フィクション論への誘い―文学・歴史・遊び・人間

制作 : 大浦 康介 
  • 世界思想社
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  • Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784790715825

作品紹介・あらすじ

嘘であって嘘でない、本当らしい「遊び」としてのフィクション。フィクションとは何か?なぜ私たちはフィクションを必要とするのか?小説・映画・マンガ・音楽からスポーツ・歴史・科学まで、分野横断的に思索するオールラウンドな虚構研究の書。

感想・レビュー・書評

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  • 三島由紀夫の『宴のあと』や柳美里『石に泳ぐ魚』といった小説で、登場人物の実在性を想起させる表現があり、モデルと思しき人物がプライバシーの侵害を訴えた裁判があった。小説は著者の想像による虚構の作品であるという前提にも関わらず、その一部の記載に関しては、それがウソかマコトかを読み手が判断するのは難しいことを示している。

    このように虚実の判定が難しいという実例は数多く存在する。プラセボ効果を持つ偽薬、ミューラー・リヤーの錯視図形、オレオレ詐欺、絵画の贋作、似非ブランド品、STAP細胞、痩せないダイエット食品、武漢の研究者である友人から届いたという「コロナ対策のための白湯の推奨」のチェーンメールなど。最先端の物理学においても、理論的に予想される物質(1934年に湯川秀樹が予想したパイ中間子など)の存在が、のちの観察や実験により証明されたことは、いくらでもある。誰もが一度は口にしたことがあろう「ブラックホール」でさえ、その予想(1915年)から約100年後に(2019年)ようやく直接的な証拠が得られたのだ。その間、ブラックホールはこの世に存在するとも、しないとも断定できない状態であったといえる。こんな虚実が曖昧な事象を、一括りに「フィクション」と呼べるだろうか。いや、それはあまりに大雑把な分類ではないか。ただし、これらには何らかの共通性があるようにも思える。こうして判断が揺らいでしまうのは、なぜか。簡単なことだ。「フィクション」の意味を、自分なりに定義していないからである。ぼんやりと分かっているつもりでいるだけで、その意味を真剣に追及したことがないためだ。では改めて「フィクション」とは何かを問うてみよう。しかしどこから手を着ければいいのか、わからない。そのとき格好の導きとなるのが本書である。

    この論文集は京大人文研の共同研究「虚構と擬制-総合的フィクション研究の試み」を機に編まれたものだ。序章に加えて13の論文、7つのコラム、8つの文献紹介が収録されている。もしフィクションに興味が湧き、その理論化を追求したくなったら、様々な切り口で考えるネタを提供してくれる。

    たとえばSFの世界。よく”あるある”だが、透明人間はどうか。誰もが一度は邪悪かつ愉快な下心をもって体験してみたいと思った代表格ではないか。しかし、そうは問屋が卸さない。実際の透明人間がいかに苦痛を強いられる存在かが、見事に分析されている。さらに、なんという教訓か。もし目が不自由な人ばかりの世界があるとすれば、その場こそ透明人間が心から寛げる場所になるのだ。それ以外に、遊びとフィクションの近くて遠い関係、歴史におけるフィクション(=if)の役割、精神分析との接点、小説における語り手の機能など実に多様なテーマが論じられる。フィクション性が様々なジャンルで、いかに関与しているかが解き明かされていくのだ。

    難点は各論文の分量が15頁足らずで、やや物足りなさを感じる点である。しかし、それこそ本書の下心にうまく乗せられているのかも知れない。タイトル通り、これは「誘い」なのだ。ホントにのめりこみたきゃ参考文献をどうぞってわけだ。

    ともあれ、こうした議論に不慣れであれば、序章だけは必読である。総論として初心者が各論文やフィクション論を読み解くにあたっての心得を説いている。この領域横断的な学問分野は、まだまだ世間に認知されておらず、その問題意識がどこにあるか、実際にどのような成果が得られているかは全くといいほど知られていまい。フィクションがフィクションであるゆえん、つまりどのような属性を備えれば、それがフィクション性をもつと言えるのか。そして人間にとって、フィクションがどのような効果を生むのか。この定義と効果の問題こそが「フィクション論」の基礎となる。

    フィクションの定義は様々だが、よく使われるのは「共有された遊戯的偽装」である。漢字の羅列で、なんのこっちゃと思われるかも知れない。とどのつまり、フィクションの本質は「偽装」にある。つまり「本物の”振り”をする」ことだ。これは「ごっこ遊び」ともいわれる。これさえ腑に落ちればフィクション論は大いに楽しめる。本物の”振り”をするとは、本物であってはならないが、本物に限りなく近くなければならない、という微妙な状態をいう。近松門左衛門の説く「虚実皮膜論」と同じである。役者でいえば「迫真の演技」である。どこまでも真に迫るが、結局は演技なのだ。刀で切りつけるシーンでは、実際に切ってはいけないのだ。なぜ真に迫る必要があるのか。それは観衆をその時空間にのめり込ませる(=没入感といわれる)ためだ。なぜ本物であってはならないか。例えば悲しみが現実であれば、観客は逆にのめりこめないからだ。悲劇の快というアポリアがそれを説明している。では「偽装」は良いとして、それを修飾する「共有された」や「遊戯的」は何を意味するのか。「共有された」は、作者と読者または演者と観衆が、「これは”振り”なんだよ」と共に認識を共有していること、「遊戯的」とは、その「振り」は冗談めかして故意にやっているのであって、真剣にそれをして受け手を騙したり、真実だと誤解させたりする意図はもたずに、という意味である。そこが詐欺と異なる点である。

    では、フィクションの効用とはなにか。それは受け手が、そのドラマの世界に無我の境地で浸り、事後に強い情動を感じる点にある。この情動が必ず生じるかどうか、それは定かではない。ただ、それを期待しているのは確かだ。これぐらいの確認を済ませれば、あとは各論文を大いに味わえるだろう。ただ扱われるジャンル(小説、漫画、演劇など)が様々でもあり、その分野に関心がないと楽しめないかも知れない。

    個人的に夢中で読めた論文は2篇あった。
    まずはプロレスである。いまやプロレスが筋書きのあるパフォーマンス、つまり八百長であることは常識である(らしい)。勝負の行方と試合の展開が事前に決まっているわけだ。これは一般的なスポーツと全く異なる点である。しかしそれが周知の事実になろうと、プロレスの興行が廃れたわけではない。であれば、八百長の存在が確定される以前と以後では、プロレスの楽しみ方も変質してきたのだろう。それはどういう経緯か?その謎に迫っていく分析が実に巧妙で、読ませるなーーと感心した。たとえば必殺技の力加減を失敗して、それがまさに“必殺”寸前になることもあろう。笑って済ませればいいが、ついカッとなるのは人情である。それ以降、両者が(筋書を無視して)本気で戦ってしまうとする。そういった偶発的な逸脱を「シュート」(=ガチンコ)と呼ぶ。それを実体験したファンもいるだろう。この幸運(といっていいかは分からないが)に巡り合わせた観客は、またもやそれを期待して、いそいそと観戦に足を運ぶかも知れない。しかしシュートだと思った試合でさえ、実は筋書かも知れないという疑念がついてまわる。となれば、ある特定の試合のシュートの真偽を、ファンたちが「そうだ」、「いや違う」という議論を生む。全てがガチンコで繰り広げられるスポーツの世界では、そんな議論は有り得ない。さらにリング外のレスラーの言動でさえ、観客はそれがシュートか否かで論を戦わせるらしい。

    フィクションの本質が「振り」にある点は先に見た通りだが、シュートに関しては、それが振りか否かについて、受け手側は永遠に決定できないのだ。それをやった当事者しか真実を知らないのだから。それは永遠に推理を巡らせることのできる謎になるだ。まるで悪夢を見るようだが、それに憑かれれば甘美な物語となるのだ。

    次に興味を引いたのはヴァーチャル・リアリティ(VR)である。VRは人間の五感に働きかけることで現実感を生み出す技術である。この応用範囲は広い。実物でシミュレーションができない外科手術や、実体験にコストがかかる航空機の操縦、人が接近できない危険な場所でロボットを遠隔操作する場合などもそうである。しかしVRは実物を正確に複製することで、より生々しい体験を生むだけではない。理論的に極限状況(深海3000メートルなど)を設定しさえすれば、人類が未体験の状況を体験することができるのだ。「未体験の体験」とは語義矛盾だが、しかしそう表現するしかない。それは現実の複製ではなく創造なのだ。この形容し難いVRの体験は、現実とは何かを改めて考える契機となる。

    人間は視覚、聴覚などの感覚器を通じてしか現実の情報を得ることはできない。この感覚器は、VRにおけるゴーグルと同じ役割を果たしている。生(ナマ)の現実があるとしても、もし感覚器がなければ、それは我々にとっては実在しないものとなる。であれば、感覚器こそが、そのつどの現実を創造/構成させる機械といえる。感覚器からのデータは、ナマの現実そのものだろうか。感覚器が異なれば、そのデータが異なるとすれば、そのつど異なる現実を体感することになる。ただその比較を同じ土俵で行えないという難点がある。この論点は、泥沼入りするのが確実なので、ここで止めておこう。

    VRはあくまで技術であり、フィクションそのものではない。ビデオゲームなどのフィクションの世界に、それを活用できはする。その際には、ゲームの進展における相互作用と触覚の生成が重要であるらしい。プレイヤーの一挙手一投足でストーリーが分岐する。その変化に応じて、プレイヤーがまた行動する(=働きかける)。その繰り返しである。それによってゲーム世界への没入感が高まるのである。

    また触覚については、こういう話がある。VRのゴーグルなどで視覚や聴覚にリアルな体験をさせると、子供や老人はついその対象に手を伸ばして触ろうとするらしい。つまり実在感のよりどころは触覚なのだ。例えばVRでリアルな人間像が出てきたとする。つい触れようと手を伸ばしたとき、そこに適切な抵抗感がないと、その人間像が一気にリアリティを失い、気味の悪い存在になってしまう。いわゆる「不気味の谷(森政広)」が現れてしまうのだ。今後VRグローブの開発により、リアルな触覚が確保された暁に、ヒトはどんな世界を体感するのか。興味が尽きない。

    ところで、ヒトはフィクションを認知する能力を、どのように手にしたのだろうか。ここでいうフィクション認知能力は、相手の動きを演技だと見分ける能力である。その応用は自身もそれを出来る能力である。もちろん進化によって、というのが答えだろうが、どういう役に立ってきたのか。それは系統発生でもあり、個体発生の問題でもある。幼児が「ごっこ遊び」をできる年齢になり、それに盛んに興じるとき、この能力が発現するまさにその瞬間に立ち会う。フィクションの世界で遊べるのは、自然史を生き抜いた人間が、その能力を、本来の利用目的から離れて、縦横無尽に活用できるからこそである。ヒトという存在は、まことに不思議なものだと改めて感嘆してしまう。

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