- Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
- / ISBN・EAN: 9784794213891
作品紹介・あらすじ
ドキュメンタリーとは事実の客観的記録である-ほんとうにそうなのだろうか?すべての映像は、じつは撮る側の主観や作為から逃れることができない。ドキュメンタリーを事実の記録とみなす素朴で無自覚な幻想からは、豊かな表現行為は生まれようがない。だが、撮ることに自覚的で確信犯的な作品の中には、観る側の魂を鷲づかみにしてきたものが多々ある。本書は、ドキュメンタリーというものが拓いてきた深甚な沃野に向き合い、その悪辣で自己本意で、自由で豊潤な表現世界の核心へと迫るものである。たんなる映画作品論ではない。この現実世界の見方そのものを揺さぶる鮮烈な論考である。
感想・レビュー・書評
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一気に読めた。面白い。
結局ドキュメンタリーというのは世間で認識されているほど“事実”に忠実でないわけで、そこには大きな制作者の作為が入っている。その作為こそが視聴する側が一番面白がるべきところで、作り手の意図を汲み取り、受け取ったメッセージで他の制作者との差別化を図ることの必要性がある…その根拠をもう少し書いてほしかった。(一言でいうと、媒介する人間の必要性って何?)
“やらせ”かどうかは制作者の判断に委ねられる。っていうのがとっても面白かった。
この本が書かれた時代と今は、状況が違っているけども、本から伝わる葛藤はこの時代にもまだ残っていると思う。森さん、コロナをテーマに何か作ってくれないかなーーー!!!
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ドキュメンタリーという名のジャンルにある作品を木っ端微塵に打ち砕く---と思って読んだ本。ぜんぜん違いました。
ウーン、考えさせられる。そもそも著者は『ドキュメンタリというものはドラマと違いはないのだ』という観点から攻めてくる。演出、脚本、演技はドキュメンタリにもある。ただし、その元になっているのが、実際に起こったことを記録、あるいは起こると予想することを取捨選択し、ディレクタ(と呼ばれているのかな?)が表現するために使ったという手段が異なっている点だけ。ようするに素材が違う。これはやはり作る側の論理ではなかろうか? -
ドキュメンタリーと報道は全く正反対の性質のもの。
日本のテレビドキュメンタリーは客観性、中立性、公正中立主義、客観主義とうたうが、ドキュメンタリーは本来作者の主観が入りこむもの。撮る側と撮られる側の交流の中で、価値が生み出されるということ。
という主張にいままでモヤモヤしていた頭が晴れる思いがした。
ただ、報道も同様であろうと思うとどこまでがドキュメンタリーでどこまでが報道なのだろう?というところに興味がわいた。
先人のドキュメンタリー作家たちの、コアな意思が良く出ていて、ドキュメンタリー作品に興味がわいた。
<本に出てきた気になった作家>
小川紳介
土本典昭
原一男
アン・ホイ
イ・ホソプ
スティーヴ・ジェイムス
キム・ドンウォン
エロール・モリス
フレデリック・ワイズマン
ワン・ビン
アヴィ・モグラビ -
図書館で借りた本。
んー、氏の本はこれで5冊目だが、これはあまり面白くなかった。なぜだろう?ドキュメンタリー映画にあまり興味が無いから?それとも最初の時点で氏の考えが分かってしまって、この本は結局その繰り返しだって読みながら思ってたから?
わたしの周りにカメラを回している人がいて、その人を思いながら読んだ。 -
大学1年生の時、マスコミュニケーション論の授業で使われ興味を持ち、読んだ本。これに関連して見た映像で衝撃を受けたことを今でも覚えてる。
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森さんに会ったことがある。ゲストとして大学に招かれ、講義を聞いたときだ。
淡々としゃべり、声が低く特徴があった。物静かな印象を受けた。
ドキュメンタリーに真実はない。
ドキュメンタリーというのは、作り手の主観を基に現実を再構築したものだ。そのなかに作り手の世界観が現れ、現実世界のひとつの見方が表現される。それがドキュメンタリーの面白みであり、醍醐味である。
けど、特にテレビは客観公正中立という建前に逃げ込み、映像とはなにか、ドキュメンタリーとはなにか、と考えることを放棄している。
考えさせられる論考ばかり。読めば読むほど、いまのメディアの問題点が見えてくる。 -
05/17 せんげんカメレオン ¥105
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何とレビューを書いていいのか・・・
ガツンと来ます。彼の言葉がすごくわかりやすい。
私の抱くモヤモヤをガツンと活字で手渡してくれる。
所謂メディアに疑問を感じる人はその答えが見つかると思います。
所謂メディアに既に魅力を失っている人は、その原因を再確認することになると思います。
所謂メディアに拮抗しようとする人は、、、
世間や組織やはたまた個に埋没せず
エゴイスティックに撮りましょう。