家族(p.38)
家族は 全世界への旅の始まり
慈と悲への 旅の始まり
そして
その旅の終わりに見えるひとつの灯
家族は厳粛な真理の現れ
はだかのわたくしが映される 鏡
秋の一日(p.78)
目の前に 2年間のインドの旅を終えて帰ってきた友人の姿があった
その人は まぶしいほどに明るい透明な光を負って
そこに座っていた
私達の日常生活は
いつもはそんなにも明るい透明な陽の光の中にあるわけではない
けれども お茶を飲み話を交わしている内に
まぶしいほどに明るいその透明な陽の光が やがて私をつつみこみ
私もまた旅の人となった
澄んだ青空と白い雲の流れの下で 十分に草を刈った
山にはいっそう静岡な
まぶしいほどに明るい 透明な陽の光があふれていた
私と友人は 時が与えてくれた二つの果実であった
人間という名の この秋の実りであった
ひかり(pp.211-212)
ひかり とは
生命の もうひとつの呼び名です
生命だけが
究極の 暗闇の中の ひかり です
暗闇の中を それで
水が流れている
水が 真実に 流れている
水は 暗闇の中の ひかり です
静かさについて(p.250)
この世でいちばん大切なものは
静かさ である
山に囲まれた小さな畑で
腰がきりきり痛くなるほど鍬を打ち
ときどきその腰を
緑濃い山に向けてぐうんと伸ばす
山上には
小さな白雲が三つ ゆっくりと流れている
びろう葉帽子の傘の下で(p.324)
さらに鬱蒼としげる森の道を沈んでいく
すでにつくつく法師も鳴かず
森から染み出す小さな流れだけが
ちろちろと静かな音をたてる
人は 少しずつ人であることを失い
ふたたび意志ある水となって その道を登ってゆく
やがて ウィルソン株に至る
寝回り13メートル
すでに枯死した切り株の虚に入ると
そこには小さな神社が祀られており
地面をさらさらと水が流れている
その水を ひとすくい飲む
切り株は枯死していても その水ゆえに切り株は死なない
木霊神社と
誰が呼んだか 切株にかかげられた小さな表額が
霧の雨に濡れている
死は 生の終りではなく また始まりでもない
死は 霧のようなもの 雨のようなもの また 水のようなもの
森の中の 森の出来事 ただの出来事
霊の中の 霊の出来事 ただの出来事
虚の片隅に飴を除けて しばしの休みを取る
びろう葉帽子の下で
すでに三時間の歩行が続き 休息が心地よい
死とはまた 枯死 深い休息のようなもの
さらさらと 水が流れている
(p.335)
霧深い縄文杉の木陰で
びろう葉帽子の傘の下で
人は この世の遅い昼食をとる
玄米のおにぎり きゅうりと生みそ 落花生
子供達 あるいは妻 あるいは夫
あるいは愛 あるいは慈悲
あるいは生 あるいは死
霧が流れ 霧がこの世の人の手首を濡らす
KarmaとKamaは同じもの
愛と業とは同じもの
愛は霧 業もまた霧
濃くなってはうすれ うすれてはまた濃いくなり
生命を濡らす
びろう葉帽子の傘の下で
山に登る
人は意志ある水となり
水に濡れて 山に沈む