- Amazon.co.jp ・本 (90ページ)
- / ISBN・EAN: 9784806047032
感想・レビュー・書評
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9世紀は幸せを象徴する日曜日の世紀、その時代に生きた詩情あふれる孤高の詩人の歌。老境に入った心境が痛切に感じられる珠玉の3篇に出会った。現代に通じる独白である。陶潜、蘇軾、竹林七賢の系譜に属する人が清にもいたのだ。閑雅、高潔、謙虚な人柄に心が洗われる。和文・漢文のほか、英国人ウェーリーが愛し、訳したという英文もゆっくり味わいたい。
「病気になって妻が最良の友ということにはじめて人は気づく……
私がうまく寝つけたかその様子を見るために妻よ、お前が
鶏が二回鴫くまで待たず来てくれるかと思うと心が動かずにはいられない。」
「三月が来た。私は家郷を離れていたが、/突然五十の歳がこの身に跳んで来た。
朝早く目を覚まして今日が誕生日ということを憶い出した--
ひとり孤独な白帆のかげに坐していた。人生の最初の成功は私がまだ若造のころに訪れた、/それでまだ歳月はたっぷりある、と思う癖がついた。/
五十過ぎの老人に会っても/それは自分に関係ない、と思っていた、(略)
ところがいまなんと五十になってみると、/光陰矢のごとし、時は恐ろしい速さで飛んで行く。(略)
さて私はといえば、この過ぎた歳月を通して/半白となった鬢以外になにか見せるべきものがあるのだろうか。」
「以前と同じように私を喜ばしてくれることは/もう二三しか残っていない-
水辺の竹のほとりで書物をひろげること、/手の中で古代の玉をころがすこと、
杖を手にして名山にのぼること、/好ましい花々を前にして酒をくむこと、
書物を談じて好し悪しを言い、/怪力乱神を語って勝手な説をのべること-
こうしたことは矩を喩えているかもしれないが、/自分の心に従えば、七十の老人には許されることなのだ。」詳細をみるコメント0件をすべて表示