- Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
- / ISBN・EAN: 9784794970718
作品紹介・あらすじ
東日本大震災で津波の甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市。絵と言葉のアーティスト・瀬尾夏美は、被災後の陸前高田へ移り住み、変わりゆく風景、人びとの感情や語り、自らの気づきを、ツイッターで継続して記録、復興への“あわいの日々”に生まれた言葉を紡いできた。厳選した七年分のツイート〈歩行録〉と、各年を語り直したエッセイ〈あと語り〉、未来の視点から当時を語る絵物語「みぎわの箱庭」「飛来の眼には」で織り成す、震災後七年間の日記文学。
感想・レビュー・書評
-
東日本大震災をきっかけとして、被災地である陸前高田市に住むこととなった筆者が、写真館で勤務しながらツイッターに投稿した内容を紡いだ本です。7年間に亘り、現地で発したツイッターを読んでいると自分自身も現地にいて、現地の空気を吸っているような感覚に襲われました。現地にいることで見える風景があると思っています。外から見ただけでは分からない風景があると思っています。私はこの本を読みながら「復興」とは何だろうと考えました。読み終わったとき「復興」とは、道路、建物を作るということだけではなく、その地に暮らす人々の気持ちが立つ、気持ちが前向きになっていることが「復興」ということなのではないかと思いました。
・平成23年8月10日
「五日間お世話になった札幌からフェリーにのり、仙台へ。明け方仙台港に近づくと家屋の破片と思われる木材たちがぷかぷか浮いていました、浮かぶ木片にカモメがちょこんと座っていたのが印象的でした。」
まだ、瓦礫のようなものが海に浮かんでいる様子がよく分かります。その場の描写が素晴らしいです。
・平成24年7月17日
「夕方、流れたまちを歩いていたら、広い花壇が出来ているのを見つけた。水をやっていたおじちゃんに聞いたら、ここにあった町内会一帯に広がる花壇を作りたいのだと言う(かなり広い)。このまちはまだ復興しないのかって言われたら悔しいから、こうして花を植えたんだ。このまちの人は何もしてないって思われたら悔しいから」住んでいる住民の方の矜持を見せられた気持ちになりました。
・平成25年2月2日
「バイト先まで歩いていたら、いつものおばちゃんに会った。春めいて、なんだか元気そうだった。私最近あそこでバイトしてますって言ったら、おばちゃんは、あら、あの方には津波のとき本当にお世話になったわ。大変なご苦労だったと思うの、私、いつも労ねぎらいたいと思っているのよ。と言う。労うという言葉が、いまとても必要なもののように思えた。その人の努力を、涙を、気遣いを、労う。ありがとうと伝える。あなたがいたから、私はいま、こうなのよ。すこし突飛かもしれないけれど、労うこと、感謝することは、弔うことと近しい感情から湧くもののような気がしてる。」
人がお互いに労うということ、とても素晴らしいことであると思います。
・平成26年6月19日
先日来てくれたおばちゃんから電話があり、午後に遺影の撮影。おばちゃんはきれいにお化粧して上半身だけ正装してやってきた。おばちゃんも私も緊張していた。すこし話しながら、でもやっぱりやわらかい表情の方がおばちゃんらしいやと気づく。緊張しますねって、笑いあいながら撮影する。来月娘に会うからね、娘にどの写真がいいって決めてもらうの。ずっと持っててくれるのはきっと娘だもんねえ。娘にとっての、お母さんらしい顔がいいよねえ。私が思う私じゃなくって、娘にとっての私がいいかなって、そう思うの。私、いままでの写真、流しちゃったもんね。だからせめて、ねぇ。」
津波で写真が流されてしまった方が自分の葬式に使う遺影を撮影しに来た時の会話です。ぐっと胸に来ました。
・平成27年11月16日
「記録はいつ終わるのだろう、という問いと、被災地はいつまで被災地ですか、という問いは似ているだろうか。「うしろを向きながら前に進むことにした」この言葉を話してくれた人が、ふたりいる。それは感情としてのうしろ向きではなく、過去を見て、それに触れながら、更には掘りながら、歩いていくという決意のことではないだろうか。その歩き方は一見、不器用に見えるかもしれないけれど、それを実践しようとする身体は、とても信頼できるように思える。過去という手綱をしっかりと握ろうとすること。そうしてやっと私たちは、目の前にある課題や困難に向き合う準備ができるのかもしれない。」過去をしっかりと見ながら、前進することの大切さを語ってくれています。
・平成28年2月27日
「いま目の前にあるのは、自然を圧倒的に征服してしまおうとする態度であって、ヒリヒリと痛い。これは誰の意思なのか、願いなのか。」復興の名の下、被災地を大きく作り替えようとしている状況に疑問を投げかけています。
・平成29年12月20日
「ふと、ここに死者の居場所はあるだろうか、と思う。このまちに死者たちを招き入れることはできるだろうか、と想像してみる。どのように、ともにいることのできる場所を、そのための所作を作っていけるのだろうかなあ、と考える。」街が新しくなったことで、死者を受け入れる雰囲気がなくなることを懸念しての思い、私も共感しました。
・平成30年3月11日
「陸前高田の友人たちのSNSには、真新しい防潮堤から、亡くなった人の数だけの白い連凧が上がっている写真が並んでいた。空へと続く糸がしっかりと握られた手には、上空の空の振動が強く伝わってくる。自分たちが確かにいる現在の地面から、高く遠い、いつかの空へ。そこにいる誰かへ。」
亡くなった方の魂が、大きな空へ向かい、我々を見守ってくれていると思いました。温かい気持ちになりました。
筆者とこの素晴らしい本を出版してくれた晶文社さんに深く感謝いたします。この本を読むことにより、被災地に対し、精神的に継続して関わることができました。ありがとうございました。この本は、「復興」するということはどういうことなのか真に分かる素晴らしい本ですので、みなさん、是非、手に取ってみてください。震災文学の最高傑作と言っても決して過言ではないと思っています。お読みいただきありがとうございました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
筆者は、東日本大震災の被災地に通い、その後、陸前高田に住み、働き、また、仙台に引っ越してからも継続的に陸前高田をはじめとする被災地に通い続けながら、絵画や物語、映像といった作品をつくり続けているアーティストである。
その筆者の震災直後から7年間のSNSでのつぶやきを時間の流れに沿って振り返った本になっている。
SNSでの筆者のつぶやきがほぼそのままの形で連ねられることで、そのとき、その場所で見たこと、語られたこと、感じたことが、2011年でも2018年でも、同じような解像度で伝わってくる。
であるからこそ、被災地のそれぞれの人の想いも、筆者の考えも移り変わっていく様子がよく分かる。
震災から1年目。被災地に通うこと自体の是非や、受け入れられるのかという不安といった筆者の心の揺れや、津波で流されたまちのなかで、被災地の人がそれぞれの失ったものをどのように受け止めればよいのか、手探りの状態で時間を過ごしていたこと、そしてそのような中で、筆者が津波で流されたまちを「うつくしい」と感じることに戸惑っていることが、日々のつぶやきのなかで混ざり合いながら伝わってきた。
その後、復興工事が始まる。津波で流された昔のまちの上に10mの盛土をするという大規模な嵩上げ工事が行われた陸前高田は、様々な復興工事の行われた沿岸の被災地のなかでも、復興工事に対して特別な向き合い方が求められてしまった場所だっただろう。
二度目の喪失という言葉が多く出てくるが、震災から3年間でまちのなかにでき始めてきた弔いの場所、集いの場所、暮らしを立ち上げ始めた痕跡でもあるプレハブの店舗、そして過去のまちの記憶をとどめてきた昔の道や駅のロータリーが、一度に盛土の下に覆い隠されてしまう。
震災直後に失った命や暮らしとの向き合い方を手探りで見つけはじめ、それがまだ定着していないうちに、新たな喪失に向き合うということが、どれほど大きなことだったかというのが、一人ひとりの語りのなかににじみ出ている。
しかし、嵩上げ工事が終わったときに、新しい市街地のなかに少しずつ立ち始める住宅や、夜の灯りも、まちの人たちのなかに、新たな気持ちが生まれてきている。新しいまちの灯りをみることで、これまで感じてはいけないと思っていた「うれしい」という気持ちを初めて感じてよいと思える被災者の気持ち。
亡くなった人たちを想い、その人のためにもまちを復興させなければという想い、荷物が、少し解き放たれた時間なのかもしれない。
また、10m下に埋まった昔のまちと盛土の上に新しく作られるまちという、二つのまちをそれぞれ心のなかに持つことで、震災前の人やまちとのつながりを忘れず、新しいまちで暮らしていくというすがたは、起こってしまった震災や、進んでいく復興と折り合いをつけながらそれぞれを大切にして生きるための、真摯な生活の知恵であるように感じた。
この7年の経過は、復興に向けた一連のプロセスとして捉えてしまえば、そのように捉えられなくもない。しかし、この本を読んで感じたのは、そのような一つのゴールに向けた経過ではなく、むしろそれぞれの時間がそれぞれに大切だったのではないかということだ。
このような大きな災害が起こったとき、その時その時で、目の前の出来事や失ったものと向き合いながら生きていかなければいけない。同じことは二度と起きないし、失ったものもそれぞれに違う。それを、復興への大きなストーリーの中に一元的に回収してしまうのは、乱暴すぎる。
日々を生きていくことも、亡くなった方と向き合うことも、また新しいまちを作ることも、そうして一つひとつのいまの心や気持ちに向き合いながら時間を過ごしていくことなのだということが、感じられた。
筆者は、記憶すること、残すことの大切さを想ってこの本をまとめたのだと思うが、その際に、日々のつぶやきを連ねていくという形をとったことで、2019年の出版時から振り返ったそのときの気持ちではなく、それぞれの時間のそれぞれの想いが、伝わってくる。
そのことで、混沌としながらも目の前のことに向き合うことで乗り越えてきた7年間の時間が、本当の意味で描写されたのではないかと思う。 -
あわいゆくころ
著作者:瀬尾夏美
発行者:昌文社
タイムライン
http://booklog.jp/timeline/users/collabo39698
東日本大震災で陸前高田で震災後を生きる -
A
-
女子栄養大学図書館OPAC▼ https://opac.eiyo.ac.jp/detail?bbid=2000057466
-
「見るのが辛いと言って、流されたまちに降りてこなかったおじちゃんと、一度だけここを歩いた。草だらけになった自分の店の跡地を見て、ごめんなあと泣いていた。いま彼は空の上で、何を思っているのだろう。」(p256)
「流された土地に広がっていた、あの花畑は一体何だったのだろう?もしかしたらそれは、(結果的に)その土地への死化粧だったのかもしれない。
そこへ出入りする人びとがともに手をかけて風景に色をさす、一つのお別れの作法。」(p271)
「何かをつくるやつは距離を保て」(p275)
「大きな破壊のあと、まちの人たちが壊れたものを丁寧に取り除いてやっと手に入れた、過去の痕跡と現在が視覚的に混じりあう“あわいの時間”がそこにあったのだろう。(p277)
2011.3.11東日本大震災からの東北への関わりを通して、作者の繊細な感受性は表現力を磨き爆発させている。
災害に遭った土地で状況を受容せざるおえない人々に正対し、悲しみ・喜び・暖かさそして慈しみを共に育む抒情詩。読者にも心を暖め希望に繋ぐ秀作である。