ノンフォーマル教育の可能性: リアルな生活に根ざす教育へ

制作 : 丸山英樹  太田美幸 
  • 新評論
3.67
  • (1)
  • (0)
  • (2)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 30
感想 : 4
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (246ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794809605

作品紹介・あらすじ

教育」とは、世界中で同じものを意味するのでしょうか。学校で決められたことを勉強しても役に立たないと感じてしまうのは、なぜでしょうか。教育の機会を求めるのは、自分のためでしょうか。それとも社会のため、あるいは何か別のことのためでしょうか。
 世界各地には、「ノンフォーマル(非正規)教育」と呼ばれる教育実践が数多く存在しています。その形態も内容も多種多様で、共通なのは「フォーマルでないこと」だけのようです。たとえば、発展途上国の教育や国際協力におけるノンフォーマル教育とは、学校に通うことのできない子どもや学童期を過ぎた大人に、限られた資源をやりくりしながら必要な教育を提供することを指します。また、様々な立場の人々が独自の目的をもって展開してきた学校外での教育や、大人が自主的に勉強したい場合もノンフォーマル教育と呼ばれているし、さらには日本の学校内で行われる教育活動のなかにもノンフォーマル教育と呼ぶことのできる要素が含まれます。
 本書では、多様なノンフォーマル教育の全体像を捉えるための枠組みを提示したうえで、世界各地で実践されている様々なノンフォーマル教育を、それぞれの地域の歴史や社会事情などもふまえて幅広く紹介しています。執筆者は、比較教育、異文化間教育、教育開発、教育史、生涯学習・成人教育といった領域で国内外のノンフォーマル教育の事例を調査してきた若手研究者と、国際教育協力の現場でノンフォーマル教育のプロジェクトに携わってきた実務家たちです。
 ノンフォーマル教育について考えるということは、教育のあり方を再考することでもあります。本書は、教育という営みの幅広さと奥深さを示す様々な事例を通じて既存の教育観を問い直し、将来に向けて「別様の教育」の可能性を模索する試みとなっています。(おおた・みゆき)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ノンフォーマル教育について、あますところなく説明されていた。

    ーー
    (丸山・太田(2013)『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。
     
    ・「教育とは、『市民社会もしくは市民社会化されつつある社会に特有の人間形成行為』(中内 2003)であり、つまりは近代社会の産物と言える」(丸山・太田(2013)『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。」

    ・「教育研究においては、教育制度の外側で展開されてきた『非正規の教育』を、総じて『ノンフォーマル教育』と呼ぶことが多い。他方、近代学校に特徴的に見られるような定型的な教育(公的な規定に沿った学校や教室という空間において、教師が生徒に対して、教科ごとに、公的に定められた教育目標のもとでカリキュラムに沿って享受するという一連の教育様式)とは異なる、より柔軟な教育の仕方が「準定型的な教育」の意味で「ノンフォーマル教育」と呼ばれることもある」(丸山・太田(2013)『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。」
     
    「また、経済産業省が日本における市民性(シティズンシップ)教育の向上を目指す立場から2006年に発表した「シティズンシップ教育宣言」においては、「正規の学校のカリキュラムで実施される公的な教育」がフォーマル・エデュケーション」であり、「地域、家庭、NPO、企業など、正規の学校以外で行われる教育」がノンフォーマル・エデュケーション」であるとされている(図2参照)」(丸山・太田(2013)『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。」
     
    ・「ユネスコの教育開発国際委員会が1972年に発表した報告書『未来の学習(Learning To Be)』(通称、フォール報告)では、経済と結びついた「持つための学習(learning to have)」ではなく、より人間らしく生きることを目的に据えた「存在するための学習(learning to be)」が提起された。ここで示された「学習社会」の構想は、教育が学校のみで行われるものではないことを強調し、社会全体が教育の場となることを展望するというものであった(丸山・太田(2013)『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。」

    ・「2000年に欧州委員会が発表した生涯学習に関する覚書」では、「生涯学習の等しく重要な目的」として「employabiiligy(就業能力)」と「active sitizenship(能動的市民参加)」の向上が強調された。「覚書」が出されたのとほぼ同時期にEUの総合教育プランである『ソクラテス教育』において成人教育部門の『グルントヴィ計画』が立ち上がり、職業教育以外のノンフォーマル教育とインフォーマル教育のプロジェクトを支援するものとなったことをふまえると、エンプロイやびりてぃとアクティブ・シティズンシップというEU生涯学習政策の二つの柱のうち、後者の領域においてノンフォーマルな成人教育に大きな期待が寄せられていると言えるだろう。(丸山・太田(2013)『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。」

    ・けいざい会h津協力機構(OECD)が実施する国際性尽力調査(Programme to the International Assessment of Adult Competencies;PIAAC)は、「成人が持っている日常生活や職場で必要とされる技能を測定する大規模な国際比較調査である。2011年から2012年にかけて実施され、日本のほか、OECD加盟国を中心に24か国・地域が参加した。知識経済など近年の労働市場の変化によって、OECDをはじめ諸外国でも坂にに議論されているエンプロイやびりぃてなど生涯学習の成果を測定する要望が高まるなか、PIAACはそれに対応する国際調査として、義務教育を終え、社会に出たものがいかなる能力をもっているのか、また必要とされる能力とは何かを調べることを試みた。

    日本における調査実施の責任をもつ文部科学省国立教育政策研究所によると」「性尽力とは、知識をどの程度もっているかではなく、課題を見つけて考える力や、知識や情報を活用して課題を解決する力など、実社会で生きていくうえでの総合的な力のことを指す」「調査結果は2013年10月に公表され、日本は世界トップの「成人力」をもつと方法されたが、ICTを用いた問題解決能力についてはOECDの平均よりも低かった」『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。」

    ・「学ぶという行為は、本来、生活に深く根付いたものである。第1章でもみたように、かつて子どもは日々の生活や労働を通じて必要な知恵や技を身につけ、やがて独り立ちしていった、近代化の進展とともに人々の生活に定着した学校教育は、必要あn知識の技能の一部を日常生活から切り刃tなされた空間で系統的に伝達することによって子どおの学びを支援するものだが、人々が生活のなかで必要とする学習がすべて学校で得られるわけではない
    学校で学べないこと、学校の外でこそ学べることがあり、それらの学習を可能にする場が多様につくられてきた」

    ・「生涯学習の考え方は、間なうという行為が生活のあらゆる場面でインフォーマルに生じるものであること、そこからノンフォーマルな教育が形作られ、フォーマルな教育につながっていくということを私たちに思い起こさせるものであり、学校だけではない学びの場をつくっていくことの重要性を喚起するものでもある」『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。」

    ・「教育は学校でのみ行われるものではない。また、現在のような学校教育制度の歴史お決して長い小野ではない。ところが現代社会のなかでは、教育といえば学校教育を連想するほどに学校が教育の政界で絶大な権威を振るっている。そうしたなか、学校教育の限界を超えて学習者一人ひとりの学びを大切にするためにノンフォーマル教育の必要性が叫ばれてきたはずである。であるならば、ノンフォーマル教育研究において、個々の学習者の学びの改善に焦点を当てることは、その存在意義に照らして有意義ではないだろうか(丸山・太田(2013)『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。」

    ・「教育研究は、どうしても「公教育」の研究に注目がおかれてしまう。しかし実際には、公教育以外の場(何らかの共通問題意識をもつ集団やコミュニティとのかかわり)で得られる教育効果は、教育を受ける側である子どもたちの人生選択において重要な影響を与える場合が多い。(中略)知育中心の学校教育では得ることのできない「自己実現によるエンパワーメント=社会を耳鼻運のものにするためのプロセス」がさまざまなく冬を凝らして実践されていることに気付く。さらに、こうした考察は、『国民形成』、『人材開発』の場として生きる場所を奪われつつある子どもたちの社会との人体を創造する学校外の教育活動やコミュニティづくりのヒントになるのではと考えて研究を続けてきた」「エンパワーメントのプロセスを重要視するノンフォーマル教育の特徴」

    ・「日本においても、1950~60年代に、民衆文化の創造によって抑圧からの解放を志向する学習文化運動が交流し、『社会教育は対y数運動の教育的側面である』とする枚方テーゼをはじめとして、社会教育の枠を超えて多様な運動と結びつく学習の重要性が指摘されてきた。言うまでもなく、こうした理念も民衆教育と共通するものである。抑圧されてきた人々が、学習を通じて生活を形作る社会的・文化的現実を認識すること、そして自らがその現実を変える力をもっていることに気付くことを、フレイレは『意識化』と呼んだ。フレイレは、種類いの教育概念は、抑圧者が自分に有利な状況を維持するために被抑圧者を抑圧構造に順応するように導くもの、教えられる側の人間の創造y六を最小限に抑えるようなものであるとし、これに対して、抑圧からの解放を目指す新しい教育の考え方を提唱したのであった。

    フレイレによれば、綴じた社会から開かれた社会への移行にとおなって、人間の意識は「非能動的意識」から「能動的意識」へと発展していくとされている。「能動的意識」には、近視眼的、依存的で主体性を書いた「未熟な能動意識」と主体的で開かれた「批判的能動意識」の②段落が想定されている。「被能動的意識」は、フレイレが「沈黙の文化」と呼んだ抑圧の状況にあたり、人々の意識はまだ開かれていない。人々が現実を問題であると認識するようになると意識は能動的になりはじめ、「未熟な能動意識」が生じる。問題を深く分析し、因果関係や付随的な相互関連を洞察することができるようになれば「批判的能動意識」に到達したとみることができる。これが、人々が社会的現実を知るとともにそれを変革する可能性を認識する「意識化」のプロセスであり、人々の意識が最終段階の「批判的能動意識」に到達hしたとき、社会変革のための行動が性格の一部に取り入れられることが可能となる」(丸山・太田(2013)『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。

    ・「公教育修学は子供たちの『市民権』であるから当然重要だが、だからといって公教育を全能的な存在として見なしているわけではない。公正な社会を構築する力をつけることのできる主体的な学びが、公教育の場で展開されているか、批判的思考力が育成されているか、公教育を内側から変革するために何が必要か、ということについて議論する場がなければ、教育は市民権うぃもたらすものにはならない」(丸山・太田(2013)『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)。

    ・「こうしたノンフォーマル教育は、イリイチが『価値の制度化(イリイチが「価値の制度化」(イリイチ[1971=1977])と呼ぶ事態を食い止めようとする実践であるとも言える。イリイチによれば、学校教育生徒が人々の生活に定着したことで、学ぶことを学校に通うこととイコールであると認識されるような事態、学校で得た知識が正答で価値あるおので、それ以外の知識はさほど価値をもたないと認識されるような事態が生じて切る、学校教育制度によって学びの価値が一元化されてしまっており、学食にもとづいて人々が序列化されることが差別や格差を生んでいるのである、こうした事態を食い止めるためには、制度化された学校教育を相対化する必要がある。

    個々人の人生の豊かさは、制度化された学校において善しとされる価値によってのみ決められるものではない。とくに、マジョリティとは異なる価値体系のもとで生きる人々にとっては、自分たちが実験する価値にもとづいて生きることを支える教育が重要となる、教育の場はまた、知識や技能を得るための場であるだけでなく、ともに考える 仲間を得て思考を深める場、脅威感や連帯感を育む場にもなる。経験を共有することで形成される集合的アイデンティティは、社会への異議申し立てを正当化し、社会の変容を推し進める動因ともなりうるのである。』
    ・課外活動は「真正の評価[1]」の実践である。
     

    [1] 現実の生活と類似した状況下で、学習者が獲得した知識・技能・態度を活用して一定の作業を実践させ、そのパフォーマンスを評価するという評価手法(丸山・太田(2013)『ノンフォーマル教育の可能性-リアルな生活に根ざす教育へ―』新評論)

  • 記憶だから曖昧

    ・国の規定するカリキュラムに則った教育→フォーマル教育

    学校以外で行われるある一定の目的を持った組織によって行われる国家カリキュラムに準じた教育→ノンフォーマル教育

    日常生活や環境を通して行われる教育→インフォーマル教育

    ・学校教育では国の目指す教育レベルを満たせない場合に、ノンフォーマル教育という形で教育がなされているケースもある。
    また、貧困のため学校に通えない人を対象に行われることもある。また、子供のみでなく大人が独自の目的を持って自主的に学習する機会をノンフォーマル教育とも呼ぶ。
    非常に多種多様。

    ・朝鮮学校などもその一例。民族としてもアイデンティティを守るための教育がなされている。

    ・学習する場は学校、子供に限らない。イリイチの脱学校理論にもあるように、学習機会と学習者をつなげるネットワークの構築こそが、多様な人々が学びにアクセスする際に重要。

    ・ASニイルのサマーヒル・スクールのように、自由の哲学を持つ反権威主義の「世界で一番自由な学校」もその一つ。

    ・完全に、子供が自治を行なうミニ・ミュンヘンもその一つ。貨幣制度や教育制度、市場の経済活動やそのための学習機会の提供など、すべて子供がとり決める。

    →質保証についてクリアできれば、今後は資本が豊富な人ほどフォーマル教育とノンフォーマル教育のハイブリッドになるんじゃいか。とくに生涯学習が促進されていく社会にとっては、確実にノンフォーマル教育の普及が進んでいく。ノンフォーマル教育の充実している地域の子どもたちのその後の階層移動や進学実績などとの関係性が気になる。ただ、ノンフォーマル教育はあまりに多様なので簡単には分類できない。

  • 学校で行われている教育だけが教育ではない。世界各地で実践されているノンフォーマル(非正規)教育を紹介し、教育という営みの幅広さと奥深さを示します。OPAC → http://t.co/hJDdcP9ggF

全4件中 1 - 4件を表示

著者プロフィール

上智大学グローバル教育センター准教授。専門:比較教育学、教育社会学、国際教育協力論。主な著書:『トランスナショナル移民のノンフォーマル教育:女性トルコ移民による内発的な社会参画』(明石書店、2016年)、『グローバル時代の市民形成〈岩波講座教育 変革への展望7〉』(共著、岩波書店、2016年)、『ノンフォーマル教育の可能性:リアルな生活に根ざす教育へ』(共編著、新評論、2013年)。

「2017年 『移動する人々と国民国家』 で使われていた紹介文から引用しています。」

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×