- Amazon.co.jp ・本 (323ページ)
- / ISBN・EAN: 9784794923394
感想・レビュー・書評
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原著1954年、1956年刊。
人類学の「トリックスター」テーマの古典的な書物。
アメリカの人類学者ポール・ラディンが採集した北米先住民族(いわゆるインディアン)の神話群が本書前半を占め、次いでこれについてのラディン自身の解説、ギリシャ神話研究で知られるカール・ケレーニイ、およびカール・グスタフ・ユングのエッセイが収録されている。日本語版ではさらに山口昌男さんの「今日のトリックスター論」が追加されているが、これはつい先に私が読んだ山口昌男『知の祝祭』にも入っていた文章だ。
前半のトリックスターを主人公とする物語は、奇想天外なもので、読んでいて楽しい。トリックスターは神のようにも悪魔のようにもなり、いたずらを仕掛け・仕掛けられ、失敗したり成功したり、様々な動物にも変身する。男性なのに女性になって男性と結婚し子供を産んだりもする。
トリックスターtricksterは英和辞典ではペテン師、手品師などと訳されるが、日本語のニュアンスでは「いたずら者」とするのがしっくりくるようだ。
カール・ケレーニイによると西欧近代小説の黎明期に書かれた「ピカレスク・ロマン=悪漢小説」のピカロ=悪党もトリックスターの一種だという。
狡猾で愚かなトリックスターは日常的な秩序を揺るがせつつ、意外な結びつきを開示することで、哄笑を誘う。そこに社会変革のメッセージは無いが、語る者・聴く者の心に一定のパースペクティブを恵与するのである。
山口昌男さんの周縁論から本書にたどり着いたのだが、総じて割合に古典的な書物で、ユングの論は彼独特の思想を語ってはいるが短すぎてその展開は十分ではなく、何となく物足りなさも残るのだが、これを踏まえてさらに色々探索を進めたいと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
破壊と創造、おわりとはじまり、そんな場所に彼は立っている。風のようにやって来て、人々に愛され、人々に追放され、彼はこの地球を巡る。
何処へ行こうと、どんな時代に遡っても、彼と出会う。それが不思議でならなかった。そして、そのイメージは、遠い古のインディアンたちが描いたイメージとぴたりと重なるのだ。姿かたちは異なれど、持っているそのおどけた不思議な魅力が世界に始まりと終わりをもたらしてくれる。
どういうわけか、彼なしでは生きてゆけない。けれど、彼と同じように生きることはできない。なぜだか彼はそこにいて共に生きてしまっている。触れることができない故の渇望。
このトリックスターが自己実現の契機となるのは疑いえないようだ。ユングはそれを無意識が求めるときに現れるとした。自己実現の過程で元型が保障的にトリックスターとして顔を出すのだ。ひとが彼の神話を飽きずに語り継いできたのは、そういう無意識という自分ではない何者かによるのだという。ユングの無意識は根源的でぽっかり空いた宇宙のようだ。
トリックスターは存在の弁証法だ。同じであるのに同じではいられない不断の変化。どこにでもいるからどこにもいない。自分であるのに、自分ではないものを抱えて生きる、そういうものだ。トリックスターは矛盾を矛盾のまま生きている。だからこそ、いつまでも色褪せずひとを魅了する。 -
本書はあるインディアンのトリックスター神話の内容と、それを受けての分析・思想からなる。
ウェンディゴ族のトリックスターの話はなんだか頭が揺らされるような展開の連続で、自分の世界観のコリみたいなものが少しほぐれたような気がした。荒唐無稽が心地良いというか、少し童心に返ったような気分。
分析のほうでは特に、トリックスターが境界に位置するということ、その両価性を指摘しているところが最も個人的に興味のあるトピックだった。また、神話の中でトリックスターは<最初の人>と扱われているが、タロットカードにおいて0番に位置づけられる<愚者>との類似性についても気になるところ。これは本書では触れられていないけど絶対誰かがやっていると思うので、あれば是非とも読んでみたい。 -
ケレーニィ先生とユング先生とは、実はずっと早くから付き合いがあったようですね。ユングとトーマス・マンとの書簡集もありますが、ケレーニィはその二人とそれぞれに書簡をやりとりしています。
んー、世界は狭い。というか、つまりは学問(に限りませんが)は、結局、トータルにならざるをえないのだと思います。