ある駐米海軍武官の回想

  • 青林堂
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  • Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784792604769

作品紹介・あらすじ

上海、南洋、ワシントン、大本営、マニラと、日米戦争の節目を目撃した海軍軍人の貴重な史料。

感想・レビュー・書評

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  • 海兵54期で太平洋戦争に従軍し、戦後は海上自衛隊に入隊、横須賀地方総監を歴任するなど活躍した海軍士官の回想録。主として水上機の搭乗員として、陸上航空基地や「愛宕」「霧島」などでの勤務ぶりが書かれている。また、真珠湾攻撃の宣戦布告が開戦後行われたという不手際に、ワシントンの海軍武官として関わっていたことも書かれている。ただ、すべて当時に書かれたものではなく、戦後数十年経ってから回想という形で書かれているため、あいまいな部分も多く、真偽を含めて資料的価値はさほど高くないと思料。
    「(石川県立農学校へ進学)私は、休暇のたびに帰郷し、私が学んだ農業上の新知識を村人たちに披露したが、彼らは私の仕入れてきた新知識に対して一向に興味を示さないで、かえって「我々には長年の経験がある。青二才のくせに何を言うか」というような態度であった。自分たちの長年の習慣・経験を唯一のものであると考えている彼らには、何の興味もなかったらしい」p18
    「(愛宕飛行長時代)4番艦「摩耶」の飛行長は淵田大尉で、彼は後に真珠湾攻撃の指揮官となった」p61
    「「愛宕」乗り組み中の思い出は、故郷より私の長男が出生するのでどんな名前を付けるかとの照会があったので、士官室で話したところ「愛宕」が良かろう、ということになったので「愛宕と命名せよ」と返事をしたことを覚えている」p65
    「(開戦前夜のワシントンの日本大使館)在留邦人の緊張とは裏腹に、大使館の空気は弛緩しきっていた。一触即発のこの危機に及んでも、駐米日本大使館はすっかりアメリカナイズされた週末ムードにひたっていたのである(鈴木健二著『在外武官物語』)」p128
    「(開戦前夜のワシントンの日本大使館)情報通信課は暗号文の翻訳に励んだが、いつはてるとも思えぬ長文に辞易する空気が大使館の一部にあった。夕刻、(13通中)8通ほど翻訳が終わると大使館員はいそいそとお洒落を決め込んで、メイフラワー・ホテルに出かけてしまった。「明日でいいから片付けて帰宅せよ」との館員の指示で、電信課員も宿直1人を残して引き払ってしまった。同夜は暗号解読の仕上げはもちろん、浄書にも何も至らなかったのである。かくて東郷(外相)発901号の「万全の手配」は完全に裏切られ、大使館員は歓送迎会の酒に酔いしれていた。後で事の顛末を調べようとした東郷(外相)に対し、井口(館務統括)は「あれは自分の管掌事務に非りし為承知しません」と説明を避けたが、説明しようにも説明できない大失態が同夜繰り広げられていたのである」p129
    「(開戦後の鉄道移動)ユニオンステーションで汽車に乗り換えてホットスプリングに向かった。途中、通過する主な橋梁の下は、サボタージュに備えて米兵が警戒していた」p134
    「(搭乗員養成のため学生採用 昭和17年8月)当時はいまだ戦局に対して一般的に楽観的であったのが根本原因でしたが、その反対理由は、今まで不規律な学生生活を送ってきた彼ら学生たちを、一挙に3000名も大量に採用して短期間で搭乗員として養成することは、今まで精鋭を誇ってきたわが海軍航空に害毒を与えて、これを駄目にする恐れがある、というものでした」p147
    「実戦で顕著な功績を樹てた人たちの何人かを内地に呼び戻し、後進の指導に当たらせるという、細やかな私の試みも、前線の指揮官からの名指しの要望で、前線に復帰し目的を果たすことができませんでした」p148
    「(兵学校生徒3000人採用)反対意見に嶋田大臣は「そんなことくらいは私は百も承知で、十分考えての上のことである。しかし、今の兵学校の受験生は、聞くところによれば、その素質は日本全国の中学校から成績の上位の秀才たちが皆兵学校を受験している由である。彼らこそまさに大和民族の宝であろう。しかるに陸軍は、この戦争は本土決戦の最後まで戦うと言っているが、彼らも、放っておけば、そのうち鉄砲を担いで戦場に出て死ぬことになるであろう。それで彼らを今のうちから海軍に取っておき、戦争中は彼らを海軍で温存しておこうではないか。彼らこそ戦後の日本再建のための大切な宝ではないだろうか」とのことでありました」p149
    「それにしても昭和18年は、まだ日本全般は戦勝気分がただよっていた。ミッドウェイの敗戦を知っていた海軍上層部でさえ、わが国の敗戦がそんなに早く来るものとは夢にも思わず、日米戦は何とか有利に終戦を迎え得るものと考えていた」p150
    「「あ号作戦」には、初めて第13期予備学生出身者が空母部隊に配員された。そして遠距離攻撃に加わったのだが、その成果は推して知るべきであったろう。もし機動部隊が近接攻撃に徹していたならば、彼らとて相当の偉勲を立てたことであろう」p156
    「終戦時における帝国陸海軍現有兵力は、陸軍154個師団、主要海軍部隊20個部隊、合計698万3000人であり、このうち日本本土だけでも57個師団、257万6000人の兵力が存在していたのであるが、それが1か月半の後、すなわち10月16日の、マッカーサーの次のような声明によって日本軍の完全武装解除を全世界に知らせるに至ったのである。「日本本土全域にわたる武装兵力の解体は、本日をもって完了し、日本軍隊としての存在はもはやなくなった。すべての日本兵力は、今や完全に消滅したのである。海外の戦場にあるものを含めて、約700万の軍隊が武器を捨てた。歴史の記録に比類のない、極めて困難でしかも危険なこの仕事が、一発の銃声も必要とせず、一滴の流血をも見ないで行われた」と」p201

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著者プロフィール

佐藤守(さとう・まもる)

 1939年、樺太に生まれる。元自衛隊空将。1959年、防衛大学校に入校(防大7期)。1963年、同校航空工学科を卒業し、航空自衛隊幹部候補生学校に入校。1966年、同校戦闘機課程を卒業し、第8航空団第10飛行隊(築城基地)に入隊。1975年、外務省国際連合局軍縮室に出向。1980年、第7航空団第305飛行隊(百里基地)隊長。1981年、航空幕僚監部防衛部防衛課。1987年、幹部学校教育部戦略教官。1990年、第3航空団司令兼三沢基地司令。1994年、第4航空団司令兼松島基地司令。1996年、南西航空混成団司令兼自衛隊沖縄連絡調整官。1997年、任務終了につき退官。飛行時間3800時間、乗機した戦闘機には、F86、F104、F4、F1、F15などがある。ロシア機・中国機へのスクランブルに対応するため現役中から諜報活動にも従事する。
 著書には、『金正日は日本人だった』『実録・自衛隊パイロットたちが目撃したUFO』(講談社)などがある。

「2017年 『宇宙戦争を告げるUFO 知的生命体が地球人に発した警告』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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