東京大空襲・戦災資料センター図録 いのちと平和のバトンを: 東京大空襲・戦災資料センター公式図録

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  • Amazon.co.jp ・本 (96ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784772613194

作品紹介・あらすじ

空襲にまつわる歴史と実態を、今こそ次世代へ伝えたい。
豊富な資料や証言で読み解く、中学生から読める必携ガイドブック。

感想・レビュー・書評

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  • 空襲の歴史は、1911年にイタリアがオスマン帝国へ飛行機から手りゅう弾を投げることで始まった。

    「アジア・太平洋戦争の末期、アメリカ軍はマリアナ諸島を占領し、基地にしました。B29爆撃機によって日本本土のほぼ全域を攻撃することが可能になり、日本への本格的な空襲がはじまりました。東京に対する最初の空襲は1944年11月24日でした。

    はじめのころは、昼間、高い高度から主に爆弾を使って、兵器など軍隊が必要とするものを作る軍需工場などを狙う「精密爆撃」が中心で、東京では多摩地域の航空機関係の向上が第一目標にされました。

    その後、アメリカ軍は、軍施設だけでなく市街地も狙った無差別爆撃をおこなうようになりました。焼夷弾を使って人口の多い住宅地を焼き払う空襲です。

    1945年3月10日の下町に対する「東京大空襲」をはじめ、主に東京の区部(現在の23区)が空襲されました。」p.12

    「灯火管制下での暗い夜の生活は、戦争の時代を象徴するものです。戦争体験者の中には、戦争が終わったと感じたのは、黒い布を取り外したりして部屋が明るくなった時だと語る人もいます。」p.26

    「初空襲(1942年)の後、政府・軍部は空襲への対応を教化したと宣伝しましたが、国民に防空の義務を負わせるばかりで、国民を守る戦闘機や防空壕を十分に増やすなどの対策はほとんど実現されませんでした。」p.41

    「東京大空襲では3月10日の0時8分に焼夷弾の投下がはじまりました。
    深夜の街で、次々に襲ってくる焼夷弾と大火災から逃げまどい、約10万人の人々が殺されていきました。」p.46

    「東京都で戦災を受けた朝鮮人は、少なくとも4万1300人いたことがわかっています。朝鮮人の空襲被害を記録した資料が少ないため、わからないことも多くあります。」p.54

    「1980年代から、市民団体や民族団体、在日朝鮮人の記者によって、朝鮮人の空襲被害を掘り起こす努力がなされてきました。体験者への聞き取りが行われ、出版されています。また調査によって、東京都慰霊堂に朝鮮人の遺骨があることが分かりました。3月の東京大空襲で、軍に徴用されていた朝鮮人が少なくとも120人、亡くなったこともわかっています。」p.54

    白川戦災地蔵尊
    https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_koto_city012/index.html
    「1955年、李仁洙(リ インス)氏白川町の戦災死者700余名を慰霊するために建立したもの。」p.55

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