- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784831871725
作品紹介・あらすじ
生の意義、すなわち世界の意義を我々は神と呼ぶ。祈りとは生と世界の意義についての思索である。「生活形式」「言語ゲーム」「文法」などの概念を応用し、ウィトゲンシュタイン哲学が現代宗教思想と切り結ぶ最前線のドラマ。
感想・レビュー・書評
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決して難し言葉で書いてあるわけではないが、飲み込めなかった。はっきりと像を結んでいるわけではないが、何となく感じる部分はあったので良しとするか。まだまだ力不足。
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ウィトゲンシュタイン(学派)の宗教観
メモ)
§1
・「意味」
前期:対象(単一体)を指示する/に対応する = 写像
後期:言語は特定の仕方で使用される手順によって意味を得る
哲学は言語の使用を記述するのみ。実在という独立な枠組みに基づいて可能性を規定することはできない。
・前期の宗教
<1916年6月11日 祈りとは世界の意義についての思索である。/世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。/私は出来事への影響をもっぱら断念することによって、自分を世界から独立させることができ、したがって世界をある意味で支配しうる。>
<1916年7月8日… 神を信じるとは、世界の事実によって問題が片付くわけではないことを見てとることである。…>(『草稿一九一四―一九一六』)
(台詞「この世になにが起ころうと、自分は困らない」)=事実に対して独立した自分...<世界があるというその事実...>
<…ことばが語られるとすれば、そのこと自体が宗教的行為の構成要素であり、理論ではない。それゆえそのことは、ことばが真実であるか否か、偽りであるか否か、無意味であるか否かといったことにはなにも関係しない>
第一階(first-order)の宗教言語は存在する = 宗教はそれ自体以外に還元不可 ; 第二階(メタ)は非難さる
<「語り得ないものという神秘的なものの特徴がいかにして彼の議論から導かれるか」を理解するのは困難>
・後期の宗教
「一つの言語を想像するということは、一つの生活形式を想像することに他ならない」探求19節
「生活形式」Lebensform …引き受けるべきもの、与えられているもの
cf.「根拠のない前提が終点になるのではない。根拠なき行動様式、それが終点なのだ」確実性
・「言語ゲーム」
―論理は様々なゲームの内部において見出される。言語ゲームもまた与えられたものである。
「我々の錯誤は、事実を『原現象』と見るべきところで説明を求めること。すなわち、このような言語ゲームがおこなわれている、というべきところで」探求
§2
「文法」_「文法は本質の中で述べられている」「あるものがいかなる種類の対象であるかは、文法が述べる(文法としての神学)」「文法におけるその語の位置がその意味」
p50 信念や「像」が試験的に維持されたり、仮説的に維持されたりしないのは、… 「根底的」信念
信念の真理は無類
「あることばがどのように理解されるかは、ことばのみによっては語れない」(『断片』)
・前期と後期の宗教観―言語の周縁に向かう衝動と 内的限界への進入―
初期では「言語の限界」は厳密で、ア・プリオリに位置づけられる。
後期では、あらゆる言述を包摂する最後の境界線ではなく、言述の諸領域のあいだにある境界線に注意を払う。ひとつの境界線ではなく、複雑に入り混じった諸領域がある。領域はア・プリオリにではなく、それらが変動する過程によって経験的に決定される。
探求では、諸領域に境界同士の内側[中間地点、境界線上]にに位置する時にナンセンスとなる。
・宗教的「像」の理論
フィリップス:宗教的信念は世界に対する全一的態度を意味する。
「どうしてある宗教的信念を持つか」の問いは無意味
「諸価値はそれ自体のために信奉されている。何故ならそれらは現にあるものだから」
・信念の論理空間としての像
像は意味/無意味がその内部で語られる枠組み、空間、領域
宗教的「像」とは可能性の全集合。像の文法が意味を決定する
信念の絶対的性質 「不死」は事実的な議論ではない
シモーヌ・ヴェイユ…虚無の需要 ←→ ニーチェ「それでもなお、生きること、太陽の暖かさを感じること!」
(フィリップス:神の現前はありうる。しかしそれは自分が心に抱く神とは関係がない)3章原注
§4
・宗教的信念は独特なものか p98
<ある人の語り方や行動の仕方が彼にとって祈りの効能は因果的であることを意味するならば、その人は祈りについての自分の信念を、因果関係についてわれわれが知っている視点から正当化しなければならないだろう。>
宗教一般についての発生論的/還元主義的説明への対抗
神は信仰を持つ人の言語において意味が見出される
「征服しがたい夏」「運命」「所与」(カミュ)―「神」「恩寵」「犠牲」(フィリップス)
誤った認識論「日常言語の標準的使用があり、これがあらゆる使用の規範を提供する」と仮定すること p108-
ウィンチ<「特定の諸事実は与えられている、と言えるかもしれない。しかし、このことは、事実という概念が与えられている、ということではない。事実という概念は人々の生活の仕方から生まれるものである」>
コペルニクス的転回は唯一の事実の発見ではなく、パラダイム(クーン)の転換である。この新しい見方では、「地球」「運動」の意味が必然的に変化している。
理論に依存しない「事実」という単純概念はありえない。
「存在する」「実在的な」ということばの二つの意味 p110
1.脈絡的存在―「ドド(鳥)はまだ存在しているか」…物質的対象について語る言述の脈絡の中で理解可能/「私は苦悩を軽減するという義務が本当にあるだろうか」…道徳的議論領域のうちで理解可能
2.形而上学的存在―「物理的世界は存在するか」「道徳的義務は存在するか」
…1のカテゴリに属する問いは大体において答えられうる、何故ならそれらの問いは科学的/道徳的に考えるための脈絡がすでに決定されていることを仮定しているからである(=経験はある特定の仕方で構成された)
彼らの「基準の多様性の強調」は「一般性への渇望」への批判である。
つまり、実在そのものを測る大きな共通の尺度はないということ。
ウィトゲンシュタイン:「これらの物理学的理論のうちの一つが正しいものに相違ない」という言述と、「キリスト教の倫理が正しいものだ」という言述とは類似していない。
…以下のように言うことは不適当
1.《ある特定の倫理体系を、事実であるものを表現する他の諸理論と競合しているという意味で「正しい」と言うこと》
2.《あらゆる倫理体系はみな等しく正しい、と言うこと》(「これは何物も意味しない」)
3.《ある一つの倫理体系はある人々にとって正しいと言うこと》(「これは、各々の倫理体系はその人が判断するように判断される、ということしか意味しないだろう」)
「倫理体系(および宗教的信念)は命題的信念をもった仮定や信念ではない」 倫理体系は価値の表出である
(ゆえに「概念的相対主義者」との批判はあたらない p123)(宗教的信念を命題的理論とみなす場合にのみ、この批判は適切)
ウィトゲンシュタイン:根本的で非命題的な傾倒 = 「世界像」(『確実性』)
根本的傾倒が決定する。それゆえ、そうした傾倒や世界像を所有することの理由付けはできない。
(→問題は相対性から恣意性へ移る?)
(真理=信念:外的テストに依存しない)
<「真または偽」という表現の使用は誤解をまねきやすい。そう言えば、「それは真実と一致する、一致しない」と言っているように響くが、本当の問題は、ここで「一致」とは何であるかという点にあるのだ。>(『確実性』) p128
絶対的確信、生起することにまったく依存しない
ウィトゲンシュタイン:信者は自分の信仰を合理性に関する事柄とはみなさない
<ウィトゲンシュタインはいかなる理論も提示していないけれども、われわれの精神的痙攣を癒すために、「活動としての哲学」を前進させているのである> p175