- Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
- / ISBN・EAN: 9784800300195
作品紹介・あらすじ
一揆の思想と行動原理は、現代のソーシャル・ネットワークに通じている。新進気鋭の歴史学徒が、一揆の本質を解明し、混迷する現代社会を生き抜くための新しい「ソーシャル・ネットワーク」のあり方を考察する。
感想・レビュー・書評
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視点が面白い。
アラブの春におけるフェイスブックやツイッターなどSNSの活用も、一揆みたいなもの?
松岡正剛が、この本をピックアップしてた。
http://1000ya.isis.ne.jp/1532.html
松岡も言ってるけど、日本においては、一揆の研究は極めて重要。
その理由は、日本では「革命」の名のつく社会改革史が無いから。
でも、オレは、一揆って、革命の一種じゃないの?って、そういう疑問がずっとあったんだよねー。
松岡は書いてる
「
日本の一揆には「体制打倒」や「体制転覆」の計画がない。トマス・ミュンツァーの農民蜂起やパリ・コミューンなどに匹敵する思想性があるわけでもない。一味同心した者たちが心を合わせた土発活動なのだ。
」
これは、著者の主張していることと同じ。
著者は、一揆を「革命」のイメージで描こうとしたのは、戦後、主流であったマルクス主義歴史学の願望であって、実際の一揆とは、そういう政治的なヴィジョンを持たない、民衆のネットワークによる、お祭騒ぎ的なものに過ぎない、という視点。
たしかに、オレも現代の様々なデモに参加するが、それらはインターネットやツイッターで繋がった、お祭騒ぎに過ぎず、現実に政治を動かす影響力はなく、それだけの覚悟と現実的なヴィジョンを、自分自身としても、持っていない。
また、一揆的なデモンストレーションの盛り上がりが今よりずっと過激であった時代の、たとえば全共闘の運動も、結局は、時代的な大流行となったお祭騒ぎであって、丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ日本の政治システムについては何一つ変革することができず、流行が終わってしまえば、皆んな長かった髪を切って大企業に就職するという、極めてバカげた空疎なものであったわけだから、マルクス主義歴史学が流行遅れになった後に、こういうシラけた歴史観が出てくるのは当然である。
でも、本当にそれだけなのか?
トマス・ミュンツァーの農民蜂起やパリ・コミューンには高度な思想性があってけど、一揆にはそれが無かった、という見方には同意できない。
多くの一揆が、SNS的な繋がりによるお祭騒ぎ的なものだったとしても、たとえば100年以上も続いた加賀の一揆などの、一部の一揆には、それなりの、命懸けの思想と闘争があったはず。
でも、ヨーロッパの農民蜂起はその後の近代国家や民主主義の形成に繋がったのに、日本の一揆は、民主主義まで発展することはなかった。
なぜ?
そこが一番知りたかったとこだし、そこのところの記述が少ない。
もっと掘り下げて欲しかった。 -
連帯
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本著の中でも紹介されているファミコンソフト「いっき」。
ああ、そういうのあった!と懐かしくなりましたが、確かに一揆というと竹槍持っての武装蜂起というイメージなんだよね。
(1980年生まれの著者がよくそんなの知ってるな、という気はしたけど…)
ところが、そういった竹槍武装蜂起イメージの一揆というのは「階級闘争史観」に囚われたものだと著者は断じます。
明治初期のほんの10年間ほどに発生した「新政府反対一揆」に限られるものであると。
中世・近世の一揆(国人一揆、一向一揆、土一揆、百姓一揆、etc)は、体制転覆を目指したようなものではなく、体制の存続を肯定し、体制内での地位向上、待遇改善を目指し、権力者に対してアピールを行うものであった。
現代で云えば、強訴はデモであり、逃散はストライキであると。
労使協調を前提とした「春闘」や、現実的・具体的な解決策を提示しない「反原発デモ」という喩えが、非常によく腹に落ちます。
これとは別に、一揆には「契約」という側面をもった形態のものがあったことが解説されます。
交換型の一揆契状を取り交わし、同盟関係を結んだり、親子契約・兄弟契約を締結したりする。
地縁・血縁ではなく、「ルール」を基盤とした関係を構築する点で、著者はこれらを現代におけるSNSになぞらえます。
ただ、こっちの喩えはわかるようでイマイチわからなかった。
とにかく、「春闘」や「反原発デモ」のイメージがとてもわかりやすく、日本人って昔も今も変わらんのね、というか、これから先もちょっとやそっとじゃ変わらんのだろうな、というのが最も印象に残りました。 -
応仁の乱 → 戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか → 一揆の原理と呉座 勇一の本を連読。
本書は途中で読むのをやめようとしたが、「次の章まで」ともう一歩踏み出したのが良かった。そこから俄然面白くなった。
筵旗立てて竹槍や鎌鍬持って土煙を上げ突進するという一揆のイメージが完全に覆った。武士同士の一揆、二人だけの一揆・・・そもそも「揆」とは、はかりごととかやり方という謂いであったのか!無知って悲しい。
強訴(嗷訴)は他の二冊でも触れられているが、「強請(ゆすり)たかり」の類ではなく、理にかなったデモであったとは・・・ -
【由来】
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【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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炎上ネタ
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日本前近代(主に中世)の一揆について、これまでのマルクス主義歴史学に基づく「階級闘争」であったという評価を斥け、「人のつながり」の一類型であったと論じている。著者のマルクス主義歴史学批判はややステレオタイプで雑な気もしたが、主張の大筋は納得できた。特に、江戸時代の百姓一揆が、幕藩体制を容認したうえで非武装で行われていたということが史料的根拠に基づいて指摘されていたのは目から鱗だった。
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[配架場所]2F展示 [請求記号]210.4/G74 [資料番号]2013100267
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Lv【初心者】
・とにかく面白い歴史の本が読みたい方
・徳政~有徳人~一揆などの中世の概念を掴みたい方
・平一揆って武士で農民一揆とはイメージ違うんだけど?
とお悩みの方
正直自分でもこのカテゴリ(室町期)にいれてしまうのは勿体無い。
けれど他の「破産者たちの中世」「室町人の精神」「大飢饉、室町社会を襲う」と合わせて読むと非常に面白い!
とにかく一読をオススメする。
一揆と...
一揆といえばズバリ松永伍一の『一揆論 情念の叛乱と回路』(1971年 大和書房、後に講談社文庫)に強く魅かれた私は、この民衆の叛乱というテーマにいかれてしまって、遠く千年王国主義くらいまでいってしまう始末です。
lacuoさんのレビューからは、この著者は単なる若い日本史学者で文献研究も思索も不足しているんじゃないかという感じです。といっても、緻密な学問的な学者の論文よりも、大いなる想像力でたとえ逸脱していようが説得的な独断と偏見で血わき肉躍る論考の方を好む私ですが。