- Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
- / ISBN・EAN: 9784791770458
感想・レビュー・書評
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アラブの春やウォール・ストリート占拠など、人々が街頭にあつまり、抗議活動を行うという「集会(アセンブリ)」についての論考。
「街頭」に集まる人を意識してか、難解なバトラーのなかでは、比較的わかりやすく書いてあるという声もあるが、どうだろう?50歩100歩かな〜?
他の本より難しいというわけではないが、他よりわかりやすいわけではない。
こうした人々の自発的な集会は、民主主義の原点であると同時に、どういう方向に進むかわからない恐怖があり、抗議活動参加者vs警察など国家権力という暴力的な対立になりやすい。
ということを踏まえつつ、「新自由主義」によって「使い捨て可能な生」になることを拒否し、まさに自分の身体、生を「現れ」の場に出現させることの重要性を語っている。
そして、経済社会的なマイノリティ、LGBTなどジェンダー的なマイノリティなど、すべての「不安定な生」の連帯を呼びかける。(もちろん、マイノリティの生だけが、「不安定」なわけではない)
この辺のところは、フーコーの「身体性」や「生政治」などの議論、これまでのバトラーのフェミニズムの議論からして、概ね想定の範囲内。
で、理論的なところで、繰り返しでてくるのがアーレントの「人間の条件」の私的領域と公的領域の区分に対する批判。アーレントが私的領域に経済的な問題、生命としていきつづけるための労働を位置付けて、政治的な公的領域と区分しているところが批判の対象。
あと、古代ギリシアでは奴隷や女性に対する差別があってそれが家庭の経済を成立させており、そうした経済事情から独立した男性の市民がアゴラにでて公的領域で政治をやっている、という話。
まあ、そこのところは、たしかに変だよね〜、と私も思うところだけど、アーレントのそこをあんまりつついても仕方がない気がしていて、もっと面白い可能性のあるところにフォーカスしたほうがいいと思っている。
アーレントに対して批判的なバトラーなのだが、バトラーが主張している主要概念は、ほとんどアーレントの「人間の条件」が提示しているものと同じなのだと思う。「現れ」とか、「複数性」とか。
「エルサレムのアイヒマン」での議論については、バトラーも基本、賛成しているように思える。
違いは、アーレントが私的領域とした「身体性」がまさに公的領域の政治課題であるというところ。
というわけで、バトラーにとって、アーレントは乗り越えなければならない思想家なんだな〜、と思った。
内容的には、こんな感じで、アーレントの著作とかもある程度わかってないといけないところもあるわけで、そんなに「わかりやすい」本では、ないかな?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
■一橋大学所在情報(HERMES-catalogへのリンク)
【書籍】
https://opac.lib.hit-u.ac.jp/opac/opac_link/bibid/1001135641
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むずい
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アレント思想の基礎知識が必要。レビューより。
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東2法経図・開架 316.1A/B96a//K