希望の教育学

  • 太郎次郎社エディタス
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  • Amazon.co.jp ・本 (334ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784811806631

作品紹介・あらすじ

いまある状態が、すべてではない。ものごとを変える、変えることができる、という意志と希望を失ったそのときに、教育は、被教育者にたいする非人間化の、抑圧と馴化の行為の手段になっていく。いまある所与の状態を引き受け、それを直視しつつ、誠実かつ老獪に「可能な夢」を模索する教育思想家フレイレの晩年の主著。

感想・レビュー・書評

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  • 楽天koboで読んだ。

    ブラジルで農村の識字教育に携わる著者が教育とは何か、何を目的にするのか、識字できない人は無学なのかという根源的な疑問に現場で気づいていく様子を見ることができる。メモしたい言葉が次々と出てきて、素晴らしい人物が教育に人生をかけていることがうれしくて、読んでいて泣いていた。
    ただ、『被抑圧者の教育学』という同著者フレイレの前著がメインで、この『希望の教育学』はサブである。読みやすいのは、後者の文献かも知れない。

    『被抑圧者の教育学』も長く絶版状態だったが、このたび周年記念版が発行され、お値段も安く手に入るようになった。そちらも合わせて読むべきと思い、購入し、積んである。読んだら、『希望の教育学』の内容も深く理解することができると思い、期待している。

  • 370

  • 先週読んだ本。

    「もし他人もまた考えるのでなければ、ほんとうに私が考えているとはいえない。端的にいえば、私は他人をとおしてしか考えることができないし、他人に向かって、そして他人なしには思考することができないのだ」(pp.163-164)

    対話というのはデモクラティックな関係であるから、他者の思考を使い、他者に向かっておのれを開く可能性の追求であって、孤立のなかに果てていくものではない。(p.167)

    スペイン人労働者の問題化のための学校…その理想とするところは、開かれた民主主義的な教育、問うこと、知ることへの情熱、好奇心、創造の喜びと危険をおかす喜び(危険をおかす喜びのない創造の喜びなんてありえない)を、子どもたちのなかに呼び起こすことだった。(pp.195-196)

    フレイレが、かれこれ32年前に話された言葉、けっして忘れることができなかった言葉として、講演後に、ある男が手をあげて語った言葉を書きとめている。男の話は、フレイレにとって衝撃だった。「目の前の聴衆の厳しい現実に無頓着であった」ことをフレイレは振り返る。

    「パウロ先生。先生は、ぼくがどんなところに住んでいるか、ご存じですか? ぼくらのだれかの家を訪ねられたことがありますか?」

    かれが描いた家の略図は、部屋などない、からだを押し込む狭苦しい空間があるだけのものだった。

    「先生。ぼくはあなたのお宅に伺ったことはありません。しかし、お宅の様子がどんなかをあなたにお聞かせすることができます。」

    そして男が語って聞かせたフレイレの家の様子は、まさに図星。ほんとうに別世界の、広々として快適げな空間が、フレイレの家。

    「先生の場合は、たしかに疲れてご帰宅ではあっても、そこには湯上がりの、こざっぱりした身なりのお子さんたちがいらっしゃいます。おなかを空かせることもなく、すくすくと美しく育った子どもさんです。わたしらが家に帰って出っくわすガキたちは、飢えてうす汚く、のべつまくなしに騒ぎたてているガキたちです。わたしらは朝の四時には目をさまし、辛くて悲しい、希望とてない一日を、また今日も繰り返さなければなりません。わたしらが子どもを打ったとしても、そしてその打ち方が度を越したものであるとしても、それはわたしらが子どもを愛していないからではないのです。暮らしが厳しくて、もう、どうしようもないのです」


    その時、フレイレはこの言葉をわかっていなかった。帰りの車の中で、フレイレは妻のエルザに、苦々しげに「理解してもらえなかったようだ」と語った。それに対してエルザは「理解していないのは、あの人たちを理解していないのは、あなたのほうじゃないの、パウロ?」と問いかけた。

    その日、フレイレは、ジャン・ピアジェのすぐれた研究を下地にして、子どもの道徳意識について、罰にたいする子どもの心的表象について、罰の原因となる行為と下される罰の釣り合いについて、当のピアジェの名を引用して長々と論じたてていた。親子のあいだでの対話的で、情愛のこもった関係が、体罰にとってかわらねばならぬ、と力説した。

    (以上、この衝撃の記憶のはなしはpp.30-34あたり)


    【?】

    …警官の存在は、ぼくらの対話を直接的にどうこうすることができなくても、それ以上の意味をもってその場を威圧していたのである。それは実際の権力が政府とは異なるところにあること、後者にたいする前者の圧倒的な優位を問わず語りに示していた。何といっても、あれは教育相によって発議され、政府によって支援された公的な集会のはずだ。にもかかわらず弾圧機関はそこに押し入って、諜報活動をおこなうだけの権力をもっていたのである。あたかも、あたかもではなく実際に、この国を動かしていたのは反動勢力だったのだ。(pp.271-272)

    「後者」と「前者」が逆???

    文意からすると
    「後者」=政府の権力にたいする、「前者」=(政府とは)異なるところにある権力の圧倒的な優位

    のように思うが、

    しかし、この訳文では
    「後者」=(政府とは)異なるところにある権力にたいする、「前者」=政府の権力の圧倒的な優位

    と、私には読める。ちゃうんかな~

  • ブラジルの教育者、パウロフレイレ。大衆教育の意義。

  • 分類=教育論。01年11月。

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著者プロフィール

(1921年9月19日~1997年5月2日) ブラジル北東部ペルナンブコ州に生まれる。教育学者、哲学者。「意識化」「問題解決型教育」などを通じ、20世紀の教育思想から民主政治のあり方にまで大きな影響を与えた。その実践を通じて「エンパワーメント」「ヒューマニゼーション(人間化)」という表現も広く知られるようになる。本書が代表作。

「2018年 『被抑圧者の教育学 50 周年記念版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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