- Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
- / ISBN・EAN: 9784796660327
感想・レビュー・書評
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テーラワーダ仏教の視点から、般若心経を読み解く。単に「間違い」の指摘だが、そこから、本来の仏教の考え方が理解できるようになっている。
ちょうど並行して読んでいた飲茶著「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」にも般若心経の解説があり、視点の違いが面白かった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
食べなければ空腹感じる・・・苦。ケガをすれば痛みを感じる・・・苦。苦によって生命機能が保たれている。よって、生きていくことが苦に満ちているのは当然のこと。
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言われてみれば、スマナサーラ氏の言う通りだ。この本読んで、いろんなことに気づかされた。
般若心経が間違ってるのは
◆アヴァローキテーシュヴァラが、サーリプッタに教えを説く、という構図がおかしい。
サーリプッタは「行を完成させた人」アルハットなのだから。
まだ目覚めていない者ボーディサットゥヴァが、行を完成させた者アルハットに対して教えを説いてはいけない。関係が逆だ。
◆仏教じゃない。
アヴァローキテーシュヴァラ(観音)という架空のキャラクターが教えを説いてるのだから、ボーディサットゥヴァの教え「菩薩教」であってブッダの教え「仏教」ではない。
他の大乗経典でも、架空のキャラクターはイロイロ出てくるけど、少なくとも、「ゴータマ・ブッダがこのように語った」という「仏教」の形式だけは守っている。
◆空について喋りすぎ。
たしかにゴータマ・ブッダも、アートマンは無い(無我)と述べ、縁について語り、すべての物質的現象には固有の実態がない(空)と語っている。
しかし、この経のようにゴチャゴチャとは述べていない。
もっと単純でスッキリしてる。
この経は、ナーガルジュナが書いたと言う説もあるし、オレもそのように考えていたのだが、スマナサーラ氏は、もしナーガルジュナが書いたのであれば、もっと論理的に書けたはずだ、という。なるほど。
ブッダの法は、形而上学的な議論をするための思想信条ではなく、もっと、より良く生きるための実践的な方法なのだ。ヴィパッサナーみたいな。
哲学的な戯れの議論は、ゴータマ・ブッダが最も退けたものなのに、般若心経は戯れすぎなのだ。
ただ、スマナサーラ氏も、間違ってると思う。
それは、多くの日本人にとって、このお経は、分けが分からないところが有り難いとされ、意味も分からず崇め奉り、いくつもの自己流の独りよがりな意訳がつくられ、写経などするだけで、ご利益が得られる、という、お手軽なご利益信仰として受容されており、そういう日本文化の文脈において、このような批判的な言説を述べることは、様々な敵対者を作ってしまう危険性があるから。
ブッダは、何らかの宗教や主義主張を狂信的に信じる人たちと議論することは何の得にもならず、時間のムダだし、メンドくさすぎるので、そういう行動は注意深く避けるべきだとしている。
スマナサーラ氏のこの著作は、この点で、仏教に反している。 -
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日本で上座部仏教が伝統的に人気がない理由が分かった気がする。日本人からすると「鼻につく」んだよね。確かに釈迦が言っていた事により近いお説教な...日本で上座部仏教が伝統的に人気がない理由が分かった気がする。日本人からすると「鼻につく」んだよね。確かに釈迦が言っていた事により近いお説教なのかも知れないが、どうも大乗仏教に染まってきた人間からすると偏狭というか、高慢に見える。さらに教えそのものも、「それって本当に望まれる人の生き方なのか?」という疑問も持ってしまう。
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なるほど。そうだったのかもしれません。参考にさせていただきます。2012/03/18
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世の中は無常で、生きるとは苦である
般若心経を明確に解説したもの -
p81
道徳が破れるまで語ってはならない
宗教に興味を持つ人は、何かしら苦しんでいるのです。だから宗教は、苦しみに対する答えを出さないといけないのです。「そんな苦しみなんかはないんだよ」と言っても、それは答えになりません。だから私が批判してるところは、「空論を語るのはかまわないけれど、語ると、私たち一人ひとりがどうするべきか、ということが言えなくなってしまうではないか」ということです。つまり「あなた方はやり過ぎだよ」と言いたいのです。「般若心経」の作者は、言葉を使う程度がわからなくなって、操縦がきかなくなっているのです。それはブッダの立場からすれば「やり過ぎ」なのです。言葉を使うときは語り過ぎには気をつけること。そうしないと、どこまでも、頭の考えだけで飛んで行ってしまうのです。「般若心経」ではどこまでも観念を回転させて、結局、修行も道徳も成り立たないところまで脱線してしまいました。道徳が成り立たなくなったので、宗教としても人々を引き付ける力がなくなってしまったのです。何を語るにしても、道徳が破れるところまで語ってはならないのです。話の内容がいくら緻密であっても、道徳が成り立たないような結論に至るならば、お釈迦さまはそれを「邪見」の類に入れるのです。
p108
龍樹の失敗は、「哲学を作るなかれ」というお釈迦さまの戒めを破ったことなのです。「ブッダの教えを争論のために、他の人の教えを破るために使うなかれ」というのは、お釈迦さまのキツイ戒めでした。仏道は、自分でやってみるための教えなのです。龍樹は空を哲学化することで、目の前にあった「仏道」を見失ってしまったのです。教えは、生きている人々の役に立たないといけません。お釈迦さまは他宗教をそんなに真剣に批判しない。しかし道徳が欠けているときは厳しく批判するのです。道徳が欠けている教えは無駄話です。「私はどうすればいいのか?」という躾がない教えには、なんの意味もないのです。語るなら、何か人間のアドバイスになるもの。実践できるものを語らなければならないのです。
p110
人間は死ぬことからは免れません。そこに空論者が来て、「あなたはどうせ死ぬのだから、雷から身を守ったって意味がない」と言っても、それはただの極論であって、生きるうえで役に立たない無駄話です。「自分を守って気をつけて生きなさい」という基本的な道徳までも壊してしまう危険な話でもあるのです。「どうせ死ぬのだから、雷に当たってもいいじゃないか」と言って、それを聞いた人はどうやって幸福に生きられるのでしょうか。無責任です。ですから語るならば、役に立つように語らないといけないのです。「こうしなさい」という提案がないといけない。ただ観念的に「苦集滅道という四聖諦はない」という権利は誰にもないのです。言うべきなのは「苦集滅道はこのように理解してください。その方があなた方の役に立ちますよ」という慈しみからの提案です。
p138
「人間は何をやっても結局は死にますよ」というのは事実です。それだけを極論にして一つの哲学体系を作ったとしましょう。「何をやったって結局死にますから」と極論に浸ってしまうと、「何もやらなくていい」という結論になるでしょう。そういう方向に持っていけます。「勉強しなくたって、仕事しなくたって、どうせ死にますから」と。もしお母さんが病気で倒れて看病しなければいけない状況でも、「どうせ死ぬんだからいいや。意味がない。今は風邪で倒れているけど、いつか死ぬからまぁいいや」ということになってしまう。そうしている間に、風邪をこじらせたお母さんが肺炎になって死んでしまうかもしれません。道徳が木っ端微塵になってしまっているのです。(略)確かに一切の現象は空です。しかし仏教では空論は語りません。その代わりに無常論を語るのです。それはわかりやすくて手に掴みやすい事実だからです。無常は、「今のある現象が変わっていっても、また次に別の現象がある、また変わっていって別の現象がある」ということです。だから、そこから「どうすればいいのか」ということが導き出されます。
p140
全部空っぽだと言ったら、人を殺したってそこに実体がないということでしょう?殺された人には実体はないし、殺した人にも実体がない。空ですからね。だったらべつに、殺したっていいじゃないか、と言えてしまうのです。(略)空論を突きつめて意味が成り立たなくなったところで、経典自体の意味もなくなります。そこで「修行しなくてもいいんだ。頑張らなくてもいいんだ」という、本来怠け者の人間が聞きたくてたまらないことを言って、リップサービスをしてしまうのです。人間は性格が悪いから、自我があるのだから、「あなたは世界一だ」と言われると気分がいいのです。怠け者だから、「気楽でいいんだよ。頑張らなくてもいいんだよ」と言われると、とっても気分がいいのです。しかし、それで人格向上する、人間として進化するということは成り立ちません。ただひたすら堕落してしまうだけなのです。 -
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