対訳でたのしむ葵上

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  • 檜書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (26ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784827910162

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  • 素人が学ぶ能。
    少し中断していましたが、久しぶりに1つ読んでみました。
    (*参考にしていた能の講座が、コロナ禍でお休みになってしまいまして。少し前からオンラインで再開されました。)

    日本文学史上、最も有名な生霊といえば、『源氏物語』の六条御息所ではないでしょうか。
    並ぶものない高貴な貴婦人。先の東宮妃という身分の高さに加えて、教養も美しさも最上級です。
    しかしこの貴婦人は、年若き光源氏とのままならぬ恋に身を投じてしまいます。薄情な若者は、次第にこの年上の才女を重荷に感じるようになり、通う足も遠のいていきます。これは御息所としてはひどい屈辱です。
    折しも、見物に出かけた葵祭の場で、御息所の一行は源氏の正妻の葵上の一行と出くわし、さんざんに辱められてしまいます。嫉妬と憤怒で生きたまま怨霊となってしまった彼女は、葵上に取り憑き、命を奪うほど苦しめます。
    能の『葵上』は、このエピソードを元にした演目です。

    タイトルは『葵上』ですが、葵上は役としては登場しません。舞台の上に横たえられた小袖が病に苦しむ葵上を象徴的に表します。
    葵上が苦しんでいるため、物の怪を呼ぶ巫女がまず招かれます。巫女の法により、御息所が現れ、葵上をさんざん打擲します。作中では「後妻打ち(うわなりうち)」と言っています。これは、正妻が妾を、あるいは先妻が後妻を打つ行為を指します。本来なら御息所はその立場にはないのですが、まるでそうするのが正しいかと思わせるほど、彼女は高貴であり、年長でもあり、堂々たる貴婦人なわけです。

    それほど高貴であるならば、年若い不実な恋人など忘れてしまえればよかったのです。
    嫉妬に苦しむ自分など、御息所本人もまったく不本意なのです。生霊などという浅ましいものになりたくはなかったのです。
    けれども源氏が恋しい。本妻の立場を笠に着て、自分を辱めた葵上が許せない。そしてその葵上が恋しい源氏に大切にされることが許せない。
    内向した哀しみと怒りが噴出し、葵上へと向かいます。

    謡の文句には、源氏物語原文からの引用はまったくないのですが、御息所が車争いを思わせるような「破れ車」に乗って出て来たり、また謡の中に源氏物語の巻名が織り込まれていたりと源氏の世界を彷彿とさせる工夫が凝らされています。

    前半は泥眼、後半は般若の面を着けた御息所は、もちろん怒ってはいるのですが、目元は泣いているのだそうです。
    思ひ知らずや 思ひ知れ
    恨めしの心や、あら恨めしの心や。人の恨みの深くして

    と訴える御息所は、激しく怒り、恨み、妬みながら、心の奥底で、何よりも悲しんでいるのかもしれません。
    嫉妬に苦しむ、ままならない心を抱えて。

    演目の最後で、御息所の魂は仏の力によって救われます。ありがたいお経の功徳で悟りを開き、嫉妬心からも救われます。
    原作では、葵上を取り殺した後も、源氏を取り巻く別の女人たちに祟ることになるのですが、ここはこの演目が提示する「救い」を信じてみたいところです。
    激しい嫉妬といったどうしようもない思いから逃れるには、人知を超えたものにすがるしかないのかもしれません。

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著者プロフィール

早稲田大学名誉教授、東京生まれ。
早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。
著書に、『観阿弥・世阿弥時代の能楽』(明治書院)、『風姿花伝・三道』(角川学芸出版)他がある。

「2023年 『対訳でたのしむ百万』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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