教育者、キリスト教宣教師としての印象が強い新島襄。しかし、脱国する1864年までは、暦とした「武士」。武士魂もなかなか強烈である。それは、次の手紙文や和歌にも表れている。
「男子一戦して敗るるも已むなかれ、再戦して已むなかれ、三戦して已むなかれ、刀折れ、矢尽きて已むなかれ。骨砕け、血尽きて已むべきのみ。真理のために擲つあらずんば、吾人の生命もまた無用ならずや」(p.34)。
「石かねも 透れかしとて ひとすじに 射る矢にこむる ますら雄の意地」(p.41)
本書で残念に思うのは、リベラル・アーツ(Liberal Arts)、教養(Culture)と一般教育(General Education)などの混同がみられることである。
○リベラル・アーツもまた、アメリカの特産品です。(p.100)
⇒ヨーロッパでは、中等教育(ex. Sixth Form)でリベラル・アーツ科目を履修する。この背景には、アメリカのカレッジが、中等教育レベルの教育機関として発足したという歴史的経緯がある。
○リベラル・アーツ教育とは、人間を「リベラル」にするためのカリキュラム、あるいは普通教育・一般教育というのが本来の意味。(p.103)
⇒リベラル・アーツ教育は一般教育とは違い「専門と対立する概念ではな」く、「職業的(専門職的あるいは技術的)科目に対する学問的教科をいう」のである(舘昭『大学改革 日本とアメリカ』玉川大学出版部、p.34、1997年)。
○語学と並んで、教養を重視する、これがリベラル・アーツのもうひとつの大事な要素です。それもただの教養ではなく、幅広い教養です。
⇒語学がリベラル・アーツの要素であることは間違いないが、国民国家の形成と共に重視されてきた教養(Culture)とは異なる。
○リベラル・アーツ教育って何や・・・ひとまず粗い定義をしておけば、知育、徳育、体育という幅広い領域におよぶ教育、それも一般教育です。
⇒リベラル・アーツが、「狭い」分野における問題発見・解決の論理展開の精緻さを重視したスキルを身に付ける技法を学ぶものである一方、一般教養は、「幅広い」分野から問題発見・解決の技法を身に付けようというもの。目的は似ているが、その方法は異なる。そもそも著者が紹介するアーモスト(アマースト)大学でも、2年時の終わりから3年になると、リベラルアーツ系の学科(カーネギー分類を参照)のいずれか一つを専攻分野として選択する(谷聖美「アメリカの大学」ミネルヴァ書房、p.15)のである。
最後に印象に残った点。「倫理的な原則を持たずに、知性しか持っていない場合は、隣人や社会に善をなす、というよりも、害を及ぼすことの方が多いのです。研ぎ澄まされた知性は、鋭いナイフにそっくりです。同胞だけでなく、自分自身も破滅させるでしょう」(p.220)。アメリカで民主主義が発達したのも、キリスト教(聖書)という倫理的な共通原理・基盤があったから。今の日本において、どのようにして「倫理的な原則」「徳」「人格」を養成していくべきなのか。日本の教育の大きな課題だ。