時代が見える人物が解かる 源氏物語

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  • Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784828414133

作品紹介・あらすじ

受験生・お父さん・お母さん・おじいさん・おばあさん必読、日本人なら一度は味わってみたい1000年の愉悦。

感想・レビュー・書評

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  • 紫のゆかりの少女が父親である藤壺の兄に引き取られていたら、きっと東宮や帝の妃候補になるだろうから、光源氏の手が届かない存在になってしまうだろうから、光源氏は紫のゆかりの少女を誘拐したのか。ひどい誘拐ではあるけど、事情はわかった。

    風巻景次郎も清水好子も気に入った。

    第一部 やさしい源氏物語 風巻景次郎
    「伊勢大神宮は皇室の祖先の天照大神をおまつりしてありますので、皇室で特別大切にされて、わざわざ(皇族の)姫宮をさしむけられるのです。」p.56

    「源氏の亡き母は大納言の娘でした。その大納言の兄弟だった大臣の息子が、中将の時に朝廷づとめをあきらめて、播磨の守になりました。そして役目をやめてからもそのまま播磨の国にいついて、ひじょうに大きな荘園を持つようになりました。そして秋篠浦に壮大な邸宅を構え、一家の者には都以上の生活をさせていました。いまはすでに出家をしていますが、この明石の入道にはただ一人の娘があって、目に入れても痛くないほど大切にしています。これだけ聞けばわかるように、明石の入道は亡き母のいとこで、この明石の姫君と源氏とは再従兄妹(またいとこ)に当たるのです。入道は源氏が須磨へきたのを、長年の間祈願をかけてきた住吉の神のお導きであるように思って、とうとう明石の邸宅へ婿として迎えとります。」p.62

    「『源氏物語』は人間の個人の運命、他人はあまり気が付かないけれど個人の心の中では、その人の考え方感じ方を左右するほどの力を持っている個人の運命といったものを非常に重く見ている。」p.103

    「歴史の方から見るとあの道長が、「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と満足しきっていたのに、『源氏物語』を生んだ心は病んでいました。その症状は、遠くから見る場合、よういにつかむことができませんでした。それを正しくつかんだ名医は、本居宣長という江戸時代の有名な学者です。それはかれが小児科医を職業にしていたからではありません。それはとにかく、かれは『源氏物語』は「もののあはれ」をうつしたものだと説明しました。かれの説明によると、もののあわれは、純粋な切実な溜息だということになります。ほんとうに『源氏物語』全体にひびいているこの溜息こそ、この物語を生みだした主体が病める薔薇であったことをなによりもよく伝えているのです。
    実は病むことによって、実に作者は誠実になりました。その時代において、どんな人よりも内側のじぶんに対して最も誠実になりました。その内的な誠実さが、この物語を千年の後までも人に感銘を与え、時代を越え、階級を越え、ついには民族をも越えて、感銘の仲間を次第に多くしていこうとしているのです。」p.114‐115

    花山天皇が退位したことで、一条天皇が7歳で即位すると、一条天皇の祖父である藤原兼家は摂政として権力を握るようになった。

    990年
    兼家の死後は長男の道隆が代わって摂政になり、道隆の娘の定子は一条天皇の女御から中宮に位が上がった。
    翌年には、定子の兄の伊周が弱冠18歳で権中納言になり、異例の速さで内大臣にのぼりつめる。

    994年
    都で疫病が流行する。
    民衆も公達も大勢が無くなった。(この時の疫病で、和泉式部の恋人だった為尊親王(ためたか)が亡くなったのかと思って調べてみると、亡くなったのは1002年だった。)

    995年
    関白道隆が亡くなり、道隆の後を継いで関白となった道隆の弟道兼も数日で亡くなる。
    次の関白の座を、道隆の長男伊周と道隆の弟道長で争い、道長が関白の座を勝ち取る。
    しかし、道長だろうと伊周だろうと、藤原家以外の人にとっては兼家の血筋であることに変わりはなかった。

    996年
    伊周が弟の隆家とともに長徳の変(花山院闘乱事件)を起こす。

    1000年
    道長が娘の彰子を一条天皇の女御にし、中宮にするために、もともと中宮であった定子を皇后の位にする。
    父は死に、兄も失脚して後ろ盾の無くなった定子はこの年に亡くなる。享年25歳。
    この時、紫式部は23歳ぐらい。

    兼家の正夫人時姫も、歌人として高名だった道綱の母も、ともに受領階級の人だった。
    兼家の子道隆の正夫人貴子もまた受領階級出身だった。

    「せまい京都の中、少人数な最高権力者の家族の中の一人一人について、家族主義の社会しか知らない当時の人々は、家筋のやその運不運やについて、念入りに正確に飽くなき興味をもって語り伝え、それはまったく常識となっていたと思われます。時姫・貴子・道綱母たちは、またその父である摂津守中将・大和守成忠・大和守倫寧は、いまや受領階級の全部の人々にとって有名な人物になりました。と同時に受領階級の人々にとって、それらの人々のきらびやかな運勢は、じぶんたちにも起こりうるかも知れぬという期待を伴った錯覚を与えるもとにもなったでありましょう。」

    「彼女のそうしたじぶんの内面にたてこもって、じっと独りじぶんを見つめているような、頭が良くて鋭くて、それでいて本心はなかなか外へ出せなくなってしまったような不幸なところのある、いくぶん傷められた心というものは、格段に敏感なのが普通です」p.96

    「兼家一族が受領の女を母として、この世の絶頂の栄華を現出していたとしても、それははやくも過去の物語になろうとしていました。道隆の夫人貴子は受領の女として二位にのぼりましたが、その子伊周も定子もいまはすでに叔父道長のためにおさえられる身の上になっていました。そして貴子は長徳二年(996)、伊周の流された悲嘆のうちに世を去りました。これも受領の女の道綱の母はそれより一年はやく長徳元年(995)に亡くなりました。そして皇后定子も長保二年(1000)には崩くなってしまいました。これも受領の女時姫の子であった道長の姉(一条天皇の国母)もつづいて長保三年(1001)に崩くなりました。そして、ただ一人いまをときめく道長の室倫子はもう受領の女ではありません。宇多天皇からわかれた左大臣源雅信の女です。道長には二人の北政所(摂政関白の夫人)があるとさえいわれた、いま一人の高松殿明子は醍醐天皇からわかれた左大臣源高明の女です。一条天皇の中宮となって皇后定子を圧してしまった彰子は、その倫子の生んだ女です。」p.97

    「御堂関白道長の絶対支配のもとでは、受領の女はもう雲の上に飛ぶことも、身に羽衣をつけることも夢にすぎませんでした。」p.97

    道長の正夫人源倫子は天皇家につながる貴族出身。
    道長が権力を握ったことで、上流・中流・下流の階級意識が固定化され、受領階級の夢は儚く消えた。
    そのやぶれた夢から、紫式部の創作ははじまった。

    第二部 「源氏物語」要約 清水好子
    帚木 ははきぎ
    「彼女にしてみれば、光源氏との夢のような一夜は、かえって、古受領の後妻に決まってしまった運命のほどが情けなく、将来を味気なく思わすばかり、それならいっそ、この恋をふっつり諦めた方が苦しまずにすむ、女は二度と光源氏に会わぬつもりである。あれほどちゃんと計画して、確かにそれとめざして来たのに、いざとなればかき消えてしまう――まるであの古歌に詠まれた帚木のように、ありとは見えて会えぬ女ではないか。」p.132

    幻 紫の上の死後の一年間
    「菊の節句、大空を渡る雁が今年もやってくる。源氏の歌、

    大空を 通ふまぼろし 夢にだに 見えこぬ魂の 行方尋ねよ

    まぼろしとは昔、玄宗皇帝の命をうけて天馳りつつ、楊貴妃の魂をたずねた幻術士のことである。」p.226

    源氏の父の桐壺帝も桐壺の死後に似たような歌を読んでいたな。

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