって「制作」というテーマを一貫して重視してきた。"
テクネー技術知とエピステーメー学問知は、アリストテレスの時代には、偶然性と必然性において分けて考えていたが、現代では科学=技術としてまとめて考えられている。そのことから、現れさせ真理を暴くことポイエーシスを技術の本質とし、現代技術は、自然に対して「挑発herausfordern」をし、「徴用bestellen」していることを指摘する。石油石炭、電力など、顕現させることは同じとしても、かつての産み出すというよりも、bestellen取り寄せ、搾取するということだ。1949年のブレーメン講演「総駆り立て体制」では、原子力、農業機械化による食糧産業、ガス室・絶滅収容所、水素爆弾すべて同じ扱いをした。平和利用と破壊を一緒くたにし、同じ危険が潜むことを示唆した。
5.技術への問い2
bestand徴用物資bestallenの名詞、備蓄、存立・存続。人材も含まれることから、マルクスの「労働力商品」概念、資本主義システムにおける人間疎外と同様であり、アーレント的な、「消費のために労働する人間」として駆り立てる。ハイデガーはゲシュテルGe-stell総駆り立て体制と呼んだ。これは、ユンガーの総動員、形態Gestaltに由来する。戦後もなお、日常の中により強固に組み込まれている。→フーコー生権力
存在概念の歴史的規定
古代は、実体ousia、制作herstellen、ポイエーシス
近代は、対象gegestand、表象vorstellen、主体subject
現代は、徴用物資bestand、徴用bestellen、総駆り立て体制Ge-stell
古代近代を一括変換するのがゲシュテル。ゲシュテルを構築する、歴史(ゲシヒテgeschichte)的なはたらきがゲシック(geschick運命、巧みな、遣わし、贈り物)。
現代技術においては、制作テクネーの能動性が学問知エピステーメーを引きずり出し、行為的直観フロネーシスとなっている。フロネーシスは政治家の行為プラクシスに関わる知性だが、現代における、科学的専門知が政治的威力を発揮している状況に合致する。自然を挑発し、地球にないプルトニウムの生成は、宇宙エネルギーの顕現だった。その探求は、ニーチェでいう力への意志だ。
ハイデガーはヘルダーリンの詩を引用して危機における救いについて述べるが、それは芸術だという。しかし、現代大衆社会においては、芸術は慰めでしかない。
6.プラトン『饗宴』ポイエーシス創作
死すべき者が不死になることからポイエーシス創作を考えた。出産、犠牲、芸術、科学、政治、教育、立法。さらに永遠不変のものとして美そのものへのエロース性愛=哲学。プラトンが行ったこととしては、大学、哲学書。
反対に、「終活」は、死後の世界の無意味さ、「終わりへの存在」の末期形。→不死なる物を残さない
ナイロン、プラスチック(セルロース→セルロイド→塩化ビニール→プラスチック)、プルトニウムの不死性。テクノロジーのブームは移り変わる一方で、創作物・ゴミは永遠性をもつ。出生の危険、歴史の予測のつかなさと取り返しのつかなさの二重性。テクノロジーは、(政治的)行為プラクシスとは異なる。
→目的のみを志向する合理的・好奇心的なテクノロジーには、物を手段としてしか見ないため、物への気遣いがない。技術・行為志向は現代的だが、結局ハイデガーは芸術に求めた。つまり、アーレント的な行為偏重だけでは無理で、プラトン・アリストテレス著作がある以上、制作に帰結することは避けられない?
「救い」とは、作るだけにとどまらず、使う、保つこと。労わること=存続性。hauswesen世帯・家政、staatswesen国家からwesen本質は、währen存続する。
終章
「救い」の掘り下げ。物への「放下=利用する然りと同時に放置したままにできる否という態度」→両義的であるが、然りが通常だとすれば、重要なのは否という切断できる、距離を置いた客観的態度ではないか。
新しい物への労わりが放下。新しい物を受け入れ、古きに固着せず、かと言って使い捨てにしないこと。新しい土着性。新しい物たちとの共存の倫理。
核戦争に関わる憲法のメンテナンス(単なる護持でもなく取っ替え引っ替えでもない)についても、新旧の隔世代における核時代の倫理を論じる必要がある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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