自由の余地

  • 名古屋大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (342ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784815809966

作品紹介・あらすじ

われわれは完全に自由なのか? それとも自由とは幻想にすぎないのか? 進化論から認知科学、ギリシア哲学から実存主義まで縦横無尽に取り込み、コントロール、自己、責任などの概念を再吟味。望むに値する自由意志を、明晰な論理で描き出す、デネット哲学の原点にしてエッセンス。

感想・レビュー・書評

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  • ひさびさに楽しいレトリックを泳いだ。

  • 東2法経図・6F開架:151A/D59j//K

  •  訳者は哲学者の戸田山和久氏。恥ずかしながら僕は同氏の「哲学入門(ちくま新書)」で哲学に自然主義的哲学というサブセクターが存在することを初めて知ったのだが、同書で紹介される哲学者のうちで自然主義の第一人者とされるダニエル・C・デネットについて興味を覚え、近著「心の進化を解明する──バクテリアからバッハまで」も四苦八苦しながら何とか読んだ。本書「自由の余地」は36年前に出されたデネットの3作目。そのような古い著作を今頃翻訳した理由については訳者解説に詳しいが、本書を一読してもわかるように戸田山氏の前掲書の第6章「自由」と7章「道徳」の一部はほとんどこの本の要約だと言ってもいいくらいであり、ここからも戸田山氏が受けた影響の大きさが窺われる。

     本書のテーマは、我々人間が志向する「責任ある自由なエージェント」像に自然主義的な根拠を与えよう、つまり「自由意志」の日常的像を科学的像として回収しようというもの。訳者解説に詳しいが、デネットは日常的像の「自由意志」をカットバックして「欲するに値する(本書の副原題は “The Variety of Free Will Worth Wanting”)」自由にまで縮減する一方、科学的像の「自由」については直感や短絡を排してより緻密な物理的アプローチを採用するという「二正面作戦」を取っている。要は我々の日常的像と科学的像の双方を改訂して調和させよう、というもの。
     訳者の戸田山氏も(「哲学入門」前半の“主人公”であるルース・ミリカンも、難しそうなので未読ですが)そうなのだが、素人の僕にはこの「改訂的」なアプローチがどうしても「ズルい」ものに思えてしまって仕方がなかった。なんかゴールが動いてないか?という感じにいつも襲われるのだ。しかし本書でデネットの思索に改めて触れると、やはりこの「改訂」が単なるショートカットではあり得ず、どちらも損なうわけには行かない二つの像を何とか両立させようというデネットの苦心の現れなのだ、というようには一応思えてくる。「(完全な自由意志と責任が要請されるのであれば)われわれは科学的な人間観を完全に放棄するか、負けを認めるかのいずれかだ(p75)」。この「負け」ということばが趣深いではないか。ただ、一つ言わせてもらえれば、このデネットの二方面作戦のうち、科学的像方面の展開は他方に比べてかなり弱々しいように思える。いかんせん科学的な実験データの紹介が殆どなく、科学的な議論についてはデネットの攻撃する「直感ポンプ」的なアナロジーとしての活用に止まっており、自然主義を標榜する割には誤謬推理的なアプローチが大宗を占めているとの印象を受けたのだが、どうだろうか。

     第1章「化け物に餌をあげないで」──まずデネットは、自由意志を取り扱う際の形而上学者達のアプローチ「直感ポンプ」を批判し、その強迫的性により過度の簡略化と短絡に満ちた誤解、すなわち「望むにはもはや値しない肥大した自由」を科学に対して擁護してしまうというデフレーションを指摘する。僕は哲学者や科学者が用いるアナロジーの多彩さと強さにいつも驚いてしまうのだが、なるほどアナロジーによって不適切な誘導が行われる例もあるのだなと思った。しかし少々意地悪だなと思ったのは、後の章でデネット自身もこの直感ポンプを思い切り明示的に使用していること。こういう読者をケムに巻くようなところがデネットの魅力なのかもしれないが、こういうところもデネットの立ち位置を分かりにくくしている一因では、と思う。

     第2章「理性を実践的なものにする」──「自由意志とは意志を(自然ではなく)理性の命ずるところに従わせることである」とするカント的命題からスタートし、理性がいかにこの物質的で無目的な世界から生じたのかが論じられる。利己的な遺伝子が自分に有利な環境を志向するプロセスには理性が介在するわけではない。物理的世界に「理由(理性・意味)」はない。しかし我々人間をはじめとする動物には、理由を理解せずとも合理的に行動できるように見えるものがある。それは、脳が疑似的な「意味論エンジン」の役割を果たし、試行錯誤→学習→自然選択→熟慮能力の増強というプロセスを生じ、これがユーザー側には自分が自然そのものではなく理由(意味)に直接反応したのだ、という錯覚を生むからだという。一方で人間は、この因果的理解について極めて単純で直接的な因果関係のみを近視眼的に抽出する直感ポンプの働きにより、自分が因果関係により非理性的で無責任な行動に追いやられているという直感を持ってしまうという。ここでデネットは人間の脳がモジュール性を獲得し、内的コミュニケーションにより「自分に語りかける」能力、すなわち意識を獲得したという「なぜなぜ物語(科学的根拠を伴わないが蓋然性の高い仮説)」を動員する(この部分、以前読んだ「タコの心身問題(ピーター・ゴドフリー=スミス著、みすず書房)」の再求心性ループをちょっと思い出した)。この意識、すなわち自己モニタリング能力で自らの理由を認識することで人間は決定論と共存している、ということらしい。善悪のないホッブス的自然状態から、契約により構成的に善悪が生成されたように、利己的遺伝子がより有利な生き方を模索する中で「理由」が生じた。ここに機械に還元できない人間の理性が生じた、というのが、本書でも最も長い本章の結論のようだ。

     第3章「コントロールと自己コントロール」──決定論を排する際に直感が要求する「自己コントロール」とはそもそも何か。スキナーの行動主義(エージェントに欲求はない、あるのは認識可能な行動のみ)では「適切/不適切なコントロール」の区別がない。同様に我々も「コントロール」と「因果関係」を混同しがちだ。「適切さ」とは独立変数(コントローラー側の入力)と従属変数(コントローリー側の出力)の間の信頼ある結び付きを我々が認識できることを指すが、一方で我々は認識的に追跡可能なコントローラーを抽出してそれを「原因」と呼ぶ傾向がある。実際には因果関係の連なりにより、一義的な原因を決定することは不可能であるにもかかわらず、だ。無限の因果関係の先には必ずラプラス・デーモンがいて全てをコントロールしている。しかしそのようなコントローラーを恐れる必要があるだろうか?それは失ってもいい自由なのでは?スピノザのいうように、母なる自然はいかなる目的も持っていない。だとするならば、我々の利害に都合が良いように選択肢を駆使できるよう「自由の余地」を広げる戦略を取るべきだが、その時に要求されるのがノージックのいう「均衡状態」、すなわち環境やその他のエージェントからのコントロールの存在を「知りながら影響される」状態だ。コントロール不可能なランダム性など望むべくもない。ならば(逆説的ではあるが)合理性をいくらか犠牲にしてでも(若干環境からコントロールされながらでも、それを知りつつ)メタレベルの自己知を駆使しながら迅速な意思決定を優先する、というのがコスト・ベネフィットの面で「合理的」なやり方だろう。望むに値する自由とはこういうものなのでは?

    第4章「自家製の自己」──自己を責任あるエージェントとみなし、事物として自然内に基礎付けることは可能か。デネットは、責任ある存在は行為する際に不動の動者たらねばならないとするチザムらの「エージェント因果」を錯覚だとして厳しく批判する。因果関係を正確に把握できない我々の知覚器官の構造がそうさせているに過ぎないという。では行為決定はどこで行われているのか。デネットによればそれは内観によっては捕捉され得ず、決定の現場を自ら経験することはできない。むしろ、我々が推論の要求する場所に「決定」を事後的に挿入しているのだという(これが後のリベットの準備電位実験に対する批判に繋がったのだろうか?)。
     サルトルの「根源的選択」やエドワーズの「最初のステップ」などの「絶対的エージェント」としての選択をハードな決定論と組み合わせると、連鎖推論によっていかなる主体的な決定もあり得ないことになってしまう。これに対しデネットは、「完全に自家製の選択」などそもそもあり得ず、論理的可能性という制約的プロセスの中で、自己コントローラーが自らの自由の余地を確保するために用いるメタレベルの決定を用いるしかない、という。一方、メタ的な自己評価を根源的なレベルで行うには「運」と「スキル」の相補的な作用を認識しておく必要がある。「熟慮」と「自己コントロール」というスキルにより、我々はそれなりにうまくやれる「責任あるエージェント」だが、「運」に左右されることもあるという、それだけの存在なんだよ、とデネットは言っているようだ(こう書くと何だかミもフタもなくなってしまうが、デネットの調停的で改訂的なアプローチは、詰まるところ両極論のコントラストを徐々に薄めていくやり方なので、結論だけ取り出してしまうと何だか当たり前でつまらない感じが出てきてしまうのは仕方がないと思う)。
     ともかくこの章までで、自己コントロールやメタ的自己評価能力を持つ、自然主義的に定義された自己であれば、決定論的な世界と矛盾せずに自由意志を持つ主体であり得ることが示されたことになる。

    第5章「自由という観念のもとで行為する」──我々が意志決定する際、我々は「熟慮」してそれを行う、ということになっている。この熟慮は決定論的世界の中で意義を持っているのだろうか?全てが決まっているなら足掻いても無駄なのではないか?デネットはまず、「決定論」と「宿命論」を混同すべきではない、宿命論は局所的にはあり得ても全世界を覆うものではない、という。僕にはここが最初うまく飲み込めなかったのだが、どうやら決定論「決定」というのは物理的法則により事物の間の因果関係が予め「決定している」ということを指すらしい(読んだばかりのスピノザ的因果ネットワークを連想したら理解できた)。それならば熟慮によってより好都合な結果を導こうという行為には意義があるとするのは合点がいく。我々は、自分を取り巻く環境の因果の流れを所与として、そこから影響を受けるものとしての自己をセルフモニタリングしながらコントロールしているのだ。
     ところでその際には、処理すべき情報が膨大になってコストがかかり過ぎないよう、処理タスクを単純化する必要があるが、その際の単純化により、熟慮者が世界を自らの戦略に利用できるような形で「概念把握」する、すなわち世界がとりうる状態ごとに予測可能なものとそうでないものに分類し、熟慮により変化が期待できるかどうかを検討する余地が生じる。世界の中でこの「私しだい」である範囲、熟慮という資本を投下すべき領域を見分けること。日常的な世界像と「科学的世界像(セラーズ)」を臨機応変に行き来ながら「チャンス」を探すこと。これが決定論的世界における熟慮の機能だというのだ。
     この章の最後でデネットはある事物が「不可避であった」という概念に改訂を迫るのだが、ここが面白い。「回避した」というのはある出来事の事前予想が信頼性の低い仕方でなされていたことを指しており、したがって「不可避」という言葉は因果関係を含意するものではない、というのだ。日常的像のみを捉えがちなマクロスコープ的な我々の世界認識のあり方のせいでブラインドになっているが、ある出来事が「因果的に必然」でありながら「不可避」ではない、ということがありうるというわけだ(ダニエル・カーネマンらの議論に通じるところがあるように思われた)。

    第6章「ほかのようにもできたのに」──責任ある自由なエージェントであるためには、「他行為可能性」がありながらもその行為を選択した、というのが必要条件だとする立場がある。デネットは両立論の立場からこれを批判し、他行為可能性は重要な問題ではないという。マルティン・ルターの「私にはほかのことはできない」という決意表明は、十分に称賛/非難の対象になり得る。なぜならそれは合理的な自己コントローラーであることの表明に他ならないからだ。「責任」とは、非難の対象となりそうな行為の可能性を自らに生じないように自己と周囲の環境をコントロールすること。であるならば、決定論的な因果による制限を受けながらも、いやむしろ「受けるからこそ」責任ある自由な選択が成立するのであり、すなわちここでも決定論と自由意志は両立する(決定論の中でこそ自由意志が成り立つ)、という一見逆説的だがストライキングな主張である。戸田山「入門」でも強調されていた通りやはりここが本書のヤマ場であると思う。量子論的に揺れ動く世界が全く同一のミクロ状態に再び落ち込むことはあり得ない。とするならば、エージェントが他のようにもできたかどうかを知ることに、形而上学的な意味以上の何があるのか?そのような同時並行的な他行為可能性など夢想の役にしか立たないではないか?
     では実践的な「他行為可能性」の価値とは何だろう。通常それは失敗のコンテクストで用いられる。とすれば、その行為と結果からどうやったら有用な情報を引き出せるか、次の似たような状況のもとでは違う行動ができるようになるか、がカギになるだろう。そういう未来志向的な努力こそが重要だという。すると「そういう努力すらも決定論下では無力では。所詮可能な事態というのは現実に成立した事態だけなのだから」というJ.L.オースティン「現実主義」的懐疑論にはどう対処すればいいだろう。デネットは、A.M.オノレの「できる」という語の両義性についての主張を引用し、特定的(ある特定の状況下でならいつも「できる」)な語用と一般的(的を射た仕方で「できる」)な語用のうち、我々は後者の能力、すなわち自己コントローラーが持っている知識に対応した可能な事物と状態を選り分ける能力に焦点を当てた「できる」を志向しているのだから、特定的「できる」の方は引っ込めるべきだ、としている。

    第7章「われわれはなぜ自由意志を望むのか」──デネットの抑制的な「自由」のもとでは、「責任」という概念の根拠がやや不明確に見えてしまう。しかしそもそもなぜ我々はそれほどまでに「責任」ある主体と見做されたがるのか?ニーチェによればそれは神や先祖たちに対して我々が有する債務からの派生だとされているが、しかしそのような概念が当然望まれているはずだとするのは論点先取ではないか?
     第4章以前で見たように、決定論を完全に超越したところでの理性や自由は我々にとって過剰であり意味がない。とすれば、これらの縮減した概念に対応する道徳・責任を見出だす必要がある。我々の社会では、規範を維持するためには有責と無責の間に何らかの線引きが必要だが、有責者であっても不完全な理性と自由のもとに生きているなら、我々はどこに線を引けば良いのか?デネットは、それには公益主義的なコスト・ベネフィットアプローチが有用だとする。まずは効率的なシステム維持のための plausible な閾値を見出して(第6章でオノレの「現実主義」で特定的「できる」を排除したのと同じロジック)、法的に有責性を問えるシステムを整えることが優先し、有責性は後から結果的に構成されれば良い、というのだ。第6章の議論もそうだが、こういうところを読むと、デネットというのは意外に実践的な哲学者なのだなあ、という思いを強くする。

     訳者によれば著者の著書の中で最も短いとのことだが、短さを実感できることなくやっとのことで読み終えられた、というのが正直なところ。何しろデネットの主張は、とてつもなく広大な科学的・哲学的バックボーンからその都度ピックアップされる知見から構成されているため、論旨を一文や二文で要約することがとんでもなく難しいのだ(著者自身も自らの主張を引用する際、「第○章で論じたように」などとしている。まるで要約を拒んでいるかのようだ)。拾い読みしようにも、その部分の前後をかなり広く読み返さないと理解ができず、僕のレビューもこのように長ったらしいものになってしまう(理解がいい加減だからでもあるが)。まあ、戸田山氏ですらも「入門」でデネットを扱う際アンチョコを使用したというのだから(同書「参照文献と読書案内」より、ただ未訳の段階の話なのだからやはり学者はすごい)、門外漢の僕などが苦しむのなんて当たり前だろう。でも楽しい読書体験だった。

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著者プロフィール

Daniel C. Dennett
1942年生まれ。1965年、オックスフォード大学より哲学博士号取得。現在、タフツ大学名誉特任教授・同大学認知科学研究センター所長。現代英語圏を代表する哲学者の一人。著書も多く、近著としてIntuition Pumps and Other Tools for Thinking, 2013(『思考の技法――直観ポンプと77の思考術』)、From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds, 2017(『心の進化を解明する――バクテリアからバッハへ』)などがある。

「2020年 『自由の余地』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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